IT妖怪図鑑 - こちら特命システムゼロ課 #1 ー IT妖怪ハンター・薬師神剛(やくしじん・つよし)誕生編

(一)


「だめだ! やっぱり全然集中できやしない」
 ビデオゲーム画面の中の自機が盛大に弾け飛ぶのを呆然と眺めながら、しみじみと呟いた男の名前は、薬師神剛(やくしじん・つよし)。彼がいるのは、JR秋葉原駅から徒歩三分の八階建て巨大ゲームセンター。その上階にある、ちょっと古めの名作ゲーム筐体が並ぶフロアだ。時刻は午前十一時をわずかに過ぎた頃合いである。
 剛は年齢二十六歳。職業会社員。職種はシステムエンジニアであった。“あった”と過去形なのは、彼が本日、足掛け四年間勤めてきた会社を辞めてしまったからだ。だからいい年をして、真昼間と呼べる時間帯にゲームセンターで遊興に耽ることが可能なのである。
「本当にこれでよかったのか。いや、自分は信念に基づいて行動したまでだ。いつか、誰かがやらなくちゃいけなかったんだよ。やるべきだったのは本当に自分なのか? ほかの人間でもよかったんじゃないの? 本来は城課長がやるべきなんじゃ。プロジェクトの責任者としちゃあ。でも、城課長は女性だからな。女性を最前線に立たせてどうする。それに、社会通念上、責任者があんな自爆テロまがいのことしちゃ駄目だし。じゃあもっと上の部長や役員? だめだ。彼らには大人の事情ってのがあるから。やっぱり、まだ家庭を持ってなくて、フットワークの軽い自分だったんだ。いやちょっと待て」
 どうにも思考が堂々巡りしている剛である。
 剛は、株式会社スリースターズ・ユニバーサル・ソリューション・アーキテックシステムズ(TSUSA)、いたずらに長ったらしい名前なので、業界では通称『ツサ』と呼ばれている、マザーズ上場の準大手SIer(システム・インテグレーター)システム二課に所属していた。
 プログラマー、システムエンジニアなどというと、文系で青白い顔で眼鏡などを掛け、か細くてなよっとした体型もしくは、オタク系のぽっちゃり体型を連想しがちだが、剛は違った。身長は優に百八十を超え、彫りの深い顔に浅黒い肌。髪はスポーツ刈りと、どこから見ても体育会系なのだ。実際、学生時代は日本拳法部に所属していたのである。
 そんな彼が、コンピューターソフトウェア開発の道へ進んでしまったのには、若干浅めの理由がある。学生時代にシューティングゲームの魅力に頭から嵌りこみ、自分も作ってみたいと考えたのだ。そのためには、業界へ進まねばならない。そして、最初に内定をもらったツサへ就職した。しかし、彼の野望は入社一日目で潰えた。企業向けシステム開発の受託開発が、ツサの主たる業務であり、ゲーム開発とは完全に畑違いだったのだ。
 剛は、ソフトウェア開発会社と名がつけば、どこでもゲームを作っていると思い込んでいたのである。採用したツサもツサであって、剛は、面談のときに「自分は後世に残るシューティングゲームを作りたいです」と、堂々と宣言していたのだから、「うちでは、そんなの作ってませんよ」と教えてやればよかった。だが、めったに応募してこないタイプの剛を幹部連中が面白がって、合格にしたというわけだ。
 ただ、思惑が外れたからといって、腐ってしまう剛ではない。よく業務内容を確認しないで応募した自分が悪いのだし、「入った限りはとにかく頑張ってみる」というのが彼の人生哲学だから、とにかく頑張ってみたのだ。斯界は存外に体力勝負のところがあって、これがピタリと嵌り、結果的に、システム二課を束ねる、ツサ史上初の女性課長(しかも三十歳以前の課長昇進は男性も含めて初)、城富美子(じょう・ふみこ)の右腕として活躍し、将来の幹部候補として、経営陣から期待されるに至ったのである。それが一転、辞職やむなしという事態に陥ってしまったのには、次のような経緯があった。
 前年中ごろからシステム二課の中核プロジェクトとして始動した、山岡血清株式会社(本社西新宿、東京都西部を中心に、全国にラボを置く業界大手)の臨床検査システムがまったくの大ハズレ、スケジュールが遅れに遅れ、にっちもさっちもいかなくなった。その元凶である(と、剛が所属するシステム二課のメンバーが認識している)、上司である城富美子にも事前相談せず彼の独断で、顧客の担当SE川田保(かわだ・たもつ)と、山岡血清の役員クラスも参加する月次定例進捗会議の席上で、派手に衝突してしまった。理路整然と川田の責任を追及している間はよかったが、持ち前の正義感と直情的な性格のゆえ、最悪の場合、傷害事件に発展するかもしれないことをやらかしてしまったのである。
 残念ながら、詳細をここに記すことはしない。なぜなら剛自身が、その一件を想起したくないようだからだ。いつか剛または周辺の人物が、詳細を語ってくれるだろう。
 本日、剛と城富美子。そして、社長は業務内容にほぼノータッチ。日々接待ゴルフに余念がないという“お飾り”であるから、ツサの実質的なトップ、四方惟光(しかた・これみつ)システム本部長の三者で話し合った結果、辞職やむなしという結論に達したのだ。城富美子と四方は、ほとぼりが冷めるまで他の課に移籍してはどうかと慰留したが、最終的には、自らの軽挙で迷惑をかけてしまった会社に、おめおめ残っていられないという剛の気持ちが尊重された形になった。実は、事を起こした時点で、剛の辞意は固まっていたのである。それまでに幾度か、課長の城富美子からSOSが発信されていたにも関わらず、なんの動きも見せなかった上層部に対して、不信感を抱いていたからだ。
