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No.725 心の花の咲く男

我が住まいする団地内にある隣の班の「ごみステーション」は、雑木林を開墾して造られた団地であることを証明するような両者の際のコンクリート塀の傍にあります。
 
その「ごみステーション」は、直角三角形をした空き地の片隅に設けられています。この土地は、持ち主がいないのか長い間放置されたままです。伸びた草に、朝鮮朝顔がからみつき、我がもの顔で生い茂っていました。
 
そのごみ置き場のすぐ近くにある民家に、私と同い年の夫婦が移り住んで来ました。御主人は、勤め人のようですが、朝早くから起き出して何かしら体を動かしています。趣味というには凄すぎる、こちらの恐れ入るようなことを平気でする人物です。
 
例えば、団地と雑木林をコンクリートで区切っている(高いところでは3mほどある)わけですが、コンクリートから1mほどの際に生い茂っている雑木やら雑草を、雨の日は除く毎日、切ったり、掘ったり、刈り取ったりして、初夏から秋までの数か月をかけて100m近くを、たった一人で整備してしまいました。しかも、朝の7時前のほとんど人通りのない時間帯に黙々と行っていたのです。
 
大分県中津市本耶馬渓町には「青の洞門」という手作りのトンネルがあります。江戸時代、この地区の人々や通行人は、高い岩壁に作られ、鉄の鎖を命綱にした大変危険な道を通っていたそうです。諸国を巡礼の途中で耶馬渓に立ち寄った僧・禅海は、この危険な道で人馬が命を落とすのを見て一念発起し、享保20年(1735年)から自力で岩壁を掘り始め、雇った石工たちとともに鑿(のみ)と鎚(つち)だけで掘り続け、30年余りの歳月をかけ、遂に宝暦13年(1763年)に完成させたといいます。
 
全長は342mで、そのうち144m(高さ2丈、径3丈、長さ308歩)の洞門(トンネル)を完成させました。寛延3年(1750年)には第1期工事落成記念の大供養が行われ、それ以降は「人は4文、牛馬は8文」(江戸中期の1文は20円~30円前後?)の通行料を徴収して工事の費用に充てており、「日本初の有料道路とも言われている」とは、中津耶馬渓観光協会のHPに教えていただきました。
 
この実話をもとに、菊池寛は大正8年(1919年)『恩讐の彼方に』(中央公論)という短編小説を書きました。主人公の僧・禅海は了海として描かれています。ご一読を。
 
私には、知り合いとなった彼が、今どきの禅海和尚に見えました。誰も通らないようなところですが、気持ちよい眺めにしたいという一念で始め、数か月間励んだ末の光景は散髪をしたようにすっきりとしています。夏には、早朝だというのに、既に汗が流れていました。ゆるぎない心が、その丁寧な仕事に表れているように思いました。
 
さて、その一大作業が終わって一か月も経たぬころ、今度はあの「ごみステーション」の傍の直角三角形の空き地を一人で耕し始めました。ブルドーザーでガガガガッと土地を均した団地の跡地です。石ころがずいぶん出て来たそうです。数日後の午前6時すぎ、もう仕事を始めていました。石ころを積んで垣にしています。土が流れ出さないようにし、水の流れを良くしようと考えたと言います。
 
「花壇にしたら、ゴミ出しに来た人が目を休めてくれるかなと思って」
彼は、この空き地を花でいっぱいにしようと考え、花の苗の入ったポットをいくつも用意していました。おそらく自腹で買ってきたのでしょう。
 
誰にも知られることのない無償の行為ですが、そうしないではおられない内なる欲求が彼を荒れ地に向かわせるのでしょう。花よりも先に、彼の心の花が咲いていました。

※画像は、クリエイター・MITSUDA Tetsuoさんの、タイトル「ページタイトル用」をかたじけなくしました。このページにピッタリです。お礼申します。