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No.687 卵で深く心に刻まれたシーンとは?

1909年(明治42年)、野麦峠で一人の工女・政井みね(20歳)は息を引き取りました。「糸ひき工女」として、13歳前後の娘が飛騨から信州の製糸工場へ野麦峠を越えて行ったお話は、作家山本茂実のノンフィクション作品『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』(1968年、朝日新聞社刊)を、山本薩夫監督が『あゝ野麦峠』(1979年)として映画化したものです。
 
大竹しのぶが演じた「みね」と、兄「辰次郎」役だった地井武男の迫真のシーンが忘れられません。
「ミネビョウキスグヒキトレ」
という工場からの冷徹な電報でしたが、辰次郎は飛騨高山から諏訪・岡谷の製糸工場まで30数里(120km)もの道のりを、わずか2日間で迎えに行くのです。
 
辰次郎は、みねに食べさせたい一心で、大事に持ってきた「生卵」を懐から取り出し、
「これを食べて元気を出せ」
と渡すのですが、愛おしそうに大切そうに掌に包むみねには、もう食べる力も残っていませんでした。
 
「あー、飛騨が見える、飛騨が見える」
辰次郎の背負子で運ばれて帰って行くみねの心には、美しい故郷の飛騨が見えたのでしょうか。身も心もボロボロになっても、心待ちにしていた帰郷への思いが強く胸を刺します。
 
この映画が上映された当時(昭和54年)は、まだ明治生まれのお年寄りが健在で、糸引き体験のあるお婆さんたちが、
「あんな酷いことはなかった。糸引きに出ていた頃は楽しい思い出が多かった。」
と語っていたという話も耳にしました。
 
映画「あゝ野麦峠」の元になった細井和喜蔵著『女工哀史』(1925年、改造社、のち岩波文庫)で綴られた現実は、まだ労働環境が整備されていなかった頃の話でしょう。低賃金の上に過酷だった労働は、その本に明らかです。殖産興業・富国強兵策が軌道に乗るにつれ、徐々に労働環境の改善が図られるようになり、大切な労働者として手厚い待遇を受け、女工たちの家族の生活を支える時代を生きられる人々も増えていきました。 
 
 
私には、映画「あゝ野麦峠」の兄と妹の「生卵」のシーンが鮮烈に甦ります。卵と言えば、2005年(平成17年)の10月30日「第1回日本たまごかけごはんシンポジウム」(島根県雲南市)が開かれました。卵かけ専用醤油「おたまはん」を同市「吉田ふるさと村」が開発した事に由来するといいます。

この時期は卵の品質が良く、また、美味しい新米が出回る時期でもあることから、日本食の定番「卵かけご飯」を契機として食や自然について考えることを目的とする催しだそうです。今年2022年は、第18回目を迎え「ウォークラリー形式」での開催というポスターをネットで拝見しました。どなたか、参加者のご報告をお待ちしています。
 
 兄辰次郎と妹みねにとっては、滋養があり栄養価の高い宝物のような「生卵」でした。今は、庶民の味、物価の優等生と言われる存在です。低廉で、美味しくて、手軽な生卵は、日本人の強い味方です。みねの供養になるように、今朝もしみじみ味わって頂こうと思います。

※画像は、クリエイター・ますのさんの、タイトル「みんなのフォトギャラリー9」をかたじけなくしました。食欲をそそる画像です。お礼申します。