「分かったよ。そっちがその気なら、こっちはこの気だ。誰もやらないなら自分が一石投じてやる」と決断し、実行に移した結果が、六月十三日の金曜日づけという、極めて中途半端で不吉な辞職となったわけだ。
「おい見てみろよ、この怒首領蜂。ありえねえハイスコア―叩きだしてる奴がいるよ」
「ホントだ。ヤベェよこの得点。TSUYOSHI・Y? もしかして、伝説のハイローラー、『アキバのツヨシ』じゃねえの」
 大学生と思しき二人連れが、さきほどまで剛がプレイしていた『怒首領蜂』(どどんぱち:業務用シューティングゲームの雄、株式会社ケイブが開発した『弾幕系シューティング』の金字塔)の画面を見て、興奮しながら話し合っている。
 剛は昔からシューティングゲーム、特に、気持ちが悪くなるほど敵機の発射する弾で画面が埋め尽くされる、所謂『弾幕系シューティング』(別名避けシュー)が大好きで、学生時代は秋葉原を足がかりに六本木、渋谷新宿池袋と、次々にハイスコアを叩き出して回ったものだ。会社を辞めて、魂の大半がどこかへ吹っ飛んでしまった剛は、ふと気がつくと秋葉原のゲームセンターに居たという次第だ。
「確か、昨日来たときは、ランキングになかったぜ」
「ツヨシがアキバに戻って来たってことか。ここで粘ってりゃ、もしかして会えるかもしれないぞ」
「すんげーテクニックを見せてもらえるかもな」
 学生の二人連れが、自分の名前を知っているということで、剛はまんざらでもない気分になったが、とても彼らにプレイを披露して喜んでいる精神状態ではない。
「でもさあ、アキバのツヨシが、ここら一帯のゲーセンで、避けシューのハイスコア塗り替えてたの、四年も五年も前だぜ。もう、いいオッサンになっちゃってんじゃねえの」
「そうだよなあ。もう社会人になってるはずだよなあ。なんでアキバに舞い戻ってきたんだろ?」
「もしかして、会社をクビにでもなっちゃったんじゃねえの。アハハ」
 なにやら雲行きが怪しくなってきた。「学生の本分は勉強だろ。毎日ゲーセンに通ってるんじゃない。親が知ったら泣くぞ」と言ってやりたいところだが、会社を飛び出して真昼間にゲームセンターにいる剛のほうが、親に泣かれる可能性が高い。集中できなかったとはいえ、今プレイしている『虫姫さま』でも、ダントツのハイスコアが出ていたが、名前入れはやめ、剛は早々に立ち去ることに決めた。
「いやあ。なかなかの腕前ですなあ」
 椅子から立ち上がった瞬間、いきなり背後から声をかけられた剛は、驚いて一瞬ビクッと体を硬直させる。おそるおそる振り向くと、そこには、おそらく五十代であろう男性が立っていた。スーツではなく、紺とグレーのストライプ模様のスラックスに、色の取り合わせが無茶苦茶なえんじ色のジャケットという姿だが、中は白のワイシャツなので、かろうじて勤め人であろうと予想できる。
 ネクタイは締めていないが、もう六月中旬であるから、クールビズということで、別におかしくはない。百八十五センチある剛の、ちょうど顎あたりに頭頂部がくるので、身長は百七十前後。腹の周辺がこんもりと盛り上がってはいるが、胸板や手足などパーツが細いので、貫録はあまりない。
 髪はきっちりと分けられているわけではないが、スポーツ刈りが無駄に伸び始めた程度で、鬱陶しくはない。ただ、髪の色が、黒とこげ茶と白の斑になっている。髪は定期的に染め直すべきだ。
 黒とシルバーの混ざった、細くてまん丸のフレーム眼鏡をかけているので、全体的には柔和な顔立ちに見えるが、目つきがあまりよくない。最も剛の注意を惹いたのは、男の容姿ではなく左手に握られている杖だった。杖が必要なほど老齢には見えないのだが。
「な。なんですか?」
「薬師神剛さんですな。このような場所でいきなり声をおかけしてしまい、まことに申し訳ありません。至急あなたにお会いして、お話がしたかったのでねえ」
「誰なんですあなたは?」
「おっと。これは失敬。自己紹介を忘れておりましたな。私は装社実(そうしゃ・みのる)です」
「そう・しゃみのる?」
「妙ななところで区切らないでください。“しゃみのる”なんて名前ありますかあなた。まあいいです。こんなところで立ち話しもあれだ。ピコピコジャンジャンうるさいですからな。場所を変えましょうか」
「分かりました」
 剛が、初対面である初老の男の申し出に従ったのには理由がある。装社実という名に聞き覚えがあったからだ。彼が勤めていた株式会社ツサには、大きく分けてシステム部と総務(経理兼任)部がある。さらにシステム部は四つの課に分かれている。営業マンはいるが、営業部というセクションはなく、システムの各課に所属する営業担当者という位置づけだ。
 システム一課は主に医療機器を主とした組み込み開発、システム二課はクライアント・サーバー型やイントラネット型の所謂企業情報システム開発、システム三課はデザイナーを擁してのウエッブサイトの構築、そしてシステム四課は、オリジナルパッケージの研究開発と、それぞれ担当分野がある。だだし、四つの課が完全に独立しているわけではなく、いずれかの課に仕事が集中した場合、他の課から手隙の技術者が応援に出るなど、かなりフレキシブルな組織間の交流がある。
