IT妖怪図鑑 - こちら特命システムゼロ課 #4 ー 躁霊・徹夜囃子(そうれい・てつやばやし)編
(一)
「いやあ。休日出勤、まことに恐縮です」
土曜日。剛がゼロ課の事務所に到着したのは、午前九時をわずかに回ったころだったが、既に装社実は出勤していた。先日の電話では十時という約束であったが、いつも剛が朝早く出勤する習慣であることに思い当たり、待たせてはならじと装社実は早めに出てきたのだ。
「薬師神さんには特に、休日返上で頑張っていただいておりますので、かなり心配なのです」
「体力的なことなら、ご心配には及びません」
「そうではありません。仕事に対する不満が蓄積してやしないかと。万が一薬師神さんがIT妖怪に憑かれてしまった場合、もう最強最悪ですよ。撃退できるハンターなどこの世におりませんからな」
「IT妖怪にとり憑かれてしまう技術者は、体力的にも精神的にも。劣悪な作業環境におかれていることが多く、一時的にせよその出現場所に身を投じるわけですから、休日返上もむべなるかなです。ただし、IT妖怪ハンティングの仕事が、通常のシステム開発との決定的に違うのは、それに見合った多額の報酬をいただけることです。ですので、その点も心配無用ですよ」
「そう言っていただくと助かりますなあ。本日ご出勤いただいたのは、『躁霊・徹夜囃子』撃退ミッションを遂行していただくに先立ちまして、あるYouTubeライブ配信動画をご覧いただきたいのです」
「YouTube、ですか?」
「『アレアレ』という、チャンネル登録者数200万人を超える、まあ“知る人ぞ知る”では済まされない規模の人気チャンネルです」
「自分は、格闘技系以外のYouTubeは、ほとんど視聴しないので」
「そうでしょうね。薬師神さんの生きざまとは、あまり接点を結びえないであろう内容のチャンネルなのですが、なんとこのチャンネルが先日、IT妖怪を取り上げたのです」
「自分には、それがいいことなのか悪いことなのか、判断つきかねますが」
「大手IT企業のトップ、顧客である大手企業IT部門責任者、そして政府関係部門の間では、IT妖怪の存在は周知の事実となっていますが、テレビにラジオ、新聞雑誌、そしてSNSを含めたメディア上で、IT妖怪の存在が報道されたのは、私の知る限りではこの『アレアレ』氏のチャンネルが初めてなのです」
「それはすごい。のかな。やはり自分には、それがよいことなのか、悪いことなのか、判断つきかねます」
「このIT妖怪についてとりあげた配信では、アレアレ氏は、可能な限り客観的かつ公平な立場にあるべく努めてはいらっしゃいます。まあ、一般人にとって、IT妖怪の存在は眉唾物ですからね。しかも、悲しいことに情報のソースが一方的なのです。従って残念ながら、偏向報道になってしまっています」
「なるほど。これは実際に聴いてみないと分からない。ということだけはよく分かりました」
「でしょ。ではお聴きいただきましょう。これぞ“百聞は一聴にしかず”ですな」
「そんなことわざは、ありません。“聞”も“聴”も、どっちも耳からインプットされる情報です」
装社実と会話していると、非常に疲れる剛である。シリアスな内容が続くなと思って緊張していると、いきなりスカッと梯子を外されてしまう。生来生真面目な剛は、なかなかそれに慣れることができないでいた。慣れたくもないか。
「ううむ。リアクションが固いですな。ここは一番、『“聞(ぶん)”も“聴(ちょう)”も、おんなし意味でんがナ。やってられんわぁ』と。だからぁ。ゲンコにハァーって息を掛けないでくださいってば。ささ。それでは動画を視聴してみましょう。動画自体は二時間十八分の長きに渡っておりますが、IT妖怪に触れているのは、一時間15分ごろから、10分程度なので」
―― さて次のテーマは、“IT業界の闇を斬る”です。と申しましても、大手ITゼネコンと政財界及び官僚統治機構との癒着、はたまた超ブラックな勤務実態などと言ったような、自明のことではございません。今関係者の間で、まことしやかに囁かれている『IT妖怪』なるものの存在について、取り上げてみたいとおもいます。ただし僕の場合ですね、完全に門外漢でございまして、事情通の方がぜひ話を聞いてほしいと、垂れ込んでこられたんですよ。
『IT妖怪』に関する状況をご提供いただいた、“パール”さんです。どうぞ。あれ? もしもしパールさん、繋がってます? もしもぉし。
~ グツ、ヅバ(マイクのミュートが解除されるノイズ)
―― もしもし。聞こえてます? すみません、ミュートを解除するの忘れちゃって。
―― こんばんは。さてみなさん、聞こえましたか、パールさんの鈴を二、三十個転がすような可愛い声。そうなんですよ。本日のタレコミ主、パールさんは、妙齢の女性なんですね。ではパールさん、よろしくおねがいします。
―― はい。ちょっと緊張しちゃって。不束者ですが、よろしくお願いいたします。
―― よろしくおねがいしますねがいします。あれ、ちょっと音が回ってますねっと音が回ってますねパールさん、スピーカーから音出してませんさん、スピーカーから音出してません?
~ グツッ、ブチブチ。音声出力端子にプラグを挿入するノイズ。
―― もしもし、もしもし。あ、OKですね。ヘッドセット使わずに、内臓スピーカーで音を出しながらやると、マイクが拾っちゃうんですよ。
―― 申し訳ありません。初めてなものですから。
―― 問題ありませんよ。ええっとそれでは、まずパールさんがどういった人なのか、まずそれを差し障りのない程度にご紹介しておいたほうがいいですかね。まずこの、ハンドルネームのパールですけれども、やはりあれですか、“真珠”なんですかね。誕生石?
―― 『パール』は、プログラミング言語の名前なんです。アルファベットで表すと“P”、”e”、”r”、”l”。パール言語は1987年に、UNIXプラットフォームで誕生したスクリプト言語で、開発者はラリー・ウォールという人です。従来のUNIXシェル、セド(Sed)、オーク(AWK)より高機能で、かつC言語より取り扱い易いということで、UNIXプラットフォーム上のスクリプト言語のデファクトスタンダード(事実上の標準)となりました。
暫くはUNIXできる立場にいる人々の間だけで著名でしたが、広く一般的に認知されるようになったのは、フリーのUNIXであるリナックスの登場、そして、インターネットが普及し始めてからですね。「インタラクティブなウェブサイトを構築するにはどうするんだ? CGIを使えばいいんだ。じゃあCGIはどうやって作るんだ。パールというプログラミング言語を使えばいい。UNIXはどうするんだ。リナックスがあるじゃないか」ということで、パールにスポットライトが当たりました。
ただ悲しいことに、昨今のウェブサイト構築はパールではなく、PHPやJavaが主流ですが。Perlという名前の由来ですが、本来真珠をあらわす、”p”、”e”、”a”、”r”、”l”という綴りだったのです。ところが既にその綴りと同じ言語が存在することが判明したので、慌てて真ん中の“a”を外したというわけです。
―― ちょ、ちょっと待ってください。視聴者さん着いてこられてますかね。パールさんのような妙齢の女性がですね、プログラミング言語について熱く語られている様は、“IT萌え”って感じで、そのスジのみなさんには堪らんものがあるかも知れませんが、門外漢の私などは、途中から意識を失ってました。
―― ごめんなさい。パールにはちょっと思い入れがあるものですから。
―― ええっと、パールさんは、業界歴何年でいらっしゃいますか?
―― 歳が分かっちゃいますけど。五年です。IT系の専門学校を卒業してIT企業、業界で言うところの、エスアイヤー(SIer)、システムインテグレーターですね。そこに就職したものの、あまりのキツさ、と言いますか、仕事内容のバカバカしさに辟易して二年で辞め、以降特定派遣として開発現場を転々としてます。
―― 五年と言うと、ベテランの部類に入るのかな。
―― ベテランとまではいきませんが、業界の裏事情を思い知るには充分な経験年数ですね。本当は私、入社して三ヶ月で辞表を出したんです。ところが上司から、「辞めるのは君の意思だから仕方ないが、現在参入しているプロジェクトを完遂させ、社会人としてケジメをつけてから辞めたまえ」と言われまして、まあそれも一理あると思ったのです。それが向こうの策略だったんですね。
そのプロジェクトっていうのが、二次開発、三次開発、四次開発と、部分的に小さなシステムを積み重ねていくタイプのやつで、気づいたら二年経ってたんです。私自身、辞意を表明していたことすら忘れてましたよ。ある日突然上司に呼ばれ、なんだろなと思って行ってみると。「あー、パール君。そう言えば貴女、会社を辞めるんじゃなかったのかね」とか言われて、あって思い出したんです。あのときの上司のニヤニヤ笑いは忘れられません。
おそらく「もう辞めようなんて思っちゃいないだろ。誰しも一度は考えるのさ。もう少し待遇のいいところに移りたいとかさ。でもどこへ行ったって同じだからね」と言いたかったんだと思います。で私、意地っ張りなところがありますから、「お世話になりました」って辞めちゃいました。それでええっと。
―― あー。パールさんは、興奮すると饒舌になっちゃうタイプなんですかねははは。
―― 愚痴を言い出すと止まらないタイプなんです。それだけIT業界が“残念”なところなんですよ。だからIT妖怪なんかにとり憑かれちゃうんだわ。
―― おっと出ましたそのキーワード。本日のお題は、システム開発の現場を混乱に陥れる、正体不明の。正体不明の、ええっとなんだ? それも本日明らかにしたいんですが、『IT妖怪』なんですよね。では単刀直入にお伺いします。パールさん、『IT妖怪』って、なんですか?
