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No.829 「ワンダフル」で「不思議に満ちた」お話

『十訓抄』は、鎌倉時代中期、1252年(建長4年)の成立とされる教訓説話集です。その上巻の「第一 人に恵みを施すべき事」の21番目に次の面白い話が載せられています。これは、機転を利かせて目上の人へ気遣いをし安心させる成功譚で、大人の洒落というか、才知ある言動に「ほ」の字の私です。少し長めですが、ぜひ、ご一読ください。
 
(本文)…まことや、この御時、一つの不思議ありける。上東門院の御方の御帳の内に、犬の子生みたりける、思ひかけぬありがたきことなりければ、おほきに驚かせ給ひて、江匡衡(ごうきょうこう)といふ博士に問はれければ、『これめでたき吉事なり。犬の字は、大のそばに点をつけり。その点を上につけば天なり。下につけば太なり。その下に子の字を書きつづくれば、天子とも太子とも読まるべし。かかれば太子生れさせ給ひて天子にいたらせ給ふべし』とぞ申しける。そののち、はたして皇子御誕生ありて、ほどなく位につき給ふ。後一条天皇これなり。匡衡、風月の才に富めるのみならず、かかる心ばせども深かりけり。

 同じ帝、生れ給ふ時、上東門院ことのほかに悩ませ給ひければ、御堂入道殿さわがせ給ひて、御前より御障子を開けて走り出でさせ給ひて、『こはいかがすべき、御誦経(みずきょう)などかさねてすべき』と仰せられけるあひだ、御言葉いまだ終らざるに、勘解由相公(かげゆしょうこう)有国卿、いまだ若かりける時、申していはく、『御産はすでに成り候ひぬるなり。かさねて御誦経に及ぶべからず』と申すほどに、女房走り参りて、『御産すでに成りぬ』と申しけり。
 事落居(ことらくきょ)ののち有国を召して、『いかにして御産成りぬとは知りけるぞ』と問はせ給ふに、『障子は子を障(さ)ふと書きて候ふに、広く開きて候ひつれば、御産成りぬと存じ候ひつる』と申しけり。
 
(訳文)…そういえば、この御代に不思議な出来事がありました。上東門院彰子様のお住まいの御帳台の中で犬の子が生まれる事があり、想像もしない珍しいことだったのでたいそう驚かれて、大江匡衡という文章博士に尋ねられたところ、「これはめでたい吉祥でございますよ。『犬』という字は『大』の字のそばに点を打ちます。その点を上に打てば『天』です、下に打てば『太』です。さらにその下に『子』の字を続ければ、『天子』とも『太子』とも読めます。つまり、彰子様は『太子』をお産みになり、お子様は『天子』の位にまで昇られるに違いありません。」とお答えしました。その後、本当に皇子がご誕生になり、ほどなく位におつきになられました。後一条天皇のことです。匡衡という人物は、詩文の才能に恵まれていたばかりでなく、こうしたことへも深い心遣いができる人だったのです。

 その、後一条天皇がお生まれになる時、母親の彰子様がことのほかお苦しみあそばされていました。父親の藤原道長公は居ても立ってもいられず、彰子様のおそばから障子を開けて走って出てこられて、『どうしたらよかろうか、御祈祷をもう一度お願いした方が良いのだろうか』とおっしゃられました。その言葉が終わるか終わらないうちに、藤原有国卿がまだお若い頃だったのですが、『お産はすでに終わりました。かさねての御祈祷には及びません。』と言っている間に、女房が走って来て『お産は、終わりました』と言上しました。
 事が落ち着いてから道長公が有国を呼んで「どうしてお産が終ったと分かったのだ?」とお尋ねになると、有国は『障子という字は、子の障りになると書きます、その障子がサッと開きましたのでお産は終わったと思ったのでございます』とお答え申し上げました。
 
さて、いかがでしたか?
犬に関する古典の中でも好きなお話の一つです。尤も、出典の『十訓抄』には間違いも多いと言われます。平安時代後期の説話集で、大江匡房の談話を集めた『江談抄』(ごうだんしょう)によると、前述の犬の子の話は、後に後一条天皇の皇太子となった「後朱雀天皇」が生まれた話となっています。藤原道長の『御堂関白記』(みどうかんぱくき)にも、1009年(寛弘6年)9月8日、後朱雀の生まれた時に犬の産穢があったことが知られるようです。
 
いずれにしても、文章博士だった「江匡衡」(大江匡衡)の惚れ惚れする才知と説明は揺るがないわけで、後朱雀天皇の母親でもあった上東門院彰子はさぞ安堵されたことでしょう。更に「障子」が開いた(子の障りが開く)ことにより出産を確信したという藤原有国の鋭い機転と察知力にも唸らされるのです。
 
犬だけに「ワンダフル」で、「wonderful」だけに「不思議に満ちた」お話でした。
 
本日のトップ画像は、我が家のお嬢・チョコが5歳の頃の1葉で、タイトルは「カーテンの陰から、チョコは見た!」です。