 だが、システム開発担当部署は、前記四つの課だけではない。もうひとつ『システムゼロ課』という部署が存在するのだが、他の課とまったく交流がなく、なにをやる部署なのか、誰も知らないのである。
 ツサの各課は全て西新宿の本社内にあるが、ゼロ課だけは別の場所に事務所を構えている。ゼロ課が、ツサ社内の人間にすら知られると拙い、非合法な、それはもう、筆舌に尽くしがたいほどの悪事に手を染めている秘密結社だからというのが、その理由だ。
  謎のベールに包まれた集団『システムゼロ課』。その首魁の名こそ、装社実なのである。剛の面前に立っている男が、ゼロ課の首魁と決まったわけではなく、同姓同名の他人なのかもしれないが、装社という姓は極めて珍しいし、剛の名前を知っていることからして、まず間違いないだろう。
「あの。あなたは株式会社ツサのシステムゼロ課課長、装社さんですよね」
 念のため剛は、左脚を引きずりながら、彼の前をゆっくりと歩いている初老の男に確認してみた。
「そうしゃ。なあんちゃって」
 装社実の両肩が小刻みに震えている。前方を向いたままなので表情は見て取れないが、自ら放ったくだらないダジャレに、自らウケているに違いない。剛としては、ここから先も面白いとは思わなかったが、おかげで緊張がほぐれた。
 二人は、ゲームセンターから徒歩二、三分のところにある、喫茶ルノアールに場所を移した。ただし、健常人が歩いて二、三分であって、左脚の悪い装社実のペースで歩いたので、十分近くかかってしまった。ようよう席に着いた装社実は、大汗をかいている。
「ハァ、日中は汗ばむ時候になってまいりましたからな。戸外を歩くのは辛いですわ、まったく」
 息を荒くして、おしぼりで顔や首筋の汗をぬぐっている装社実を見ていると、剛は自分が悪いことをした気分になってきた。
「申し訳ありません」
「え?」
「お待たせいたしました」
 ウエイトレスが、二人の前にコースターとアイスコーヒー、パックのシュガーとミルクを二人前手際よく置いて、「ご注文は以上でよろしかったですか?」と確認しつつ、返事を待たずに颯爽と去っていく。剛はあまりアイスコーヒーが好きではなかったが、着席してウエイトレスが注文をとりにくるやいなや、装社実が待ってましたとばかりに、元気よく「私はもちろんアイスコーヒー!」と叫んだので、他のものを注文することは、もしや罪悪なのではという強迫観念にかられ、つい「自分も」と言ってしまったのだ。
「あんな場所でズズ突然声ズズズをおかけして、さぞゾゾゾゾ驚かれたことでズズズしょうズズズズズ」
 話すか、コーヒーを啜るか、どちらかにしてもらいたい。
「はい。まあ」
「薬師神さんのお噂は、四方システム本部長殿より、かねがね伺っておりましてな。是非、我がシステムゼロ課にほしい人材であるわいと希求していたのです。しかしながら、あなたはシステム二課において、城富美子氏の右腕として大車輪の活躍でしたからな。さすがに、無理やり拉致するわけにもまいりません。
 なんとかならぬものかと、常日頃から考えておりましたところ、本日なんと、四方殿より、あなたが辞職されたという大吉報をいただきましてね。よその会社に獲られる前に、一刻も早くあなたにお会いして、是非にもゼロ課にリクルートしたく、こうしてまかりこした次第なのです。いやあ、十三日の金曜日は忌日であるというのは、キリスト教文化圏でない我が国には当てはまりませんなあ」
「しかし、自分があのゲームセンターにいることが、よく分かりましたね」
「なあに。システム二課の皆さんに、あなたの立ち回り先をリサーチさせていただいたのです。十人中八人が、憂さ晴らしに、アキバのゲームセンターへ向かうのではないかと証言されていましたので、かなり確率が高いかなと」
 万事単純な自分の行動など、お見通しなのだなと、剛は鼻白んだ。
「ツサに、システムゼロ課が存在するというのは、なんとなく知っていました。でも」
「あまりよい噂は、お聞きになられていないのですね」
「そうです。自分は回りくどいのが嫌いなので、単刀直入にお聞きします」
「望むところです」
「ゼロ課って、いったいなにをやってるんですか?」
「お答えできません!」
 剛は、椅子から転げ落ちそうになった。
「いま、椅子から転げ落ちそうになりましたね。でも誤解なきよう。未来永劫お答えしないつもりは毛頭ありません。単に、いまここではお答えできないだけですよ。さすがに衆目がありますので。事務所にお越しいただければ、包み隠さずお話しできますが、それでは済まんでしょうな」
 やはり、大声では言えないような業務内容なのだ。少なくとも通常のシステム開発業務ではないことは確実になった。
「はい。済ませてなるものか。という気分になっています」
「では、本質はベールに包まれてぼやけているものの、なんとなく片鱗が垣間見える程度にお話ししましょう。我々ゼロ課の職務は、深刻なトラブルを抱えて頓挫しているプロジェクトのレスキューです」