「とまあ、ここまでお聴きいただいて、薬師神さんのご感想は?」
装社実は、絶妙のタイミングで再生を止め、質問を投げかけてきた。いよいよパールなる女性が、『IT妖怪』とはなんぞやという永遠の命題に、彼女なりの回答を出すかもしれないというところで、椅子から身を乗り出していた剛は、そのままつんのめり、床に両肘をついて倒れ込んでしまった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。あんなところで切りますか普通。どうも作為的なものを感じてしまいます」
「このパールなる女性の話しはかなり濃いので、一気に聴くと本当に疲れますよ。これからどんどん驚愕の事実が出てきますからね。だから暫時薬師神さんの意見を拝聴しながらと思ったのです」
「はあ。では自分の感じたことを言わせていただきます。まだ、なにがなんだかよく分かりません。ですので、早く続きを聴かせてください」
「あらま、そうですか。では続けましょう」
―― 『IT妖怪』は、一言で申しますと、“コンピューターウィルスの進化形”なんです。私たちが知っている“コンピューターウイルス”は、コンピューター、厳密に言いますとそれを動かすオーエス(OS)、オペレーティングシステムですね。それに悪戯を仕掛ける。時に破壊してしまうものです。また、特定のアプリケーションに感染して、個人情報を盗み出そうとするもの、感染拡大そのものが目的のものもあります。『IT妖怪』のターゲットは、オーエスやアプリケーションではなく、人間や組織なんです。
―― 人間や組織に祟るってことは、やはりあれなのかな。心霊チックなことなんですかね? 昔過労で死んだ技術者の怨霊とかあはは。
―― そんな、非科学的なことではありません。コンピューターウイルスの実体が“プログラム”であるように、『IT妖怪』の実体もまた、“プログラム”なんです。
―― ちょっと待ってよ。“プログラム”が人間に祟るわけ?
―― アレアレさんらしくないですね。“祟る”なんて言いかたをすると、オカルトになってしまいますけど、音や映像などのコンテンツが、人間の潜在意識に影響を与えるという事実がありますでしょう。
―― あなるほど。“サブリミナル効果”みたいなやつですね。
―― それが極端になると、“洗脳”ってことにもなります。
―― おっと、これまたキナ臭い。“洗脳”と言えば、アメリカを筆頭とする大国たち。『IT妖怪』の出所は、やはりアメリカやロシア? それとも中国。
―― どうかしら。『IT妖怪』の実体がプログラムであるというのは、厳然たる事実なんです。でも、誰が、なんの目的で作ったのかは、現在のところ分かっていません。『IT妖怪』は、システムの開発現場、すなわち“コンピューターハードウェア一式とネットワーク回線”がある場所に出現しますが、機種や環境を選ばないんです。
そのようなプログラムは、現代のソフトウェア工学では作ることができません。どうしても機種と環境に縛られますから。従ってここから先はオカルトになっちゃうんですよ。
―― 最先端のソフトウェア工学を駆使すれば作成可能だけど、世界を動かしている一握りの人間たちが、その技術を秘匿しているのかもしれませんよね。でもこの考え方は、歴としたオカルトですけれど。
―― 『IT妖怪』の存在を事実として捉え、対策を施そうとする組織が存在します。もちろん国家レベルでですよ。彼らは『IT妖怪』を私たちとは別の、高度な科学技術を持つ知的生命体が創出したものと定義しています。さらに、侵略のための兵器と見做して、排除しようとしているんです。
―― いよいよ胡散臭くなってきてますよ。パールさん、裏付けはあるのですか? 『IT妖怪』の目撃例とか、写真や動画とか。『ご覧いただけただろうか』なんて。
―― しっかりと認識していただきたいのですが、オカルトの領域に入り込んでいるのは、誰がどのような目的で『IT妖怪』を創ったのか。ということであって、『IT妖怪』は現実に存在しています。まさに「いるんだから仕方がない」状態なんです。先ほども申し上げたように、国家レベルで“IT妖怪ハンティングチーム”が組織されているのですから。実際に各地で“IT妖怪ハンター育成セミナー”なるものも開かれてもいます。当然参加者には守秘義務が課せられますので、表には出てきませんが。
―― “IT妖怪ハンター育成セミナー”か。一度覗いてみたい気もするなあ。
―― フフフ。これは余談なんですけど、“我が国におけるIT妖怪ハンティングの第一人者”という人がいます。勿論自称ですけど。どこの世界にもいますでしょそういう人。彼はアトランティス大陸で栄えていた文明が滅んだのは、『IT妖怪』の総攻撃を受けたのが原因だと主張しています。
アトランティス大陸にもコンピューターの発展系のような装置があって、プログラマーの発展系みたいな人々がいたんですって。ジョークじゃなくて、真剣に主張してるんですよ。そこまでいくと、ちょっとアブナイ感じでしょう。与太を飛ばすのもいい加減にしとけよって感じですよね。頭の中、お花畑かよって。
「どう思われますか、薬師神さん!」
「これまた、妙なところで切りましたね。まあ、お気持ちは分からなくもないですが」
「なあにが、お花畑だ! ムカつく」
装社実は憤懣やるかたないという様子である。珍しく興奮して顔は真っ赤、フンフンと鼻息が荒い。挙句の果てに、椅子から立ち上がって、柱に向かってピシピシとてっぽうをくれはじめた。
「そりゃ。まあ、ふん、いいですけどね。よいしょ。時がくればすべての事実が、もひとつ、衆目に晒されることになるんですから、おんどりゃあ」
「課長に対する誹謗はおいといて、この女性の、IT妖怪に対する知識は半端じゃありませんね。誰なんですかこの女性は?」
「……」
一瞬の無言。
「薬師神さんや松本さん以外にも、IT妖怪ハンターもしくは候補生として活動している人がいます。彼らの中で、ドロップアウトしてしまった人物、しかも二十五、六歳の女性がいないか確認してみましたが、該当者はおりません。では『警視庁サイバー犯罪対策課特命分室・IT妖怪班』及びその関係者にも照会してみましたが、心当たりがないとのこと。じゃあ一体何者なんだってことになるわけですね」
「何者なんだろう?」
剛は、腕を組んで首を捻りながら、一瞬の沈黙の意味を考えていた。
「このパールさんが何者で、かつ、どのような意図でYouTubeライブに出演したかは定かでありません。ただ、IT妖怪の存在を広く世間に伝え、注意を喚起すべしという、使命感に駆られての行動では断じてないです。それは、動画の続きを聴いていただければ明らかなのです。では続けましょう」
―― だんだんと、すんげえ話になってきましたね。しかしこの後、さらにすごくなるんですよ。なにしろ、パールさんのIT妖怪目証言になるんですからね。
―― ええっと。どうしましょうか。まずIT妖怪の識別名を言っちゃいますね。『峠の妖怪・フルフル(とうげのようかい・ふるふる)』です。これは半年ほど前、電鉄会社のレンタカー予約システム開発現場で遭遇しました。会社名は拙いですか。場所ぐらいは言っても差支えないですね。秋葉原です。
システム開発って、普通一人じゃできないから、何名、何十名とチームを組んで行います。本来同等の負荷でもって作業が割り振られるべきなのですが、なぜが特定の技術者だけに負荷が集中することが多々あります。理由は、その技術者が真面目で勤勉実直、高い技術力を持ち、かつ運が悪く間も悪いからです。こういう技術者は、なまじ責任感が強く、かつ要領が悪いため、他人に作業を振ることができません。
プロジェクトが峠、すなわちフェイズ毎のピークにさしかかったとき、このような技術者は“フルフル状態”になってしまうのですね。他のメンバーがへらへら笑っている中で一人、疲れ切った顔で黙々とパソコンに向かい、睡眠不足の目をこすりながら作業をこなすのです。で最悪、いきなりバッタリ倒れて救急車で運ばれたり、早朝ただ一言、「疲れました」と作業場所に連絡が入ったきり失踪したりします。
『峠の妖怪・フルフル』は、この気の毒な“フルフル技術者”に召喚され、フルフル状態を週替わり、場合によっては日替わりで、誰彼なしに押し付けるのです。まさにロシアンルーレットですよ。“当たった”技術者はそれはもう悲惨で、気絶するまで仕事をやめることができません。最悪人死にが出ます。
―― ちょっと、分からない言葉が出てきたのですがええっと、“フェイズ毎”って?
―― すみません。いつも普通に使っている言葉なものですから。外部の人には良く分からない業界用語ってありますよね。システム開発の仕事は通常、システム化すべき業務の現状やお客様の要望をヒアリングして分析し、大まかな設計図を作成する“要件定義フェーズ”、それを大きな機能ブロックに分け、システム的な構成要素に置き換える“基本設計”、これは、“概要設計”とも呼びます。さらに実際にプログラムに落とし込む前段階である“詳細設計”、そして“プログラム製造”と工程が流れていきます。これらを“フェーズ”と呼ぶんです。プログラム製造が完了すれば終了ではなくて、テストも“単体”、“機能間連動”、“業務間連動”、“サブシステム内連動”、“サブシステム間連動”、そして最後は“顧客側受け入れ”とフェーズ分けされて行われます。
システムが出来上がったものの、バグだらけで使い物にならないという状況が往々にして起こるのは、要件定義、基本設計、詳細設計フェーズで日数を喰い潰してしまうものの、顧客に引き渡す納期は後ろへ動かせないので、製造以降のフェーズが圧迫されるからなんです。要するにろくすっぽテストする時間がないんですよ。
一所懸命にやって設計フェーズが遅れるならいいんですけど、余裕があると思って、のんべんだらりとやるんだから始末に負えない。結局、製造フェーズから参加するプログラマーがデスマーチにのって行進する羽目になるんですよ。ざけんじゃないわ。
―― またまたヒートアップされてるようですが。ま、かなり恐ろしい奴です。その『フルフル』は。でも、IT業界に限らずおりますわなははは。よく分からないんだけど、捌ききれないほど仕事を振られて、忙しく走り回ってる人間。しかしですね、『峠の妖怪・フルフル』に当てられた奴は、それまでその、要領の悪い人間に仕事を押し付けて、のうのうとしていたわけでしょ。自業自得だって説もありますが。
その『峠の妖怪・フルフル』はIT関係のとこしか出ないの? 私も面倒臭い仕事ばっかり振られて、ヒイヒイ言ってるんですがねははは。出ない。あそうですか。いやあ、実に面白いです。ほかにもまだまだ別の奴に遭遇されてるんでしょう?
