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No.594 最後に「E」をつけたい「良(い)い」お話だったのに

文明人の奢りが生み出した「先住民への理不尽な虐待」は人類の罪業の証?
ルーシー・モード・モンゴメリー(1874年~1942年)の『赤毛のアン』(1908年)を大胆にアレンジしたカナダのテレビドラマ『アンという名の少女』(2017年~2018年)が、シーズン3の第9話「深淵なる闇」で先住民のミクマク族への文化的虐待を採り上げ、第10話「心の導き」で、すれ違ってばかりいたアンとギルバートの恋が進展し出すも、打ち切られたように終わってしまいました。視聴者は消化不良気味です。
 
アメリカで世界陸上2022オレゴン大会が行われて来た最終日の7月25日、カナダでは、ローマ教皇フランシスコ(85)が、カナダのカトリック系寄宿学校で先住民の子どもたちが虐待を受けていた問題をめぐり先住民に謝罪しました。先住民たちの代表は、寄宿学校の子どもたちが何十年にもわたって虐待に苦しめられ、先住民の文化がかき消されたことについて教皇の謝罪を求めており、それが現実の形になったのでした。
 
カナダでは、1881年以降、政府とカトリック教会が先住民の子どもたちを親元から強制的に引き離して各地の寄宿学校で生活をさせ、伝統文化や固有言語をなきものにしようとする同化政策を進めました。対象となった子どもは15万人以上もおり、139カ所にも上る寄宿学校では、暴力や性的虐待、病気や栄養失調が多発し繰り返されたと言われています。そのことは、テレビドラマにも表れていました。
 
寄宿学校では、先住民の子ども4000人以上が虐待を受けて死亡したことをカナダの委員会調査が報告しているようですが、それらの学校の多くはカトリック教会の神父や修道女が運営していたそうです。聖職者と崇められた人々が、よりにもよって、そろいもそろって蛮行に走るという共同幻想の元凶はどこにあったのでしょう?それこそ、文明人の驕りがもたらした肉体的、精神的、社会的、時代的な偏見と差別だったということでしょうか。
 
私は、フランシスコ教皇の言動に強い敬意を抱きながらも、国策として残虐な行為を容認し推進した加害者と言えるカナダ政府の対応がどうなっているかの方が疑問でした。調べてみると、カナダ政府は2008年に同化政策を謝罪しており、2015年の報告書で「文化的虐殺だった」と過ちを認めています。
 
したがって、過去の政府の「同化政策」は過ちだったとする認識は、すでに国民的に受け入れられていたはずです。この問題を「アンという名の少女」で取り上げたことが放送打ち切り(?)の直接原因とは考えにくいのです。ではなぜ、中途半端な終わり方になってしまったのでしょうか?

その理由を「アンという名の少女」の企画者のMoira Walley-Beckettさんが、2019年のインタビューで語った記事がありました。それによれば、
「モンゴメリ原作の”Anne of Green Gables(「赤毛のアン」)”には白人優先的な考えが多く含まれており、原作には20世紀初頭から存在し続けているカナダの多様性を正確に反映されていなかった懸念が、ドラマの制作当初から常につきまとっていた」
とのことでした。

この原作の時代に見る封建的で白人優先の考え方と、21世紀の視聴者がもつ多様性に関する価値観との乖離が、ドラマ継続のネックとなったのでしょう。Moiraさんは、「赤毛のアン」の世界観が合わなくなることは最初から想定していたそうですが、「赤毛のアン」という古典にどんな再発見をできるかがドラマ放送の意義だと考えていたようです。それは素晴らしい発想であり、現代の世界中のアンたちが勇気を持って生き、成長して行く後押しをしてくれる頼もしいドラマのように私には思われました。

今後、新たな展開がみられるのかどうか、ファンの一人だっただけに気になるところです。主人公アンを演じたエイミーベス・マクナルティも、大親友ダイアナ役のダリラ・ベラも共に2001年生まれで、まさに妙齢の女優さんたちです。8,000km以上離れた日本という国にも、彼らの成長を目を細めて見守る老人がここにいます。