「なんだ、火消しですか。いくつもの修羅場を潜り抜けてきた、海千山千の技術者をかき集めてきて、火を噴いている現場にドバっと投入し、昼夜を徹して一気にカタをつけてしまうんですね」
「これは心外ですな。我々はそのような、大時代的ブラック集団ではありませんよ。夜はちゃんと寝なきゃ。そうでしょう」
「では、プロジェクトの問題点を徹底的に分析し、アドバイスを行う仕事ですか。自分はちょっとそっちのほうは。体育会系なんで、体力にものを言わせて、一気にカタをつけるほうが好みです」
「カウンセリングは行いません。火を噴いている現場には、必ずその原因を作り出している個人またはグループがいるというのが、我々の考えかたでしてな。それを特定し、有無を言わさず排除することで、一気にカタをつけるのです」
「余計わけが分からなくなってきました。せっかくのお誘いですが、どうも自分には向いていないような気がしますので、今回は辞退させていただこうかなと」
「おやおや。わけが分からないのに、なぜご自分に向いていないと判断できるのです? よろしい。これを聞けば、少しは興味が沸くのではありませんかな。ゼロ課にきていただければ、そう遠くない将来、山岡血清の川田を打倒し、プロジェクトの進行を正常に戻すことができますよ」
 剛の体が、感電したようにビクッと震えた。彼の頭の中にかかっていた霧が、一気に晴れていく。
「嘘だ」
「嘘ではありません。つい先ほどお話ししたゼロ課の業務内容に、完全に符合するではないですか。山岡血清のプロジェクトが火を噴いている原因を作り出しているのは、顧客の電算室長、川田です。従って、彼を排除すれば一気にカタがつくのです」
「でも、川田は顧客の窓口で、役職もかなり上級です。自分たちは仕事を請けている側ですよ。立場の強弱は明白で、排除など到底できないでしょう。あっ。もしかして、罠を仕掛けて失脚させるとか。まさか、暗殺するんじゃないでしょうね。犯罪には加担しませんよ自分は!」
「冗談じゃない。規模の大小関係なく、プロジェクトが火を噴く原因を作った者をいちいち暗殺していたら、年間十万人以上の技術者が死にます。業界に人がいなくなっちゃいますよ」
「じゃあ、じゃあどうするんですか!」
「大きな声を出さないでください。ほかのお客さんがこっちを見てますよ。恥ずかしいじゃないですか」
「あ。すみませんズズー」
 剛は、気持ちを落ち着かせるために、コーヒーをひとくち啜る。
「仕事を請け負った側の意向で、顧客の担当者を外すことは難しい、と言いますか、ほぼ無理ですが、第三者から『かの者はプロジェクトの運営に不適合である。直ちに任を解くべし』と命令が下れば、降ろすことができますね」
「第三者?」
「『善意の第三者』のように、フワフワっとしたものでは駄目でありまして、権威を持つ上から目線の第三者、つまり省庁や官憲ですな」
「官公庁が民間のシステム開発に口出ししてくるなんて、聞いたことありません。だいたい、自分ちのプロジェクト開発だって、火を噴いてばかりじゃないですか。だいたい、自分の部署の保身しか考えていませんからね。部署間で調整して物事を決めるということができないんです。おかげで完成が遅れに遅れる。でも、民間と違って、完成が遅れても自分の腹は痛まないから、呑気なもんですよ。本当に税金の無駄遣いだ。よその世話を焼いている暇があれば、自分ちをなんとかしろよってやつだ」
「コホン、そういったことは、こういう場で公言しないほうが賢明です」
「そ、そうですよね」
「我々ゼロ課は、なんでもかんでも、火を噴いている現場に首を突っ込むわけではないのです。その原因となった者が、ある特定の状況に陥っていると判断される場合のみ動くのです」
「ある特定の状況って?」
 装社実は、いたずらっぽい微笑を浮かべたまま、黙り込んでしまった。そのままずっと沈黙が続く。
「早く教えてくださいよ」
「フフフ。それは明日に続くということで。どうぞおたのしみに」
 剛は、とうとう椅子ごと盛大にひっくりかえってしまった。
「明日十時に、ゼロ課の事務所へお越しください。私の名刺、ここに置いときます。住所は、その名刺に記してありますのでね」
 装社実は、伝票を掴んで立ち上がり、杖を突きながら、ゆっくりと立ち去り、仰向けにひっくりかえっている剛が残された。
「あのお客さま、大丈夫でございますか。起こして差し上げましょうか」
 ウエイトレスが心配げな顔で剛の顔を覗き込む。
「暫く、このままにしておいていただけないでしょうか。ご迷惑ですか」
「いいえ。お客さまの一番リラックスできるスタイルで過していただくのが、当店のモットーでございますので」

(二)


 秋葉原のゲームセンターで、株式会社ツサ内で都市伝説化している謎の部署、システムゼロ課の装社実課長と出会い、リクルートされた剛は、結果的に申し出を受けることに決めたのである。
 首魁の装社実は、普通人か怪人かの二元論で判断すれば怪人であるし、業務内容があまりにも不明瞭で、悪事に加担させられる恐れがあるし、そもそもちゃんと給料をもらえるかすら不明であったが、それら諸々の懸念を全て合算しても、ただひとつ『山岡血清の川田を打倒して、システム二課を救えるかもしれない』という期待値を上回らなかったのだ。
