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No.525 人としての愛と希望があったのでしょうか

「恩師と紙上再会!」
そんな見出しで、私の通信は書き始められていました。大学の学部創立百周年を迎えた年に、校友会長だった恩師の寄稿が会報に載せられているのを見つけたのです。一部抜粋になりますが、今から11年前に95歳で隠世された恩師が、84歳の時に綴った文章を紹介します。

 「(…略)思うに、生きることは辛く淋しいことである。人は皆それぞれ何かしら自分だけに与えられた特別な運命をもっていて、それを切り開こうと永遠に満たされることのない旅をしているようなものだと思う。学問も芸術もすべてその路傍に築かれた一里塚に等しい。この一里塚によって、後に生まれて来た人々は悲しみの尽きない旅にいて、せめてもの慰めをもつのである。そして人は手に手を取って、次から次へと一里塚をたどって、助け合いながら巡礼の旅を続けて行くことであろう。そして巡礼の子にとって、常に心の糧となるものは何。信頼と希望と、そして愛。(略…)」

ふと、若山牧水の歌が思い出されました。
「幾山河こえさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」

これは、1907年(明治40年)夏の、牧水23歳の時の作だそうです。大学の休暇を利用し、病身の父の見舞いも兼ねて帰郷したのですが、その途中で、早稲田大学の学友で岡山出身の有本芳水の勧めもあり、初めて岡山・広島の道を歩いた時に生まれた歌です。
 
その時、有本に宛てた手紙には、
「君のすすめで、岡山に来て、駅前に一泊した。翌日は草鞋脚絆に身を堅め、浴衣がけで雑嚢を肩にし、湛井までは汽車、それからは徒歩で高梁にて一泊。それから阿哲峡に来て渓流を眺めた。新見からは西に折れ、備中備後の国境の二本松峠に来たが、ここで日が暮れた。山寺がありその前に熊谷屋という旅人宿があったので、ここに泊まることにした。
 寝床に入ったが、寂しさが身に染みて寝つかれない。夜ふけの山中はただ風の音と谷川のせせらぎが聞こえるばかりである。さびしさのあまり歌ができた。
けふもまたこころの鉦を打ち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く
幾山河こえさりゆかばさびしさのはてなむ国ぞけふも旅ゆく」
と書かれてあったそうです。
 
既にこの頃から、牧水は人生に対して懐疑的となっており、自分はこの世に生きていてよいのかという根源的な悩みにとらわれていたといいます。人生を達観するには早熟の、それでいて、追い求め追い続けても癒されることのない無限に続くさびしさに思いを馳せた老境とさえ思われる歌の世界観が広がっています。

旅をしながら寂しさの果てる国を夢見て歩き続ける行為は、多くの人々が指摘するように、あのカール・ブッセの詩にある
「山のあなたの空遠く幸い住むと人の言う」
という理想的な、桃源郷のような国のイメージなのでしょうか。現実には程遠く、あり得ない国への憧れは、一層の苦悩や寂しさを掻き立ててしまうのかもしれません。しかし、そこには人間への深い愛と、人間なればこその希望が横たわっているように私には思われるのです。
 
23歳という若さにして人の世をはかなんだ牧水の乾いた心が、115年経った今も日本人の共感を呼び続けているのです。