―― 『魔画像・壊裂咤絵(まがぞう・こわれちゃえ)』です。このIT妖怪は、渋谷にある、ウェブシステム開発会社に勤務する女性にとり憑きました。彼女は、絵も描ける文章も書ける、そしてプログラム、具体的にいうとPHPなんですけど、それも組めるユーティリティープレイヤーだったんです。またその彼女が勤めるウェブシステム製作会社っていうのが小規模でかつ、元々デザインと編集専門でやっていたところなので、まともなプログラマーがいません。そんな状況ですから、彼女みたいな便利な人、に仕事が集中しないわけがないじゃないですか。
可哀想に彼女、両手で持てないほどの担当案件を抱えて、一杯一杯になっちゃったんです。こうなるともう、神頼みって言うか、悪魔頼みになっても仕方ありませんね。「お客さんなんか、全部潰れちゃえばいいのに!」ってことになるわけですよ。そして、彼女の魂の叫びに応えて電脳魔界からやってきたのが、その願いを現実のものとしてしまう、『魔画像・壊裂咤絵』なんです。
―― 現実のものとなるって。お客さんが壊れちゃうことがですか?
―― はい。『魔画像・壊裂咤絵』は、ペイントソフトの姿でもって現れます。それを使って、例えば、いけ好かない顧客担当者が交通事故に遭う絵を描くと、その通りになっちゃうんですよ。
―― ちょっとそれは、シャレになってないですね。
―― あら。そもそもIT妖怪はシャレじゃないですけど。
―― ま。そりゃそうなんですけど。実際にそんなことが起こったわけですか?
―― はい。担当者が急病になったり、事故に遭ったり、はたまた会社ぐるみの不始末が発覚して業務停止になったり、挙句の果てに不渡り掴まされて倒産しちゃったりしましたね。
―― やべぇ。怖えぇよ。いくら客だからって、出入り業者を粗末に扱っちゃいけませんなあ。完全に呪詛じゃないですかそんなの。さすがに現代科学じゃ創れないわ。いや、そうでもないか。描かれた絵を見て、その通りに事故が起こるよう、人間が工作するって手もありますよね。
でも問題は、ものすごくコストが掛かるし、第一リスクが大きすぎるってことです。日本警察の捜査能力を甘く見ちゃいけません。それだけコストとリスクを背負うだけの見返りがあるとも思えないな。ところで、『峠の妖怪・フルフル』とか、『魔画像・壊裂咤絵』とか、おどろおどろしさの微塵もない名前ですねあははは。
―― アレアレさんもそう思われます? 実はこれらIT妖怪の名前は、先に出てきた、自称、“我が国におけるIT妖怪ハンティングの第一人者”が命名したんですよ。趣味が悪いですよね。もうちょっとらしい名前が考えられなかったのかよって感じですよね。ネーミングセンス0・00ですホント。
―― なんかですね、ゲームの『○神転生』を思い出しちゃいましたよ。『女○転生』に出てくるモンスターの名前には、“屍鬼”とか“地霊”とか“堕天使”とか、あたまにくっついてますもんね。
―― だからパクリなんですよ。オリジナリティもなにもないわ。
「薬師神さん、どどどどどどど、どう思われますぅ!」
装社実はまた再生を中断した。かなり立腹の様子だ。
「どどどど言われましても。ネーミングセンスのことでしょ。ええっと、ええっと、ええっとぉ」
「えっとえっと言わなくて結構です! 私はですね、センスどうこうより、万人が聞いてそのIT妖怪の特徴がですね、一発で分かるような命名を心掛けておるのです。こんなアマっちょに、どうこう言われる筋合いはありませんよフン! そんなことより“自称第一任者”とはなんだ“自称第一人者”とは。自称も他称もへちまもない。私が“第一人者”です。ね、薬師神さん。ねっねっ?」
「まあそれはそうですが」
「まあ、のあと若干間があったのが気になりますが。では続きを聴いてみましょう」
「わざわざ再生を止める必要があったのかなあ」
「なんですってぃ。なんかおっしゃいましたか?」
「いえ。あはは」
―― 最後に、これは、つい最近遭遇したIT妖怪で、名前を『躁霊・徹夜囃子(そうれい・てつやばやし)』と言います。とあるシステムが翌朝本番稼動ということで、メンバー総出で徹夜の最終調整を行っていました。作業場所は、JR浜松町駅から徒歩十数分のところにある、大手ITゼネコンです。ここまで言っちゃうとバレるかな。でも言っちゃいましたね。私は、そのITゼネコンから、一括でとあるシステムを受託した、下請けシステム開発会社と契約して、そのITゼネコンに詰めてたんですよ。作業場所がそこだったので。
―― もしかして、パールさんも徹夜に付き合われていたんですか?
―― はい。まあ普通、女子は徹夜しないものなんですが、さすがに本番稼働前夜ってことで、待機させられましたよ。ただ、そのプロジェクトには、私以外に二人女子がいますが、最終電車で帰ってましたね。彼女たちは正社員ですから。私は所詮“外注”。扱いに差があるんです。まあ、しっかり深夜超過分のお金はいただきますから。
実はその現場、徹夜が常態化してたんですよね。顧客が馬鹿なのか、ITゼネコンが馬鹿なのか、下請け会社が馬鹿なのか、はたまた全部馬鹿なのか知りませんけど、進捗が遅れに遅れてたんです。そもそも平素より問題なく進捗していれば、本番稼動前日にじたばたする必要なんてないんです。ホント、この業界、そんなのばっかり。
―― ええっと、またまた脱線気味になってきましたよ。そういったIT業界の裏事情は、また別の機会にということでお願いしたいな。
―― そうですか。でも、IT業界の裏事情もある程度お話ししておかなければ、IT妖怪がなぜ跳梁跋扈するのかが分からないと思うんですけどね。まあいいです。午前二時近くともなると、さすがに集中力も切れ、うつらうつらする者も出てきます。
そんなとき、どこからともなく、祭りのお囃子が聞こえてきました。すると、なんてことでしょう。全員が、自らの意思とは関係なく、狂ったように踊り始めたんです。それは、日の出と共に祭囃子が鳴り終わるまで続きました。祭囃子が鳴り終わった途端、全員が昏睡状態に陥りました。
―― パールさん。他人事のように話されていますが、パールさんはその徹夜囃子に乗せられて、踊り狂わなかったんですか?
―― 私の場合、ITゼネコンや顧客に対する体裁を整えるために徹夜させられて、かなり頭に来てたんで、ノイズキャンセラー付きヘッドホンで音楽聴きながら待機してたんですよね。勿論、他にはそんなことする根性のあるメンバーはいませんでしたけど。そのおかげで、徹夜囃子の効力が薄まったのかなと思います。
―― なるほど。やはり反骨精神は常に持ち続けにゃならんですなあ。
―― 他のメンバーたちは結局、昼間は昏々と眠りつづけ、午前二時に祭囃子が鳴り始めると起き上がって明け方まで踊り狂うと、それを繰り返しているようです。
―― ううむ。絵面としては若干間抜けですけど、実際問題危険ですよそれは。昏睡状態か踊り狂ってるかでしょう。要は飯を食ったり、水を飲んだりできないわけだ。放っておくと死んじゃいますよね。
―― 昏睡状態のとき、栄養剤と水分を点滴で投与しているようですけれど。
―― ううむ。唸るしかないなこりゃあははは。IT妖怪恐るべしですなあ。
「と。ここまででいかがですか?」
装社実は、また再生を中断した。
「このパールって女、以前課長がおっしゃってた、『IT妖怪サマナー』なんじゃないですか? でないと、『魔画像・壊裂咤絵』や、『躁霊・徹夜囃子』の出現を知っているわけがない」
「そうなんですよ。このパールなる女が、ウェブ・ダイナミクス社の鷹野洋子に『魔画像・壊裂咤絵』入りのUSBメモリーを渡した張本人である可能性が高い、と言いますか、百パーセント間違いないです。『躁霊・徹夜囃子』を問題の現場へ呼び込んだのもこの女です。なにが「たまたまノイズキャンセラー付きヘッドフォンで音楽聴いてたから被害を逃れた」ですか。はっ、ちゃんちゃらおかしいてぇの。ぺっぺ」
装社実は、床に唾を吐いた。彼がそのような、下卑た行動をとるのは珍しい。やはり、“ネーミングセンス0・00”とか、“オリジナリティがない”とか揶揄されたことがかなりショックだったのだろうと、剛は見ている。だが、本当のことだから仕方ないのだ。
「これは、後日調査して分かったのですが、『峠の妖怪・フルフル』のミッションで、松本さんが現地へ乗り込む数日前に、派遣で来ていた女性が一人、プロジェクトを抜けているんです。それもおそらくこのパールでしょう。となれば事情に通じていて当然ですね。この女が自ら、三匹のIT妖怪を召喚したんですから」
「課長が、この番組の録音を自分に聴かせた理由が分かりましたよ。IT妖怪を撃退すると同時に、このパールという女性の尻尾を押さえる手掛かりを見つけてこいと、そういうことですね」
「そうです。“犯罪者は犯行現場に戻ってくる”と言いますからな。また、『IT妖怪サマナー』の連中が、薬師神さんにちょかいを掛けてくる可能性も考えられますので、くれぐれもご注意ください」
「荒事は望むところですよ。逆にふん縛って、事務所へ連行してやります」
「ははは。ダイレクトにフィジカルな攻撃を加えてくるだけなら、薬師神さんのことですから心配しておりませんが、間接的に妨害工作を仕掛けてくるかもしれませんのでね。さて、あと少し録音が残っているんですよ。彼ら『IT妖怪サマナー』の思想と申しますか、行動原理が垣間見える内容ですので、全部聴いてしまいましょう」
「はい」
―― ところでパールさん。これらの恐ろしいIT妖怪ですけど、結果的にどうなっちゃったわけですか?
―― 『峠の妖怪・フルフル』と、『魔画像・壊裂咤絵』の二体は、IT妖怪ハンターに退治されてしまいました。『躁霊・徹夜囃子』に関しても、ハンターが動き出しましたので、おそらく早晩退治されるでしょう。
―― よかったじゃないですか。
―― よかった? そうでしょうか。考えてみてくださいよ。IT妖怪は、過酷な労働環境におかれている技術者に代わって、それを強いている側、要するに顧客とか経営陣とか。あくまで個人ではなく法人格、組織ですけど、そいつらに天誅を下すべく出現するのです。言わば『必殺なんとか人』みたいなものじゃないですか。それを退治するのが正義なんですかね?