 意を決した剛はその翌日、装社実が指定した時刻に、システムゼロ課の事務所を訪れた。事務所の最寄駅はJR中央・総武線の中野。駅を降りて中野通りを北上。早稲田通りに出たら右折し、新宿方面へ五百メートルほど歩いたところにある雑居ビルの四階にそれはある。そもそも階数からして不吉だ。
 実は偶然にも、剛が単身居住しているアパートが、地下鉄中野坂上駅から徒歩十分、若い芸能人やスポーツマンが多数通っていることで有名なHK高等学校の傍にあるので、ゼロ課の事務所とは直線距離で二キロ程度と、かなり近いのだ。自転車なら五分だが、当日は九時過ぎに自宅を出て、歩くことにした剛である。なぜなら、ゆっくり歩きながら、もう一度よく考えてみようと思ったのだ。もしかすると、うっかり見落としていた危険な罠に気づくかもしれないではないか。自転車だと、気づく前に事務所に到着してしまう。
 しかし、実際に歩き出して五分もたたぬうちに、剛は徒歩を選択したことを後悔していた。とにかく日差しがきつく、暑くてたまらない。まずスーツの上着を脱いぎ、次にネクタイを外しても、汗が噴出してくる。直線距離では二キロ程度だが、まっすぐストーンと通っているわけではなく、あっちへクネクネこっちへカクカク、まるでアミダクジの如き道をスマートフォンの地図アプリと首っ引きで歩いていくうち、剛の頭の中は『一刻も早く、ゼロ課の事務所に着きたい』という願望で一杯になってしまったのだ。無論、『ゼロ課に行くのはやめて、自宅へ引き返す』という選択肢もある。しかし、距離的に中間地点を越えてしまっている場合、自宅に引き返すほうが余計暑いのである。
 そんなこんなで、目的地に到着したときには、剛は全身汗だくになっていた。ゼロ課が入居している雑居ビルの一階が、スーパーマーケットになっていたので、トイレを借りて顔や首筋、腕などを丁寧に荒い、用事もないのに店内をウロウロして汗を引かせ、十時五分前に、いよいよゼロ課の事務所へ乗り込んだのである。
 ゼロ課は、その雑居ビルの同じ階に、三部屋を借りていた。といってもその階には三つしか部屋がないから、ワンフロアー借り切りだ。まず、剛が通された応接室兼会議室がしつらえられている二十五坪の部屋。そして、別に、十坪弱の小部屋がふたつ。小部屋のひとつは物置に、もうひとつは、いまいち具体的ではないが『シミュレーションルーム』として使われているらしい。課長の装社実を含め、現在メンバーは五名という小所帯で、ワンフロアー借り切りは贅沢である。
「いやあ。お越しいただけたんですなあ。昨日お会いしたときの感触ですと、フィフティ・フィフティでしたからね。もしかすると今日は、IT%&▲□#℃薬師神が爆誕した日として、後世に残るやもしれませんぞ」
 剛には、装社実が発した言葉の一部がよく聞き取れなかった。いや、音としては耳に入ってきたが、意味が理解できなかったと表現したほうが正しいかもしれない。
「まだ決めたわけではないです。なぜシステムゼロ課に所属すると、川田を打倒する可能性が生まれるのか。その理由が明確にならない限り、自分はこちらに入りません」
「おやおや。昨日私が発した言葉を間違って受け取られていますぞ、薬師神さん」
「まさか、今になって『川田を打倒できるかもしれないなんて、嘘だよん。そんなのできるわけないじゃん。立場を考えてよ立場を』なんて言い出すんじゃないでしょうね? グーで殴りますよグーで」
「穏やかではありませんなあ。ほらほら、そうやってゲンコツにハーッと息を吹きかけないでください。怖いから。私は『打倒できる可能性があります』などという、不確定なことは言っておりませんよ。『打倒できます』と断言したのです。
 おそらくあなたの頭の中に、『相手はお客さまで、しかも地位の高い役職者だから、仕事を請けている自分たちがどうこうできるわけねえじゃん』という、一般常識から生み出された固定観念が存在し、それがフィルターとなって、私が発した言葉『打倒できます』が、『打倒できるかもしれません』という曖昧な表現に変化したのですね」
「じゃあ、なぜ確実に川田を打倒できるのか、その理由を聞かせてもらおうじゃありませんか!」
「だからそれを、今から申し上げようとしているんですが」
「……」
「山岡血清の川田は、実に厄介な人物です。人間は基本的に間違いを犯す生き物で、ケアレスミスや勘違い、思慮不足などにより、間違ったことを言ってしまうことが多々あります。システム開発というビジネスのシーンにおいては、その間違いによって作業の手戻りが発生し、工期に影響が出て、最終的には費用的トラブルに発展してしまうわけです。
 ただここで重要なのは、システムの発注側がその間違いを犯してしまった場合でも、『ゴメンなさい』と誠心誠意、素直に過ちを認めれば、受注側も『まあまあ』ということで、なんとか契約の範囲内で吸収してあげようと努めるのです。そういうこともあろうかと、費用及び工期の見積りにバッファを持たせていますからね。現場の士気が低下することもありません。そういったケースがほとんどであるということなんです。
 ただここに、プライドが高すぎるのか気が弱いのか、はたまた重篤な健忘症なのか、自らの過ちを認めず、『そんなことを言った覚えはない』と、発注者対受注者というパワーバランスにより、押し通そうとする者がいるわけですね。山岡血清の電算課課長である川田保は、その極端な例なのです。ここまでの認識に誤りはありませんよね?」
