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No.1000 「法師蝉一途やいまだ暮れかねて」

初秋を迎える前後の頃から、ツクツク法師の鳴き声をよく耳にするようになりました。二昨日の午後6時半過ぎに、家の中で鳴いているのではないかと疑われるくらい大きな声でハッキリと「ツクツクホーシ!」の独唱が聴こえました。
 
このツクツク法師について、その鳴き声とその姿を実に詳しく文章にした作家がいます。私は、この人以上に、この蝉の「聞きなし」を表現した人を知りません。
 
その作家は梶井基次郎(1901年~1932年)です。『城のある町にて』(1931年)という短編小説に書かれています。主人公の峻(たかし)が、幼い異母妹の死を看取った後の不安定な感情や悲しみを癒すために訪れたのは、姉夫婦一家の住む松阪町(三重県)でした。筆者の実体験を題材にした私小説だそうです。
 
その『城のある町にて』の最初の「ある午後」の章に、こんな状況説明があります。

「全体もあまりかっきりしない入道雲が水平線の上に静かに蟠(わだかま)っている。」
「風がすこし吹いて、午後であった。」
「主人公の峻は、可愛い盛りで死なせた妹のことを落ちついて考えてみたいという若者めいた感慨から、峻はまだ五七日を出ない頃の家を出てこの地の姉の家へやって来た。」
「やや秋めいたものが肌に触れるように気候もなって来た。」

『城のある町にて』「ある午後」より

彼が姉の元に行ったのは、
「家の近所にお城跡がありまして峻の散歩にはちょうど良いと思います」
という手紙を、姉が彼の母のもとへよこしてくれたからでした。そこにツクツク法師が現れるのです。

次つぎ止まるひまなしにつくつく法師が鳴いた。「文法の語尾の変化をやっているようだな」ふとそんなに思ってみて、聞いていると不思議に興が乗って来た。「チュクチュクチュク」と始めて「オーシ、チュクチュク」を繰り返す、そのうちにそれが「チュクチュク、オーシ」になったり「オーシ、チュクチュク」にもどったりして、しまいに「スットコチーヨ」「スットコチーヨ」になって「ジー」と鳴きやんでしまう。中途に横から「チュクチュク」とはじめるのが出て来る。するとまた一つのは「スットコチーヨ」を終わって「ジー」に移りかけている。三重四重、五重にも六重にも重なって鳴いている。

『城のある町にて』「ある午後」より

昨日、私が耳にしたのは、たった一匹のツクツク法師の「これでもか!」と言うくらいに大きな鳴き声でした。何か強い自己主張を、わざわざしに来たような印象でした。
 
さて、梶井基次郎は、その鳴き声ばかりでなく、その時の蝉の姿まで詳細に綴るのです。

峻はこの間、やはりこの城跡のなかにある社(やしろ)の桜の木で法師蝉が鳴くのを、一尺ほどの間近で見た。華車(きゃしゃ)な骨に石鹸玉のような薄い羽根を張った、身体の小さい昆虫に、よくあんな高い音が出せるものだと、驚きながら見ていた。その高い音と関係があると言えば、ただその腹から尻尾へかけての伸縮であった。柔毛(にこげ)の密生している、節を持った、その部分は、まるでエンジンのある部分のような正確さで動いていた。――その時の恰好が思い出せた。腹から尻尾へかけてのブリッとした膨らみ。隅ずみまで力ではち切ったような伸び縮み。――そしてふと蝉一匹の生物が無上にもったいないものだという気持に打たれた。

『城のある町にて』「ある午後」より

よく見ているな―!巧みな表現だなー!と、一読三嘆してしまいます。ツクツク法師の季節が来ると、その鳴き声と、この小説のお話とが、オーバーラップしてくるのです。
 
「法師蝉一途やいまだ暮れかねて」
  清水美恵
 
2020年12月8日から書き始めたnoteが、なんとか1000号を迎えました。実にささやかで個人的な喜びごとではありますが、今後は「ツクツクホウシ」にならい、「つくづくよーし!」と気分を一新して「仁の音」を奏でられたらと思っています。お付き合い下さいますよう。


※画像は、クリエイター・ばるこさんの、タイトル「ツクツクホウシ」の1葉をかたじけなくしました。「秋だぞー!」と、スケルトンの翅でメッセージを告げているようです。お礼を申し上げます。