―― しかし、“仕事”か“仕置き”かをやられたほうは、かなり酷い目に遭っているわけでしょう。普通に考えりゃ、IT妖怪は“悪”ですわな。三体の妖怪について説明していただきましたが、彼らが引き起こす超常現象は、どう考えてもネガティブな“祟り”じゃないですか。例えば、一晩寝ている間に、勝手にシステムが完成していて、あらビックリ。てな、傘地蔵みたいな妖怪なら別ですけど。
―― システムが早く完成したって、現場で開発に従事する技術者は、嬉しくもなんともないです。「終わったの? じゃ次こっちね」って、次の現場へ送り込まれるだけですから。ですから仕置きされる側は、IT妖怪に祟られるような事態に陥ってしまったことを深く反省し、改善に取り組まねばならないんじゃないですか? 「おばけが出たから退治しました」で済む話じゃないと思いません?
それに、IT妖怪ハンターは高額な報奨金を得ているんですよ。正義の味方が金を取るなんて聞いたことあります?
―― なるほど。パールさんの立ち位置がなんとなく分かりましたよ。パールさんはIT業界のありように対して不満を持っている。しかし、個人が声を上げたって、どうこうなる問題じゃない。だからIT妖怪の出現により、秩序と言うか、構造と言うか、そういったものが破壊されることを望んでおられるんでしょう。
「これで終了です。いかがでしたか」
「そうですね。立場的には、自分たちIT妖怪ハンターとは対極の位置にいることは確実で、気にはなります。ただ、自分は今、与えられたミッションを遂行することだけ考えるようにします」
「なるほど。あなたらしいですな。では、月曜日の段取りについて、ざっと打合せしておきましょうか」
「あ。はい」
(二)
そして月曜日。剛は、JR浜松町駅北口改札を出たところで、人待ち顔をして立っていた。時刻は午前八時二十分、約束の時間まで、まだ三十分もある。剛は相手を待たせるのが大嫌いな性格で、通常、約束の時間の二十分前には待ち合わせ場所に到着するようにしている。
こちらが約束時間ギリギリに着いたとして、相手が五分前に来ていれば、五分も待たせることになる。では五分前に着いたとして、相手が十分前に来ていればやはり同じこと。では自分が十分前でも相手が十五分前だったらと、だんだん時間が早まっていき、自分が二十分前に着いていれば、まず相手を待たせることがないという結論に達したのだ。しかも本日は、初対面の相手である。もしかすると、二十五分前に着いてしまうタイプの人だと拙いと考え、三十分前にしたのであった。しかし残念ながら、相手はまだ到着していないようだ。当然だが。
JR浜松町駅は、山手線と京浜東北線が乗り入れ、東京モノレールとの接続があり、かつ徒歩二、三分の距離に都営地下鉄大江戸線大門駅があるという、都内でも有数の乗降客数を誇るターミナルだ。その割には駅舎がショボいが。列車がホームに到着するたびに、大量の乗客が改札から吐き出されるので、その都度通行の邪魔にならないような場所に移動する剛であった。
しかも、IT妖怪ハンター三種の神器を収納したアタッシュケース、そして、背中にリュックサックを背負っているので、かなり大変なのである。リュックサックの中には、言わずと知れた、IT妖怪ハンター薬師神剛のユニフォームである作務衣が入っている。
しかしその努力も虚しく、どこへ逃げようが誰かの邪魔になってしまう。ついには開き直って、アタッシュケースを足元にドンと置き、ズボンのポケットに両手を突っ込んで、一歩たりとも動くものかという決意で仁王立ちしていると、乗降客のほうが剛を避けてくれることに気づいた。
「もしかすると、自分は怖がられているのだろうか?」
それはまあ、当然である。さて本日剛は、一人で待ち合わせ相手と会う段取りになっていた。といっても彼は相手の顔を知らないから、装社実から先方へ、剛のスナップ写真と容姿風貌が伝えられ、声を掛けてもらう手筈になっているのである。
『身長百九十センチ近い大男で、浅黒い肌に角刈り。季節は秋でしかも曇天だというのに、ギラリと光るミラーサングラス。内容物不明の金属製アタッシュを提げ、スーツの胸ポケットには造花の薔薇が一輪。つまり、とても一般人には見えない容姿』
そんな男が仁王立ちしていれば、誰だって避けて通るのだ。
「今日一日で片付かないもんかなあ」
まず自転車でJR中野駅南駐輪場まで。そこに自転車を置いて、JR中野駅から中央線快速で東京。さらに山手線内回りに乗り換えて浜松町駅というのが本日の経路だったが、中央線快速も山手線も、かなりの混雑ぶりであった。奇妙な姿勢で固まったまま身動きできないというほどではないが、平素電車で通勤しない剛にとってはかなりハードで、できれば何日も通いたくないのである。
これまで剛がこなしてきたミッションは、一日二日で完了した試しがなく、ひどいのになると、作務衣に着替えて一週間近く泊まり込みというものまであったが、今回のミッションに関しては、非常に期待している剛なのだ。なぜならば、状況から判断して、IT妖怪の通力以外に考えられぬということで、既に“退魔令状”が降りているからである。初日から三種の神器を携えてきたのも、それが理由だ。
「もうすぐ十二月だ。去年の今ごろは、『年内を目処として、山岡血清のシステムに終止符を打つべし』ってことで、三日に一回は事務所に泊まり込んでいたっけ。あの頃からだよな。川田がおかしくなってしまったのは。せっかく取り決めた仕様を片端から覆し始めて。今どんな様子なんだろう」
渋谷道玄坂のレオンで、城富美子と壮絶な言い争いをしてから、彼女とは一度も連絡を取っていない。従って、山岡血清のプロジェクトが現在どのような状況になっているか、まったく分からないのだ。
「終わってはいないんだろうなあ。奇跡的にも終わったとすれば、さすがに自分の耳にも入ってくるだろし。よし。今回の一件が片付いたら、思い切って連絡を取ってみよう。いや、取らなくてはならない!」
「あの、お待たせしてしまって申し訳ありません。確か待ち合わせ時間は九時十分前だったはずなんですが」
「十分前もへったくれもない。絶対に連絡して、どういう状況か確認せねばならない!」
「え?」
「は?」
彼の眼前には、上目遣いで剛の様子を窺いつつ、申し訳なさそうな顔をしている男が立っていた。
「ツサの薬師神、さんですよね?」
「あ。はいそうです」
「自分は、本日お約束させていただいている、東陽情報システム企画の高橋です。フルネームは高橋秀樹(たかはし・ひでき)って言うんですよね。よくあの、時代劇俳優と同姓同名だって言われるんですけど、漢字だと違うんですよ。あっちは英雄の英、こっちは優秀の秀。あはは」
俳優と同姓だが、漢字が違うというのは、この高橋なる男が、初対面の人間に対する“ツカミ”として、必ず話されるネタなのだろうが、剛にとっては、どうでもいいことだったりする。
「あの。待ち合わせの時間は、確か九時十分前だったはず。おかしいなあ」
「自分が聞いていたのも、九時十分前ですよ」
「じゃあどうして、あんなに怒っておられたのですか? 私は十二分前に来たのに」
「怒ってましたか。自分は?」
「はい。『思い切って連絡を取らねばならない』とか『どういう状況か、確認せねばならない』とか、『三多摩は都下』とか。すごい剣幕でしたよ」
「は? ああ、あれは別件で」
「別件? なあんだ、ベッケンバウアー、イナバウアーだったんですね」
高橋は、会話の中に駄洒落を挟むのが好きなようだが、はっきり言ってあまり秀逸とは言えない。心に余裕があるときなら、クスリとぐらいしてやってもいいが、今はとてもそんな気分にはなれない剛だった。
高橋は年齢三十代半ば。身長は百七十ちょい。どちらかと言えば痩せているほうだが、腹だけは年齢相応にポッコリ膨らんでいる。ナチュラルウエーブのボサボサ頭に、フケや埃が付着した太くて四角い縁の眼鏡を掛けている。まるで野ウサギを連想させるような、おどおどした小さな目が、眼鏡の奥でショボショボしていた。
派手な縦縞柄のワイシャツに、厚手の濃紺のブレザー、ポケットが八つほどついている作業用ズボンにボロボロのスニーカー履きと、ネクタイを首に巻いていなければ、到底社会人には見えない格好だ。首にはブルーのストラップを掛けている。ストラップには、IDカードとガラケーが付いていた。
ショルダーバッグをたすき掛けにしているので、一旦会社に寄ってから来たわけではないようだ。こういう人種がたまにいるのである。通勤途中でも、恥ずかしげもなく会社のIDカードをぶら提げている人種が。IDカードのような大事なものを社外で無防備にぶら提げていて、悪意ある人間に引きちぎられ、略奪されたらどうするつもりなのか。
「高橋さん。ベッケンバウアーでもイナバウアーでもなんでもいいんですけど、自分は早く現場を見たいのです」
「そうでしたね、そうでした。ではご案内します。ちょっと距離があるんですよ。一番の最寄駅はと言うと、ゆりかもめの竹芝なんですが、ちょっとそこを待ち合わせにするのはねえ。乗り換えが大変ですからねえ。『狭くて辛気くさいモノレールなんて、いちいち乗ってられるか』って感じで。しかも、新橋からたった二駅で百九十円ですから。高いッスよねえ。でも残念だ。誰でモノレールんですけどぉ」
これも、浜松町で待ち合わせした人間に対し、誰彼なくぶちかまされる、高橋の定番ネタなのだろうが、剛は無表情で受け流した。浜松町駅から東陽情報システム企画本社ビルまで十五分の間、剛はさんざっぱら高橋の愚痴を聞かされる羽目になった。
「システム担当の前任者が昏睡状態になって、急遽担当にアサインされたものの、メンバー全員寝るか踊るかなので、なにをどうしていいかさっぱり分からん。なんて私はついてないんだ」という意味のことを、手を替え品を替え、様々な表現を駆使して延々と繰り返すのである。
確かに、一般人では如何ともしがたいから剛が乗り出したのだが、それにしても愚痴が多すぎる。わけの分からない事件の後始末を任されたことについては不憫だとは思うが、自業自得なところもあるのではないか。おそらく高橋は、プログラマーとしても、システムエンジニアとしても、管理職としてもスキルが高くないのだ。しかもそれは適正云々ではなく、本人の努力不足が原因で。結果、上司からも部下からも軽んじられ、今回のような仕事を押し付けられ、まず偏頭痛を発症し、月曜日には会社に出てこれなくなり、最終的には心を病んだりする。最悪、IT妖怪にとり憑かれかねないのである。