「はい」
「例えば取り決めた仕様により、ひと通り実装が完了した機能があるとします。それを川田に見せると、『これじゃ駄目だよ。誰がこんな機能にしてくれって言ったんだ? 修正してくれ』と、必ず仕様変更が入る。仕様変更というより、改造命令ですね。工数がかかりすぎる場合は、納期の見直し、もしくは本番稼動後の保守としての対応を打診しても、まったく聞く耳持たない。『納期は伸ばせない。使い物にならないから、これでは本番稼動もくそもない。使い物にならないシステムには、金は払えない』と突っぱねるものですから、受注側としては泣く泣く引き受けざるをえないと。そういうことですね」
「そうです。それだけなら。それだけでもひどい話ですが、まだ我慢できるんだ。腹に据えかねるのは、ようよう修正を完了させて奴に見せると、『なんだこれは。仕様と違うじゃないか。誰の判断でこんな変更をした? 作り直せ!』って。そのとき自分は、『こいつはシステムを完成させる気は毛頭なくて、自分たちを苦しめたいだけなんだ』と気づいた」
「このままではシステム二課が潰されてしまうと、気骨あるひとりの男が立ち上がりました。ま、これは薬師神さんのことなんですが、その男は、実際にシステムを使う部門の責任者、すなわち部長職以上のお歴々が出席する月次定例進捗会議において、議事録と照らし合わせながら、川田が突きつけてきた無理無体をひとつひとつ白日の下に晒して、『いつまでたってもシステムが完成しないのはこの野郎、川田のせいだ!』と断定したのです」
「あれだけ証拠を突きつけてやっても、往生際悪く責任逃れをしようとしたので、頭にきてダブルクリップで止めた議事録の束を奴に投げつけてしまいました。おかげで自分は責任を取ってクビです。でも後悔はしていません」
「そうですね。その行動により、薬師神さんの指摘がより信憑性を増したわけですから。その証拠に、今後は取り決めた仕様を議事録で確認しあい、粛々と開発を進めるよう、川田に厳命が下りましたからね」
 部外者であるにもかかわらず、装社実が的確に事情をおさえていることに、剛は驚愕した。
「よくご存知ですね」
「当然です。昨日も申し上げましたでしょう。私は以前からあなたに目をつけていたと。特に山岡血清川田との一件は、最大の関心事と申せますからな」
「自分は心配なんです。川田の奴は、絶対にあのままで終わらない」
「なぜ?」
「普通なら、月次定例進捗会の席上で、釘を刺された時点で悔い改めるでしょう。内心不服でも、自分より上の役職者の命令には従わざるをえません。でも、川田は普通じゃないんです」
「どう普通じゃないのですか?」
「あいつは人間ではない気がします。とにかく臭いんだ。普段はそうでもないけれど、システム二課に攻撃を仕掛けてくるとき、ものすごい悪臭がするんです。あれはそうですね。温泉の硫黄のにおい。それのきついやつです。でも不思議なことに、自分しか感じない」
「ほう。それは素晴らしい」
 陳腐な表現だが、剛には、装社実の目がキラリと光ったように見えた。
「素晴らしい?」
「やはりあなたは、見込み通りのかたでしたな。薬師神さん、あなたの不安は必ず現実になります。そうですなあ、今度は議事録が消えますね」
「議事録が消える?」
「はい。川田にとって都合の悪い、と申しますか、システム二課を攻撃するときの障碍となる議事録が次々改竄され、最悪の場合、議事録そのものが消失します。薬師神さんに、議事録を盾に一敗地にまみれたわけですから、基本的に単純な思考アルゴリズムを持つ奴は、議事録さえなければと考えて、消しにかかるわけです」
「ちょっと待ってください。単にワープロソフトで作成して、メールでやり取りしているだけなら改竄も考えられますが、ツサではWiki(ウィキ)をカスタマイズした、独自のシステムで議事録を管理しています。顧客側と開発側、それぞれの責任者がお互いに承認しないと、ドキュメントの登録、内容の変更、削除はできませんよ。しかもドキュメント管理サーバーはツサ内部にあり、ファイヤーウォールでガチガチに守られてます。侵入は不可能です」
「ところが川田には、そのようなこと朝飯前なのです」
「なぜですか? 信じられません」
「それは、山岡血清の川田が、IT妖怪『邪神・言った言わんの馬鹿(いったいわんのばか)』に憑依されているからです」
 数秒間の沈黙。剛は、装社実が発した言葉の意味をまったく理解できないでいた。音声としてしっかり耳に入ってきたし、日本語としておかしなところはなにもないのだが、意味が分からないのだ。
「アイテ、アイティーようよう。なんですか?」
「IT妖怪ですね。要件を根底から覆し、仕様変更を連発。議事録やその他記録を都合よく改竄もしくは消滅させ、開発現場を大混乱に陥れる。それが、禍々しきIT妖怪、『邪神・言った言わんの馬鹿』の通力なのです」
 装社実は、剛の当惑も知らぬ顔で、言葉を続けた。
「『邪神・言った言わんの馬鹿』は、存在のみ確認されているものの、これまで多くのハンターの挑戦を退けてきて、その実態が杳として知れない、IT妖怪の幹部と評すべき大物です。
