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No.980 使い勝手が、やばい!

今日、「やばい」の言葉は、老(?)若男女を問わず日常的に使われるようになりました。

しかし、調べてみると、もとは牢屋や監獄を意味する「厄場」(やば)だとか、楊弓場で矢を拾ったり客の応対をしたりする「矢場女」(やばおんな)がその語源で、悪人や犯罪者たちやその道の人たちの隠語だったそうです。
 
特に「矢場」で働いていた女性たちは、後に娼婦の役目もしたらしく、売春や賭博の違法拠点として取り締まりにあいました。そこで、法に触れること、危険をおかすこと、都合が悪いことの意味で「やばい」と呼ぶようになったとも言われています。
 
1週間ほど前、BS松竹東急で時代劇ドラマ「遠山の金さん」(再放送)を観ました。四代目・遠山金四郎(杉良太郎)の第1シリーズ・全101作中の99作目「奈落に落ちた玉の輿」(1977年9月15日初放映)でした。矢場女のおせいさん(北村早苗)は、騙されて罪を犯すのですが、お白洲の遠山金四郎の吟味で「江戸ところ払い」(最も軽い追放刑)を言い渡されます。
 
その時、金さん(杉良太郎)が、
「おせい、お前も矢場女の心意気で、生まれ在所に戻っても頑張るんだぞ!」
みたいな台詞を述べました。この頃の矢場は粛清されるべき対象だったでしょうが、金さんの掛けた言葉は、おせいさんの胸に詰まる「ヤバイ!」(思いやりに溢れ、カッコいい!)ものでした。矢場女の心意気とは、辛い事でも乗り越える意気地を言うのでしょうか。
 
遠山金四郎景元は、1793年~1855年の人物で、北町奉行、後に南町奉行も務めました。老中水野忠邦の天保の改革(1841年~1843年)にのっとり、風俗の取り締まりをしたり、贅沢を禁じたりしています。しかし、町人の生活を脅かす極端な法令を良しとせず、老中水野忠邦や目付鳥居耀蔵と対立したと言われています。
 
さて、遠山金四郎が生きていた頃に出版された、十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』(1802年~1814年に初刷り)にも「やば」の用例があるそうなので探してみました。

問題の「やば」の言葉は『東海道中膝栗毛』(六編・上編)の、弥次・喜多が伊勢から伏見を経て京に入る前後に登場します。したがって、江戸時代後期に、「やば(い)」の言葉は庶民に知られていたことになります。以下、下線部は私が引きましたが、確かに見られます。

(本文)
「イヤ権助さん、あこにあるわいの。そじやさかい、わしがいふまいことか。さきへあがつた衆(しゆ)を問(と)ふて見やんせといふたじやないかい
ごん助「ホンニこれじやわいな
トとりにかかれば、弥次郎ちやつとひかへて
弥次「コリヤ何ひろぐ。此 つつみはおいらがたのだは
ごん助「ナニぬかしくさる。おどれら、やばなことはたらきくさるな。コリヤ見い。ふろしきのはしに、こちの名がかいてあるわい
トいわれて弥次郎びつくりし、よくよくみればじぶんのつつみでなし。(以下略)
 
(訳文)
「いや、権助さん、あこにあるわいの。そじゃさかい、言わんこっちゃない。さきに上った衆に聞いてみやんせと言うたじゃないかい」
権助「ほんに、これじゃわいな」
と取りあげようとすると、弥次郎が包をしっかり引っ込めて、
弥次「こりゃ何をしくさる。この包はおいらがたの物だわ」
権助「なに抜かしくさる。おどれ等、やばいことをやりくさる。こりゃ、見い。風呂敷の端に、こちらの名が書いてあるわい」
と言われて弥次郎はびっくりし、よくよく見ると自分の包ではない。(以下略)

出典:左大臣光永「東海道中膝栗毛(六編 上編) 原文・現代語訳・解説・朗読」より

ところで、戦後、ヤミ屋の横行から、官憲とのいたちごっこがあったことはよく知られています。その露見や取り締まりに、隠語の「やばい」 がヤミ少年・ヤミ業者たちから若者たちに広がっていったというのは、説得力のある話です。
 
そして、1980年代の頃から、「やばい」は若者言葉で「危ない」だけではなく、「カッコ良くない」「悪い」という否定的な意味としても用いられたといいます。さらに、1990年代の頃からは、肯定的に高評価する「スゴイ」「ステキ」「サイコー」などの今日的な意味で使われるようになったと言うのです。100年の間に生じた言葉の意味の変化・変遷です。
 
ネット情報では、音楽家や週刊誌等の記事に「やばい」を取り上げたものも見られましたが、私の中では、芸人の出川哲郎さん(1964年~)が、かなり前からよく口癖で「やいばよ、やばいよ!」と言っていたのが、印象的です。真面目に呆けて、愛嬌があり親しみのある彼が、画面に登場する番組も多かったので、広く国民に知られ、受け入れられ、流行語として定着するきっかけになったのではないかと勝手に解釈しています。
 
とはいえ、砕けすぎた物言いの感じはぬぐえないこの言葉に、抵抗のある人々がいる事も確かでしょう。言葉は生き物だと言われます。長い時間をかけ、社会情勢や時代の中から、そこに生きる人々が受け継ぎながらも、新たな意味を付け加えたり、意味を変えたりしてゆくものであり、それは、今後も変わらない言葉の持って生まれた宿命なのでしょう。
 
もちろん、公の場での使用はNGの言葉でしょう。私的には、普段、抵抗感なく使っています。アバウト至極の「やばい」ではありますが、ことのほか使い勝手が宜しいようで…。


※画像は、クリエイター・中目黒土産店さんの1葉をかたじけなくしました。遠山金四郎もワクチン注射を接種しながら仕事に励んでいると言う図です。笑みがこぼれます。一層のご活躍を祈ります。