「危険だ」
「え?」
「あ。いえ、独り言です。しかし、かなり距離がありますね」
「すみませんねえ。でもあと少しですよ。ほら、これが、ゆりかもめの竹芝駅です。駅のすぐ近くですから。この交差点を右に曲がると。ほら出た。本当に遠くて申し訳ありませんでした」
確かに、剛の眼前に東陽情報システム企画の十階建て自社ビルが、まさにドドーンと出現した。これが、本社ビルでもなんでもないというところがすごい。たかだか創業十周年にも満たないツサが、マザーズに上場して大手面したところで、四十数年の歴史を持つ老舗システムインテグレーター、東陽情報システム企画には敵わない。
「申しわけありませんが、受付で入館の手続きをお願いします。本当に申し訳ありません」
この高橋という男は、実際謝ってばかりだ。受付には妙齢の女性が二人座っていた。一応揃って美人の部類に属し、“わたしキレイでしょオーラ”を発散しまくっている。さらに、剛を見る目つきが冷たい。まるで不審者を見る目だ。そう言えば、ミラーサングラスを掛けたままだったのだ。これでは不審者扱いされても仕方がない。とりあえず剛はサングラスを外した。それでも受付嬢の冷たい視線に変化はなかった。おそらく、『いちゃもんを付けに来た総会屋の手先』という人物像が、彼女たちに刷り込まれてしまったのだ。
剛は、「どうでもいいが、黙って手続きするなよ。『おはようございます』とか『いらっしゃいませ』ぐらい言ったらどうだ」と憤り、さらに「あんたら自分が美人だと自惚れてるんだろうが、上には上がいるんだ。しまいに、うちの城課長と桃栗係長を連れて来ちゃうよ。あんたがた走って逃げなきゃいけないよ」と、心の中で仕返ししてやったのである。
剛が受け取ったのは、『VISITOR』と書かれた厚紙を安全ピンが付いたビニールケースに入れただけの、どう考えてもどこにも入室できそうにない、IDカードとは言えない代物だった。
「高橋さん。これは?」
「これって? 来訪者用のネームプレートですけど。申し訳ありません」
「だからいちいち謝らなくていいんですけど。これで現場に入室できますか?」
「もちろん。できません。ICチップ内蔵のIDカードでないと。これは当然ですね」
「威張って言わないでくださいよ。これじゃあ仕事にならんです」
「私が万事お引き回しいたします。私のIDカードも、そんなにあちこち入れるわけじゃないんですけど。あはは」
「冗談じゃない。いちいち高橋さんのお尻にくっついていかないと移動できないんじゃ、話しになりませんよ! 守秘義務のある、ややこしい場所以外、自由に出入りできるIDカードを直ちに発行してください」
「申し訳ありません。私にはそのような権限がなく」
「あのねえ、あんた、なにしに出てきたんですか!」
「大きな声を出さないでください。あっ今、胃がきゅうっと締め付けられて。偏頭痛も出ました」
「……」
呆れ果てた剛は、もう一度ミラーサングラスをかけ直して受付へ戻り、まん丸に目を見開いている受付嬢に向かって、ドスの効いた声で告げた。
「所長でもなんでもいいから、とにかくここで一番偉い奴に繋いでくれ。IT妖怪ハンターの薬師神剛が来たと。“退魔令状”を持参していると」
「は? アイティーよかよかよか?」
「詳しいことは自分が話すから、とにかく呼び出してくれ」
「で、でも」
「早くしろよ!」
「は、はい」
残念ながら、剛は不審者確定となったようだ。受付嬢は、震える声で内線しながら、入り口に立っている警備員にアイコンタクトしている。
「あの。弊社システム統括部長の景山です」
剛は、受付嬢が差しだしてきた受話器をひったくった。
「もしもし。どうもお騒がせして申し訳ありません。え? はいそうです。ミッション遂行のために、ここと思ったところに入室できるIDカードを発行していただければなと。ただそれだけなんですが。はい。ではお待ちしています」
剛が受付嬢に受話器を返したあとは、暫くロビー内が張り詰めた雰囲気となった。二人の受付嬢は目をまん丸にしたまま固まり、高橋は胃と頭を押さえて蹲り、警備員は、いつなんどきでも剛に飛び掛かれるよう身構えている。内線電話を切ってから、きっかり二分後、エレベーターから一人の初老の男がまろび出てきた。
「薬師神先生、薬師神先生はいずこに?」
「自分が薬師神です」
「おお、あなたが。お役目お疲れさまです。私は、システム統括部長を拝命しております、景山峰男(かげやま・みねお)でございます。以後お見知りおきください。ささ薬師神先生、まずはこれを」
景山は、社名のロゴ入りネックストラップが付いたIDカードを剛に手渡した。
「私のIDカードです。なにぶん手続きが面倒で、すぐにはIDカードを発行できませんので。本日はこれをお使いください。最上位の特権が設定されておりますので、ビル内どこでも入室可能ですわはははは」
「統括部長はIDカードなしで、どうなさるのですか?」
「ご心配には及びません。私なんぞ、本日なんてぇものは、外出したきりになりますので。お帰りの際に受付、もしくは警備の者にお渡しいただければ。明日朝までには、薬師神先生専用のIDカードを準備させますので。ははは。やはりこの暖房が入ると室内はこの、一気に暑くなりますなあ」
景山は、しきりに禿げ上がった頭をハンカチで拭いている。
「お出かけになるのですか?」
「あの。拙いですか?」
IT妖怪出現の責任を問われるのが嫌で、逃げ出すつもりだなと剛は思ったが、IDカードを準備してくれただけでも上出来で、それ以上のこととなると、システム統括部長レベルでは役にたたないだろうと考え直し、解放してやることにした。
「分かりました」
「あそうですか。わはははは。いやあ、暑い暑い。ええっと君、誰だったっけ」
「私は第三システム部の高橋秀樹であります。俳優の高橋英樹とは一字違いなんです」
「別にそんなことは聞いちゃおらんが。いいかね松平君、本日君は、薬師神先生にお付き合いし、最大限の便宜を図って差し上げるように。決して粗相があってはならんぞ」
「はい! 不詳松平、本日は誠心誠意、薬師神先生にお仕えする所存です」
「うむ。よろしく頼むぞ」
景山はそう告げて、そそくさと出掛けてしまった。二人の受付嬢は、相変わらず目をまん丸にして剛を見ていたが、蔑みの色は消えている。彼女たちの中で剛の存在は、忌むべき総会屋の手先から、隠密巡検使程度には格上げされただろう。
「では薬師神先生。現場へご案内いたします」
「先生はやめてください。それから高橋さん、名前を間違われたら、いくら相手が偉いさんでも、ちゃんと訂正したほうがいいですよ」
「私はぁ。そういう男なんです。申し訳ありません」
(三)
「なるほど。作業場所は会議室だったんですね」
「そうなんです。申し訳ないとは思っているのですがね。しかし、私の権限では如何ともしがたいわけでして」
IT業界も、建築業界と同じく、大手ITゼネコン会社がある。大規模なシステム開発案件は、大手ITゼネコンしか受注できない仕組みになっているのだが、いくつもの案件が同時に進行しているため、とてもではないが自社の社員だけでまかなうことはできない。
そこで、大手ITゼネコンの下にいくつも存在する、下請けソフトウェア開発会社へ、システムの一部または全部の開発を任せるのだ。任された下請けソフトウェア開発会社は、それを全部自分のところでやるかというとそうではない。孫請けソフトウェア開発会社に、システムの一部または全部を任せるのである。そして、孫請け会社は曾孫受け会社に、曾孫受け会社は玄孫受け会社へ任せるのだ。
しかし実際の作業は、ITゼネコンの事務所に赴き、そこでおこなうというのが通例である。これはひとえに、最近とみに煩くなってきている、セキュリティーたら、プライバシー保護のためなのである。
ITゼネコンは作業場所を用意し、下請け以下の会社が集めてきた技術者を囲うわけだが、システム開発案件というのは、決算時期の兼ね合いで複数が同時に開発のピークを迎えるのものであって、場合によっては下請け技術者の作業場所を確保できなくなってしまう。空いている席がないのだ。そういう状況に陥ったとき、暫定的に、いくつかある会議室の中のひとつに押し込んでおくのである。
「とりあえず、ここで作業をしていてもらいまして、他のプロジェクトが落ち着いて人が少なくなれば、普通の席に座っていただきますから」などと、きれいごとを並べるものの、前述のように、プロジェクトというものは同時期に開発のピークをむかえるのであるから、まず席が空くことはなく、可哀想な彼らは、おおむねプロジェクトの終了まで、会議室に閉じ込められるわけだ。それならまだよいほうで、「やあ。プロジェクトも大詰めで、大分メンバーが減りましたね。この会議室じゃ広すぎるんじゃないですか。そうだ。あそこでいいんじゃないかな」などと言葉巧みに、窓すらない倉庫か物置に誘導されてしまうのだ。
会議室というのは、あくまで会議を行うところであり、作業場所ではない。ゆえに、一人ずつセパレートではない長机である。そこにパソコンを並べ、椅子も並べて作業するのだから、とにかく狭い。まずこれが、そこで作業する技術者たちに、洒落にならないストレスを与える。
そして、事務用フロアとは違い、電源系統やLAN配線などがあまり考慮されていないから、床の全面に渡って、ケーブルがのたくりまわることになり、一日一回粗忽者が引っ掛けて抜くわ、踏みちゃんこにされて断線するわの大騒ぎなのだ。
さらなる問題は椅子である。会議室の椅子などというものは、そこに長時間腰掛けて作業するなどの目的で作られていない。どちらかというと、スタイル優先になっている。そのため、腰を痛める技術者が続出する。