 本体を捕獲することができれば無論のこと、通力や行動アルゴリズムなどの情報を収集できれば、業界の労働環境は飛躍的に改善されることでしょう。この機会を逃す手はありませんな」
 剛は相変わらず、装社実の言葉を理解できないでいた。それが装社実の発言の中に、たったひとつ意味不明なキーワードが混ざりこんでいるために、すべてが理解不能になっていることに、ようよう思い至る。
「あの。『あいていようかい』って、なんですか?」
「おお。そうでしたね。まず『IT妖怪』のなんたるかをご説明せねばなりませんでした」
 薬師神剛が知りたかったのは、ただ『IT妖怪とはなんぞや』ということだけだったのだが、装社実は、その壮絶な過去を滔々と語り始めたのである。尋ねてもいないのに。
 装社実は、四半世紀前、『大阪浪速に日本のMITあり』と称された、政忠摂津工科大學(まさちゅうせっつこうかだいがく)において、ソフトウェア工学の修士課程を収め、同博士課程へ進学した。
 生来の粗忽者である彼は、日々さまざまな失態を演じ、師匠である浅井笠雄(あさい・かさお)教授から疎まれていたが、ある日、取り返しのつかない過ちを犯してしまった。
 頼まれていた大事なおつかいをすっかり忘却していて、それを厳しく糾弾されたものだがら、大慌てで出立しようとしたときに、パンチカードが入った段ボール箱を足に履いてひっくり返し、バラバラにしてしまったのである。なんとそれは、浅井笠雄教授がライフワークとして作成中の、フォートランで記述された、二十万行にも及ぶ形態素解析プログラムだったのだ。
 磁気記録メディアが普及していない当時、プログラムやデータは、パンチカードや紙テープに記録していたのである。プログラム一行がパンチカード1枚に相当するから、装社実は、二十万枚に及ぶパンチカードを床にぶちまけ、バラバラにしてしまったわけだ。
 そこですかさず謝罪し、何時間いやさ何日間かかろうと、元通り箱に戻に戻す作業を開始すればよかったのだが、そこは関西人の悲しい性、最悪になってしまった場の空気をなんとかしようと、装社実はブラックジョークをぶちかましてしまったのである。
「これが本当の、『覆水盆に返らず』ですねえ」
 この寒すぎるジョークが浅井笠雄教授の逆鱗に触れ、どこから取り出してきたか、バールのようなものでしたたかに打ちのめされ、装社実は研究室から追放。大學から除籍されてしまった。
 かくして象牙の塔から野に下った装社実は、失意のどん底にあったが、それでも生きていかねばならぬという意志は強固に持っていた。
 だいたい、パンチカードが入った段ボール箱をひっくり返したぐらいで、いちいち世を儚んでいる場合ではないのである。そこで、彼のような脛に傷を持つ者でも雇用してくれるソフトウェア開発会社を捜し求めて大阪中をさまよい歩き、とうとう、大阪キタのお初天神境内で行き倒れていたところ、たまたま通りかかった、企業情報システム開発会社社長、前場周二に拾われたのである。
 企業情報システムとは、発注してきた企業向け情報処理に特化した、所謂特注システムである。大企業の基幹システム開発ともなると、何億、何十億の金と、何百、何千という人が動く。現代では恰好よく、『システム・インテグレーション』と呼ばれているが、昔からやることは同じだ。
 当時はバブル絶頂期で、企業情報システム開発の案件が、文字通り掃いて捨てるほどあったのだ。しかし、プログラマーやシステムエンジニアの数が足りないので、前場社長は中之島公園や扇町公園、その他あちこちの神社仏閣を回り、都合よく行き倒れている技術者がいれば捕獲し、自社で働かせようと画策していたのだった。
 そんなこんなで身を投じた企業情報システム開発の世界で、装社実は牛馬の如く働かされた。とにかく、「なんでそうなの?」と道行く人全てに疑問を投げかけたくなるほど忙しいのである。毎晩終電、土日祝日返上、毎週水、金は徹夜の日と決まっている。参画しているメンバーの中で何十名かは体を壊し、何名かは心を病み、必ず一人や二人死者が出るのだ。
 コードを書いても書いても書いても書いても仕事が終わらない。顧客と約束した納期など、まず百パーセント守られることはない。ひどいときには納期を過ぎてからプログラムを作り出したりする。ドタバタの挙句、やっとのことで納品したと思ったら、今度はまともに動作せず、顧客の責任者は離島に飛ばされ、プロジェクトの責任者は縊死ということが、日常茶飯事で起こるのである。
「この業界は、どこかが根本的に間違っている」
 装社実はそう思ったのだが、深く分析することは叶わなかった。なにしろ、そんなことを考えている暇がないほど忙しかったのである。日々の作業に追われて思考が停止してしまったのだ。
 そのうち、「まあこの業界はこうなのだ。だからなぜこうなんだと考えてもしかたないのである。そんな暇があったら、いまここにあるこのデータマッチング処理を実装することこそ重要なのである」と考えるようになってしまった。慣れというには、余りに悲しい状態に陥ってしまったわけだ。
 そして、二十年の歳月が流れた。あっというまのことであった。
