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No.587 黒白の人生を碁盤の上に再現した人

「あの人に会いたい」。
NHKアーカイブス・人×物×録「囲碁棋士藤沢秀行」の番組紹介文には、
 「囲碁に対する限りない情熱と、その破天荒な生き様で多くの人々から熱狂的な支持を集めた名誉棋聖・藤沢秀行。囲碁界の最高峰である『棋聖』のタイトルを前人未到の6連覇。自由奔放な棋風で無類の強さを誇った天才棋士である。酒におぼれ、ギャンブルや女性にのめり込み、借金地獄をさ迷いながら次々とタイトルを獲得、最後の無頼派と呼ばれた。血を吐くような努力の末にたどり着いた境地は『無悟』。自分には生涯、碁は分からないだろうということ。碁と格闘し続けた、壮絶人生が語られる。」
とありました。
 
その囲碁棋士の藤沢秀行(1925年~2009年)さんの言葉によると、自分が本当に強くなったと感じたのは50歳になってからだそうで、60代の時にトップクラスを保っていた秘訣を聞かれた時に、
「コツとか要領とかいった都合のいいものは、ないのじゃありませんか?平凡なようだけど、結局は日常の努力だけですね!」
と答えたと言います。経験した人にしか生まれて来ない真実の言葉が口を開きます。
 
その人に魅力を覚えたので、ちょっと調べてみたら、こんな話も残っていました。
「いいと思った事は、どんどん教えてしまう。その結果、若い人が強くなり、私が負かされても仕方ないではないか」
真の強者とは、このような人を言うのでしょうか?
「自分のライバルを育てている馬鹿なやつ」
と揶揄されることもあったと言いますが、こういう指導者がおられるから、囲碁界が進歩発展して行ったのでしょう。損得勘定で人を育てない指導者の名前が「秀で行く」人の謂いのようです。
 
「楽しい思いだけで強くなれるはずがないんだ。自分自身が苦しんで工夫しなくてはいけない」
寝ても覚めても、お酒を飲んでいても賭け事をしていても碁が頭から離れたことがなかったといいますから凄すぎます。強迫観念にも誤解されそうですが、ひたすら「囲碁」という神聖な競技に対する熱に魘され続けた人物なのかもしれません。囲碁の神様に気に入られた人物が歩まねばならなかった厳しい道のりです。
 
「対局するときだけが勝負じゃない。碁だけが勝負じゃない。便所掃除でも、草むしりでも、これは真剣勝負なんだ」
とも言っています。
「平常の身のこなし方を戦いの時の身のこなし方とし、戦いの時の身のこなし方を平常と同じ身のこなし方とすること」
と、宮本武蔵も言っています。一事が万事であり、生活のすべてが囲碁の一局に現れる対局そのものなのだと考えたのかなとも思います。そのような生き方を己に強いた男の生きざまは、安穏と自堕落に生きてきた我が半生を振り返ってみよと、凶器をちらつかされているように思えてくるのです。
 
「その思いに至る事が一期一会ではあるまいかか」と、今も教えてくれる人です。