そして極めつけは空調だ。とにかく閉ざされた狭い空間だから、冷房にしろ暖房にしろ、効きすぎるのである。冷房時など、空調の吹き出し口に近いと南極に居るがごとき寒さになり、一発で体調を壊してしまう。そして、誰かが風邪を引いたが最期、部屋に居るメンバーに一気に蔓延するのである。かかる劣悪な環境におかれても、技術者たちは納期を死守すべく奮闘するのであった。なんと涙ぐましいことだろうか。挙句の果てに、IT妖怪にとり憑かれ、踊るか眠るかを繰り返している、不憫な技術者たちは、四階にある会議室に閉じ込められていた。
「ここで作業されているのは、と言いいますか、寝るか踊るかを繰り返しておられるのは、株式会社エム・シー・シーのみなさんです。某調剤薬局チェーンのレセプトシステム開発をお願いしていたのですが。現在ご覧の通りの状況で。しかし、本番稼働寸前ということで、お客様と協議の上、新たにチームを編成して引き継ぐことはせず、とりあえず回復を待つことに。ああ、私はどうすればいいのか」
高橋は相変わらず弱音を吐き続けている。剛としてはいい加減辟易してきた。会議室の床には、男性が八名転がっていた。机や椅子の死角になって姿が見えない者もいるが、正確に人数を数えられるのは、点滴スタンドがあるからだ。
「ええっと。内訳を申しますと、六名は株式会社エム・シー・シーのみなさん。一名はうちの前任者。もう一名もうちの社員で、うっかり様子を見に行って、祭囃子の魔力に取り込まれてしまった人間です」
「高橋さん。どうして彼らは床に直接寝転がっているんです? マットぐらい敷いてあげれば。ああっ!」
話しながら剛は、とんでもないことに気付き、思わず声を上げてしまった。
「な、なんです? とりあえず申し訳ありません」
「謝ってる場合じゃないでしょう。どうして彼らを会議室の外へ運び出さないんですか。不思議な祭囃子は、この部屋だけで鳴るわけでしょう。昏睡している間に彼らを外へ運び出してしまえば、すべて解決じゃないですか」
「それは既に試みたんです。でも運べないんですよ、重すぎて。いいえ、重いと言うより、床にくっついちゃって剥がせない感じなんです。重機で床ごとひっぺがせっていう、大胆な意見も出ましたが、それはちょっと私の権限ではその」
「権限云々以前に、現実味がありませんね。四階までどうやって重機を運び入れるんです」
「ジューキミシンなら運び込めるんですけどねえはははぁ。ってあの、怒りました?」
「別に」
剛は、アタッシュケースを開け、『捜魔の無線光学マウス』を取り出した。スイッチを入れてみたが、反応はなにもない。
「ちょっと困ったな」
これまで剛は、明確に個人の技術者が憑依ターゲットのIT妖怪ばかり相手にしてきたので、今回の如く場所に憑いている場合、どのように対処してよいか分からないのだった。
「困ったときは。装社課長に相談してみよう」
と、思ってスマートフォンを取り出すと同時に着信があった。装社実からだ。さすがのタイミングである。
―― どんな様子ですか?
「さすが課長ですね。これこれこういった次第で、どうやって妖怪の本体を見つけ出せばよいのか、途方に暮れているところなんです」
―― なるほど。では夜中まで待って、祭囃子が鳴り始めるのを待つしかないでしょう。
「誰がですか?」
―― 教えて進ぜましょう。聞いて驚くなかれ。待つのは薬師神剛さんです。
「おお。それは知りませんでした」
―― そうでしょうとも。世の中にはまだまだ、あなたの知らないことがたくさんあるのですよ。
「そうですか。では失礼します」
―― はい。じゃあ頑張ってね。
装社実の答えは、剛が予想していた通りのものでしかなかった。剛としては、午前二時まで待たずに、IT妖怪をいぶり出す方策がないか、アドバイスがほしかったのだが。
まだ午前十時をわずかに過ぎたところだがら、明日の午前二時まで十六時間近くある。一旦自宅へ戻ることも考えたが、また夜出てくるのも面倒なので、剛はここに居続けることにした。居続けることによって、午前二時まで待たなくても、新たな展開があるかもしれない。
「と言うわけで高橋さん、自分はこの場で待機します。適当な時間になったら仮眠を取りたいと思っているのですが、どこか横になれる場所はありますかね」
「あの。ここでは駄目ですか?」
「はぁ、ここで?」
「だって、仮眠できる場所なんて、このビルのどこにもないんですもん。そりゃあ確かに昔は、堂々と“仮眠室”てのが存在しましたよ。でも今じゃ全部撤廃されてます。やれ労基法だのコンプライアンスだの、喧しい時代でしょ。“仮眠室”なんぞ設えててごらんなさいあなた、『泊まり込み作業を強制するのか』ってことになるでしょうが。どうでもいいけど、なぜ私だけが責められるんだ?」
高橋は半泣きになって、仮眠室など存在しないことを切々と訴えてきた。
「分かりましたよ。分かりましたから、泣かないでください。ここで寝ますから。ここで寝たほうが、なにか起こったとき対処しやすいし。申し訳ないですけど、マットレスかなにか、敷くものあります?」
「確か、寝袋ならば、あったような記憶が」
「寝袋は拙いですね。いざってときに、抜け出すのに時間が掛かってしまう」
「マットレスはございません。残念ですが」
「納まらないでくださいよ。なければ買ってきてください。いつかまた使うことあるでしょう。表向き仮眠室を撤廃したところで、泊まり込み作業は依然としてあるんだから」
「あのう。その経費はどこへ請求すれば?」
「知らないよ! あの景山統括部長に請求すればどうなんです。最大限の便宜を図るようにと言ってましたよ。マットレスぐらい屁みたいなもんでしょう」
「はい。でも私自身の気弱な性格から考えて、景山統括部長には、絶対請求書を回せないと思うんです。いや、思うんですじゃなくて、絶対回せないと、堂々宣言できます」
「頼んないなあもう。じゃあ請求書持ってきてよ。自分が払うから」
「あのう。できれば前払いでお願いしたいんです。お恥ずかしい話ですが私、二千円ほどしか持ち合わせがないんです。でもそれで充分なんですよ。朝はしっかり家で食べますし、お昼は、同居している母が作ってくれたお弁当ですし。私は残業をほとんどしませんし、しても必ず夕食は家で食べますし、恋人もいませんし、酒も煙草もやりませんから、ほとんどお金を遣わないんですよね。たまにおやつを買うぐらいで」
「これでも喰らいやがれぇぇ!」
とうとう業を煮やした剛は、高橋に財布ごと投げつけてしまった。
そしてその日の深夜。もうすぐ日付が替わろうかという頃合いである。剛と高橋は、マットレスの上で夜食の海苔弁当を食べていた。剛は既に作務衣に着替えている。驚くべきことに、高橋が弁当とペットボトルのお茶を差し入れてくれたのである。二千円しかお小遣いがないのに悪いと思い、代金の支払いを申し出たが、「これぐらいは自分が所属する部署に請求できるので」と、珍しく頼りがいがあることを言ったので、ありがたくご馳走になることにしたのであった。
剛は、もし高橋が「終電がなくなるので、これで失礼していいですか」などと言いだしてこようものなら、渾身の正拳突きをお見舞いしてやるつもりだったが、彼はそこまで性根の腐った男ではなかった。今夜はとことん剛に付き合う決意のようである。いくら事務所には煌々と照明が点けられているとはいえ、死体と同じような状態で、八人もの人間が横たわっている部屋に、夜中一人でいるのは、さすがに気色が悪い。ほとんど役に立たないとはいえ、高橋がいてくれるのは、剛にとってありがたいものだった。
「高橋さん。午前二時近くになったら、一旦会議室から出てくださいね。危険ですから」
「はい。でも、薬師神さんだけ残られて、大丈夫なのでしょうか。ノイズキャンセラー付きのステレオヘッドフォンは準備できますが」
「そんなもの付けてたら、祭囃子が聞こえませんよ。自分は大丈夫ですから」
剛はそう言って、退魔のアミュレットを強く握り直した。
「さっきから気になってたんですが、それって数珠ですか?」
「え? まあ、そのようなものです」
「IT妖怪って、やっぱりその、オカルティックなものなんでしょうか?」
「実は自分もよく分かっておらんのです。IT妖怪の実体は間違いなく、ある種のプログラムなのですが、その動作原理、そして動作時の影響については、現代科学では説明不能なんですよ。自分の持っているこの“数珠”は、退魔のアミュレットと言いまして、これでIT妖怪と闘うわけですが、どうしてこれでIT妖怪が倒せるのか、理解していなかったりするんです。その点はオカルトと言っていいかもしれません」
「ふうん。退魔のアミュレットねえ。ちょっとそれ、見せていただくことは可能ですか?」
「えっ? いや、これはちょっと」
退魔のアミュレットは、IT妖怪ハンターにとり、命から二番目に大事なものであって、軽々しく他人に手渡せるものではないのだ。高橋は露骨に残念そうな顔をしたが、こればかりはどうにもならない。
「その作務衣、格好いいですよね。でもどうして作務衣なんかに着替えるんですか?」
「ええ。まあちょっと、いろいろ経緯がありまして」
作務衣の由来を詳しく説明しようとすると、剛がハンターとして初めて対決したIT妖怪、『闘鬼・戦国武将』の話しから始めねばならない。この高橋という男には、それを話して聞かせる価値はなかろうと判断した剛は、適当に誤魔化すことにした。それ以降、二人の間で会話が途切れてしまったので、剛は瞑目して精神統一に入ることにした。そのまま眠ってしまわないよう、念のため、スマートフォンのアラームを二時十五分前にセットしておく。そうこうしているうちに、運命の午前二時まで、残すところ十二、三分となった。
「薬師神さん、そろそろ私は一旦外へ避難します」
「遠く離れたところまで非難したほうがいいんじゃないかな。会議室の外でも、祭囃子が聞こえたら影響を受けるかもしれません」
「そうですね。そうします」
剛は、会議室を出て、廊下の向こうへ早足で去っていく高橋を見送ったあと、ゆっくりとドアを閉めた。そこで、ICカードで開錠する電子ロックとは別に、ドアの下のほうに手回し式の錠があるのを発見し、大した意味もなくロックしたのである。この、なにげない行動が、後々重要な意味を持ってくることを剛は知らない。
午前二時まであと十分、突然剛の携帯が鳴る。発信元を見ると、装社実であった。
「はい、薬師神です」
―― 装社です。いかがですかな。
「今、祭囃子が鳴るのを待ち構えているところです。課長はどこにいらっしゃるのですか?
―― ゼロ課の事務所です。ナマさんもいらっしゃいますよ。本日はこちらから支援しますから。
「ありがとうございます」
さすがはゼロ課の責任者である。なんだかんだ言いつつ、ちゃんと待機してくれているのだ。
―― 薬師神さん、今お一人ですか?
「はいそうです。つい先ほどまで、今回の件の新しい担当者である高橋さんがいらっしゃいましたが、祭囃子が鳴り出すと危険なので、避難してもらったところです」
―― そうですか。ではお話ししましょう。実は妙なことがありましてね。今夜いよいよ『躁霊・徹夜囃子』と対決となりましたので、念のため、つい先ほど高橋さんに連絡を入れたのです。
「え?」
―― そうです。彼、どこにいたと思われますか? 近くのビジネスホテルですよ。
「はいぃ?」
剛には、装社実が言っていることが理解できない。
―― なんでも、ゼロ課の社員を名乗る者から連絡があったらしいのです。薬師神さんにですね、急遽別のIT妖怪撃退ミッションが下って、本日、もう昨日ですが、浜松町へは行けないので、一日順延してほしいと。
「なんですかそれ?」
―― 連絡を受けた高橋さんは、何日も会社に詰め続けていたものですから、これを機会にと一日休暇を取得し、近くのビジネスホテルで寝ていたと、こうおっしゃるのですよ。
「じゃあ、自分と一緒にいた男は、一体誰なんです?」
―― 誰なのでしょう。気にはなりますが、そろそろ午前二時になろうとしています。まずは、『躁霊・徹夜囃子』を撃退することに集中してください。偽高橋の件は、あとで考えればいい。よろしいですか。
「はい」
―― では一旦切ります。今後連絡するとすれば、電脳魔界にジャック・インしたあと、マカイムスでとなりますので。
IT妖怪撃退に集中せよと言われても、剛の頭の中は、高橋のことで一杯になってしまっていた。
「あの男、何者なんだ?」
あのくだらない駄洒落や小ネタ、そして頼りない言動すべてが演技であったとすれば、一筋縄ではいかない、相当な食わせ者ということになる。だがこれだけは確実である。偽高橋は、『IT妖怪サマナー』の一味であるということだ。
あれこれ思いを巡らせていると、突然祭囃子が聞こえ始めた。慌てて腕時計を見ると、ちょうど午前二時になっている。と同時に、昏睡状態にあった男たちが、次々と立ち上がってきた。普通、仰臥の姿勢から身を起こすときは、まず両膝を立て、掌を床につきながら上半身を起こしといった手順が必要だが、彼らはまるでスピードメーターの針のように、仰臥の状態からいきなり直立したのだ。さらに、幾日も食事を摂っていないから、みな一様に痩せ衰え、顔は土気色なので、実に不気味な光景である。
「キョンシーかよ」
もしかすると全員が自分に襲い掛かってくるかもしれないと、剛は退魔のアミュレットを握り締めて警戒の体制をとったが、彼らはその場で、踊り始めただけだった。
「この祭囃子め、どこで鳴ってやがるんだ?」
踊っている男たちを避けつつ、捜魔の無線光学マウスを持って部屋中を歩いてみたが、どの場所でも同じように激しく明滅するので、音の出場所を特定できない。剛は諦めてマウスのスイッチを切ってしまった。会議室の中で鳴っているのは確かなのだが、部屋の外から聞こえてくるような気もする。要するに音が遠いのだ。
「絶対に部屋の中に音源があるはずなんだ。そして、その音源となる物体にIT妖怪がとり憑いている。でなきゃ、捜魔の無線光学マウスがあれほど明滅するはずがない。ちょっと待てよ。部屋の中に音源があるにも関わらず、遠くで鳴っているように聞こえるってことは、音を遮るもので覆われてるってことじゃないのか。箱に入っているとか。プッ、箱の中だって。ククク。フフフ。うわははははははは。そいやそいやコリャコリャ、らっせぇら、らっせぇら」
祭囃子を聴いているうちに、なんとなくウキウキそわそわ、知らず知らず踊り出してしまった剛は、退魔のアミュレットを巻きつけた手で、思い切り自分の頬を張った。
「いかん。早く音源を捜し出さないと、自分もIT妖怪の通力に取り込まれてしまう。ええっと、箱、箱」
部屋の中を見渡してみると、窓際の壁面に、四段ずつ二列、計八個の段ボール箱が積み上げられているのに気づいた。
「あれかな。イテッ」
無茶苦茶に両脚を振り回している男たちから、何発か空手チョップやラリアットをお見舞いされつつダンボールに近づくと、心なしか祭囃子が大きくなってきた気がする。
「間違いない。こんなところに隠れやがって。見つけられないとでも思ってんのかよ。バッカじゃねえの、むははははは。らっせぇら、らっせぇら、らっせらっせらっせぇら。はっ。拙い!」
剛は慌てて、ダンボールの上に乗っていた梱包用の布テープを掴み、五センチほど千切り取って、退魔のアミュレットを額に貼り付けた。途端に意識がクリアーになる。
「まさにキョンシーだな。そうだ。今度薇さんにお願いして、額に貼り付けると自動的に退魔経が再生されるおフダを作ってもらおう。そうすれば、『魔画像・壊裂咤絵』のときみたいに荒っぽいことをしなくても、IT妖怪に操られた人間を大人しくさせられるぞ。名前は、“封魔の御札”。“お”が付くのは恰好悪いよな。じゃあ“封魔の護符”! ちょっと語呂が悪いか。なんで語呂が悪いんだろ。“の”を挟んで前半の三文字に対して後半が二文字だから、頭でっかちで座りが悪いんだ。後半は最低でも四文字必要だ。ええっと。いかんいかん、今はそんなことで悩んでいる場合じゃないぞ。こうして思考が定まらないのも、祭囃子の影響かもしれない。
さて、この八つのダンボールのどれに、音源の物体が入っているかが問題だな。自分ならどこへ入れるだろう。まず一番上には入れないな。一番上にあるってことは、常時使わないまでも、折に触れて使用される可能性があるものが入っているわけだろ。そこに怪しいものが混ざっていれば、一発で見つかってしまう。その理屈からすると、一番下が安全ってことになる。
いや待て。果たしてそうと言い切れるのか薬師神剛。人間とは忘却する生き物だ。以前顧客と取り決めした仕様をメンバー全員が忘れてしまって、再確認する必要に迫られたとする。『確か議事録を印刷したやつがあったような』なんて言い出す奴が出てくるよな。『じゃあそれはどこにあるんだ』、『キングファイルに綴じたはずだよ』『じゃあそのキングファイルはどこだ』、『ダンボールに入れたはずだよ』、『じゃあ、一番下になってるダンボールじゃねえの』なんてことになって、哀れ怪しい物体は白日の下に晒されるんだ。その理屈からすると、真ん中あたりが一番安全ってことになるよ。
でもどうだんだろう。犯人は他人の目を盗んで隠すわけだろ。後ろめたい物を入れるわけだから。それなのに、えっちらおっちらダンボールをどかしてたら、『なにやってんだ?』って、すぐ見つかっちゃうぞ。となるとやっぱり一番上か。最初から蓋が開いてれば、ポイと投げ込むだけで済むもんな。いやいや、『仕事が終わんないんで今日は徹夜しま~す』とかなんとか、一人居残れば、どこでも入れ放題だ。しかし、この現場は徹夜が常態化してたんだよな。だから『躁霊・徹夜囃子』なんかにとり憑かれるわけであって。一人居残るのは無理だな。
あれ、ちょっと待ってくれよ。犯人が怪しい物体を入れた後は、ダンボールの順番が一度も変わらなかった保証なんてないぞ。例えば、取りたい資料が下から二番目のダンボールに入っていたとする。それを取り出した後、律儀にまた下から二番目に戻すか。一番上に置いちゃうんじゃないの? となると、これまでの推論なんて、なんの意味もないじゃないか。はっ。自分は一体なにを考えてるんだ? ううむ、『躁霊・徹夜囃子』め。なんと恐ろしい通力なんだ」
自分の両頬をビシビシ叩きながら、剛は上から順番にダンボール箱の中を確認し始めた。ダンボール箱はたかだか八個しかないので、上から順番に確認しても、大した時間は掛からない。それに、箱を開いた瞬間、中に音源物体が入っていれば音が大きくなるからすぐ分かるのである。案の定、向かって左の列、上から二番目のダンボール箱を開いたとき、途端に祭囃子の音が大きくなった。
「しめた。これだな」
箱の中には、厚さ八センチほどのA4キングファイルが数冊。そしてその上に、ダブルクリップで止められた、厚さ二センチほどのA4用紙の束が乗っている。キングファイルの中を調べるべく、A4用紙の束を取り上げると、さらに祭囃子が大きく聞こえるようになった。急いで紙の束に耳を当てると、確実に中で音がしているのが分かった。
「とうとう見つけたぜ。手を焼かせやがってこの野郎。フフフフフ、わあっはっはっは。よいとせのこらせのどっこいさのせ。踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆ならいぃぃぃぃ、いかん!」
剛は、ボスッ、ボスッっと自分の額をダンボール箱に何度も打ち付け、正気を取り戻した。額には退魔のアミュレットを貼り付けていたものから、珠の跡が赤いブツブツとなって残ってしまっている。
「あれ? なんだこれ」
なんとその紙の束は、糊付けされていて、開くことができないのだ。となれば、力任せに引き破るしかない。剛が学生時代、現役の日本拳法家であったころは、電話帳を引き裂くことなど朝飯前だったのだ。
「うおりゃあああ」
ブスブリブリブリ、ゴットン。
引き裂かれた紙の束から転がり落ちた物。それはスマートフォンだった。画面は省電力モードで真っ黒だが、それは派手に祭囃子を奏でつつ、ブルブルと振動している。
「それ見たことか! ついに。駄目駄目、ここで喜んではいかん。感情が昂ると、またぞろ敵の術中に嵌る」
手元の神の束を見てみると、ちょうどスマートフォンのサイズ、厚みに中がくり抜かれていた。
「手の込んだことをやるもんだ」
剛は、床に落ちたスマートフォンを拾い上げ、まず電源を切ろうと試みた。だが、電源スイッチを長押ししてもオフにならない。そもそも何日間動き続けていたのか。普通に考えればとっくにバッテリーが切れているはずである。要するにこの世のものではなくなっているのだ。
「この世の理に反するIT妖怪め。それならば」
剛は、額に貼り付いている退魔のアミュレットを引き剥がし、妖怪スマホを左手に握ったまま、退魔経を唱え始めた。
― 93 EC 95 FB 8C 52 92 83 97 98 96 E9 8D B3 96 BE 89 A4 0 BC 95 FB 91 E5 88 D0 93 BF 96 E9 8D B3 96 BE 89 A4 96 6B 95 FB 8B E0 8D 84 96 E9 8D B3 96 BE 89 A4 92 86 89 9B 91 E5 93 FA 91 E5 90 B9 95 73 93 AE 96 BE 89 A4―
左手に握った妖怪スマホが、徐々に熱を帯びてきた。
― 東方降三世夜叉明王 南方軍茶利夜叉明王 西方大威徳夜叉明王 北方金剛夜叉明王 中央大日大聖不動明王! ―
妖怪スマホがは、それ以上持ち続けることができないほど熱くなる。ど同時に強烈な硫黄臭。剛は堪らず、妖怪スマホを床に投げ出した。床に落ちた妖怪スマホの液晶ディスプレイにひびが入り、中から黒い霧状の塊が立ち昇ってくる。その塊はそのまま、LANのハブに吸い込まれていった。と、それまで踊り狂っていた男たちは、まるで彫像のように動きを止めた。その様子を見て、剛は素早い動作で破魔のヘッドギアを装着する。
「IT妖怪正体見たり! 『躁霊・徹夜囃子』、逃がさんぞ。魔界公開鍵生成! ジャック・イーーーーン!」
剛が電脳魔界へジャック・インするちょうど同じとき、会議室のドアがガタガタと揺れ、「くそ。中からロックしてやがる!」と、忌々しげに叫ぶ声が聞こえてきた。
―― こちら装社です。ジャック・インなさいましたね。
「はい」
―― どんな感じの世界になってますか?
「ええっと。とにかくだだっ広い平原です。三百六十度見渡しても、なあんにもありません。山も木も建物も」
―― 巨大なオブジェクトが、薬師神さんがいるアドレスに向かって高速て移動しています。ほどなく遭遇するでしょう。
「ガチで正面から来てくれるわけか。これまで捻くれた世界を構築して、悩ませてくれる奴ばかりでしたので、なんかホッとします」
―― 実際のところ『躁霊・徹夜囃子』本体は、それほどバラエティに富んだ攻撃を仕掛けてきません。しかし、油断は禁物ですよ薬師神さん。
「分かっています。それより、会議室の外で、偽高橋がゴソゴソやっているようで、それが気になって。ただ、何の気なしに内側からドアをロックしたので、それで助かりました。ジャック・イン中に襲われたら、ひとたまりもないですから。
―― IT妖怪ハンターは、被憑依者以外全員味方であるという大前提がないと、存分にIT妖怪と闘えない。これは痛すぎるセキュリティーホールと言えような。至急手立てを考える必要がありそうだ。
「よろしくお願いします。ナマさん」
―― とは言い条、私の専門はソフトウェアであるから、かかるフィジカルな命題は専門外である。いっそ袴田端正に委ねようか。彼は生来臆病かつ卑小な人間であるから、卑劣だが有効な逃げ道をひょっこり捻り出さぬとも限らん。
「冗談はやめてくださいよ、ナマさあん」
―― ははは。程なく本物の高橋さんがそちらへ到着するはずです。そうなれば、偽高橋は動くことができますまいて。お気を付けください。敵はかなり接近してきましたよ。
装社実に指摘されなくても、剛自身敵の接近に気付いていた。前方にピョンピョンと跳ねながら接近してくる物体が見えているのだ。近づくにつれて、その形が明確になってきた。それは、“巨大な信楽焼の狸”だったのだ。
「なるほど。正体は狸囃子だってことかい」
―― 気を付けろハンター薬師神。君がいるアドレスを中心に、広範囲ヌルボム投下を演算しているぞ。爆発範囲はおそらく、直径一千二十四キロバイトだ。
「了解」
剛は急ぎ、爆発の予想範囲外までブロック転送で逃れた。剛がいた場所には、百畳敷ほどもある巨大なふぐりが落下して、プスプスと煙を上げている。
以降、『躁霊・徹夜囃子』は、跳躍しては、剛めがけてふぐり投下を繰り返すだけだ。もしかして突然違う攻撃を仕掛けてくるかもしれないと警戒し、暫く様子を見ていたが、一向に違うことをやる気配がない。シミュレーターの中のIT妖怪のほうが、まだ気の利いた動きをする。
「こちら薬師神。奴は同じパターンの攻撃を繰り返しているだけのようです。そろそろ仕留めてもいいでしょうか。どうぞ。
―― そうですねえ。このままだと、あまりに芸がなさすぎる気もしますが。やっちゃいますか。
「はい」
『躁霊・徹夜囃子』は、相変わらずピョンピョンと飛び跳ねていいるが、実に単純なパターンの繰り返しだ。着地点を予想して、リファレンスアンカーを射出すると、狙いたがわず、ふぐりに命中した。痛みを感じているのかいないのか、『躁霊・徹夜囃子』は跳躍をやめ、悲痛な泣き声を上げながら、その場で独楽のように回転している。「こんな奴、捕獲する価値があるか?」と思いつつ、剛は吸魔のUSBメモリに本体を複製した。
「これでよし。なんとなく不憫な気もするが、消えてもらうよ。ヌル初期化砲発射!」
かくして、現実世界で、剛があれほど苦戦を強いられたことが嘘のように、あっさり『躁霊・徹夜囃子』はお縄となったのだ。
「薬師神さん。今回はこちらの不手際で、ご迷惑をお掛けしてしまいまして、まことに申し訳ありません」
「いえ。そちらのせいではありませんよ。高橋さんになりすました謎の男に、引っ掻き回されたんです」
剛がいるのは、事件が発生した会議室の隣の部屋である。ここも会議室になっているが、隣より若干広い。剛の前には、本物の東洋情報システム企画、第三システム部の高橋秀樹が座っている。偽高橋とは似ても似つかず、スーツをビシッと着こなした、さも遣り手といった風貌の男だ。年齢も剛とあまり変わらないだろう。
「薬師神さん。とにかく祝杯を挙げましょう」
高橋は、両手に持った缶ビールを一本、剛に手渡した。
「食べ物もありますから。ただ、こんな夜中に営業しているのは、コンビニくらいですから、大したものはありませんが」
テーブルの上には、高橋が近隣のコンビニエンスストアから調達してきた弁当や総菜、スナック菓子に乾き物といった食料品が所狭しと並んでいた。缶ビールや缶チューハイ、ソフトドリンクなども山積みになっている。当然剛の戦勝祝いとして準備されたものではない。意識を取り戻した者たちに、まず食事を提供するためだ。意識を取り戻した八人は、思い思いの場所に座って、弁当を食したり、ビールを飲んだりしている。
「いやあ、実に感動ですよ。偉いお医者の先生を何人も連れてきて診せたって、『原因が分からない。手の施しようがない』としか言わないんですから。まさか、解決してくれる人がこの世にいたなんて、未だに信じられません。『IT妖怪』ですか。そんなのが本当にいるんだなあ。これは自分にとって、またとない貴重な経験でした。ぷはぁ。美味い! ビールってこんなに美味しい飲み物だったんですねえ」
高橋は感動しきりだ。
「僕は、薬師神さんをリスペクトしますからね。IT妖怪にとり憑かれて困っている人がいたら、もうバンバン薬師神さんを紹介しますよ。きっとなんとかしてくれるから、大船に乗った気でいろって」
「はあ」
剛としてはまんざらでもない気分だが、今回は負けたと思っていた。IT妖怪にではなく、偽高橋と、彼が所属するであろう『IT妖怪サマナー』一味にだ。会議室のドアを内側からロックしていなければ、完全に敗北決定である。最悪の場合、今後IT妖怪ハンターを続けられないほどの打撃を受けていたかもしれないと思うと、背筋が寒くなってくる。
装社実は「IT妖怪ハンターの仕事は、IT妖怪を捕獲・撃退することであって、『IT妖怪サマナー』のような現実世界の相手と丁々発止やり合うことではありませんよ」と慰めてくれたが、尻尾の“し”の字も掴めなかったことが悔しくてならない。
「そうだ! あのスマホ」
『躁霊・徹夜囃子』が宿った、あのスマートフォンを調べれば、なんらかの手掛かりが掴めるはずだ。なぜそんな簡単なことに気付かなかったのか。剛は自分でも驚くほどの勢いで立ち上がった。反動で椅子が弾かれて、ゴロゴロと五メートルほど床を転がっていく。
「ど、どうされたのです?」
「高橋さん、妖怪スマホですよ妖怪スマホ。隣の会議室に、液晶ディスプレイにひびの入ったスマートフォンが落ちていませんでしたか?」
「スマートフォン。さて、そんなものはなかったような」
「あのう。そのスマートフォンなら、薬師神さんの部下だっていう男の人が、証拠として必要だからと、持ってっちゃいましたよぉ」
横から、二つ目の弁当をむしゃむしゃ食べていた男が、間の抜けた声でそう告げた。
「やられた!」
剛に部下などいない。妖怪スマホを持ち去った男は、偽高橋以外に考えられなかった。かくして『躁霊・徹夜囃子』事件は、剛にとって苦々しすぎる結末を迎えたのだ。
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