 その間に装社実は勤め人を辞し、フリーランスとしてシステム開発の現場に参画するようになった。長年の間に培ってきた処世術により、爆発炎上して、狂乱状態にある現場の中にあっても、その中に頭から飛び込んで、一緒にコリャコリャと踊るようなことはせず、一歩身を引いて冷静に対処することが出来るようになったのである。彼が四十二歳のときだから、十五年前だ。
 そこで、若きころ抱いた疑問、「この業界は、どこかが根本的に間違っている」ということについて、再度思いを馳せることができるようになり、「何故システム開発というものは、最終的に無茶苦茶な状態に陥ってしまうのか?」、「なぜこの業界には、訳のわからぬ人物が多く徘徊しているのか?」、「なぜこうも、システム開発の現場で、不可思議な現象が多発するのか?」等の疑問に、自分なりの回答を導き出そうと考えるようになったのだ。
「あの装社さん。この面談っていうか、ゼロ課に入るにあたっての業務説明は、午前十時から始まりましたよね。自分が『IT妖怪ってなんですか?』とお伺いしたのが確か、十時三十分ごろだったように記憶しています。もうお昼すぎてますよ」
 黙って装社実の思い出話を聞いていた剛も、さすがに音を上げた。文章にて要約すれば短いが、実際には細部に渡り、明らかに無駄と思われるギャグを適宜挿入しつつ、みっちり一時間半、延々喋り続けていたのである。
「おお。もうこんな時間ですか。おそらく君はこう言いたいのでしょう。『メシはいつだ?』と」
「そんなことを言いたいわけではありません。僕が知りたいのは、『IT妖怪とはなんだ?』ただそれだけです」
「なるほど。ほかに話したいことは山ほどありますが、そろそろ君の質問に答えねばならないでしょうね」
「そんなもの、一時間半ほど前には答えなきゃいけないってぇの」と剛は思ったが、口には出さない。
「しかしその前に、腹ごしらえをしましょう。といっても、この時間ではどこも満員ですね。店屋物でも取りますか。薬師神さん、好き嫌いはございますかな。もしくは、昼食なるものに対するこだわりなどは?」
「ゲテモノでなければ、特に好き嫌いはありません。食事に対するこだわりもないです」
「そうですか。では中華でいいですね。この事務所の近くに、知る人ぞ知る中華料理屋があるのです。そこの中華ランチは絶品ですよ」
「でも今、お昼どきの真っ最中ですよ。そんなときに出前を頼んで大丈夫なんですか?」
「大丈夫です。味は確かですが、店内があまりに汚いので、いつも閑古鳥が鳴いているのですよ」
 本当に大丈夫なのか。
「では、話しを続けます」
 フリーランスになって八年が経過した頃、外資系会社のシステム開発現場において、装社実は、チャーリー・マクラーレンと名乗る米国の技術者と宿命の出会いを果たした。
 彼は、自らを強大な霊的能力の所持者と公言してはばからず、サイババとは”おまえおれ”の間柄であったとか、アメリカ政府から極秘の依頼を請け、フセインの潜伏先を霊視したとか、夜な夜な美輪昭宏のところへ幽体離脱して訪問し、霊的指導をおこなっているとか、ジャパンのオンミョードーにも精通しており、シキガミを使役してプログラムを作らせているとか、もう言いたい放題、ニューエイジかぶれで胡散臭さ爆発の輩なのであったが、たった一つ、装社実の心の琴線に触れることを言ったのだった。
 彼は、伝説のアトランティス大陸で、プログラマーとして生きた、『ハスケル』という人物の魂魄と交信しているというのである。『ハスケル』いわく、アトランティス大陸にも当然コンピューターと同等のものが存在しており、プログラマーという職業もあったというのだ。無論、現在我々が使っているものとは比較にならぬ程進歩しているのであるが、それでもやはり、システム開発プロジェクトの納期は遵守されることは稀で、多くは爆発炎上していたらしいのである。
 だが、彼らはその科学力でもって、根本原因を突き止めていた。システム開発の現場が混乱するのは、高次元の悪しき意思からの侵略が原因ということをだ。そして侵略の尖兵として送り込まれてきたのが、『ITスペクター』すなわち『IT妖怪』なのである。全てのことをコンピュータによる制御、管理に委ねていたアトランティス大陸はある日、IT妖怪の総攻撃に遭い、あらゆるシステムが一斉に暴走し、ついには滅亡の憂き目にあってしまったというのである。
 装社実は、それを聞いて思わず「なるほどぉ♪」と膝を打ったのだ。異次元からの侵略であれば、全てが腑に落ちる。
「IT妖怪とはなんぞやと問われたら、こういうことになるわけですが、ご理解いただけましたかな」
「はい。なんとなくは。あの、すみません。で、そのIT妖怪とやらとですね、自分がこれからやる仕事とですね、いったいなんの関係が?」
 剛はついに、疑問に思っていたことを口にした。IT妖怪については、荒唐無稽だが興味を惹かれるところもある。ただ、装社実が率いるシステムゼロ課は、株式会社ツサの一部署だ。ツサはSIerなのだから、システムの開発を行わねばならない。これは自明のことだ。しかるに、なにが悲しくてIT妖怪かと。
「おや。申し上げてませんでしたっけ? 薬師神さん。私はあなたを、IT妖怪ハンター候補としてスカウトさせていただいたのですが。お引き受け願えますよねえ」
「はいぃ?」
「やはり、若者の喋りかたには、ついていけませんなあ。肯定の『はい』まで、語尾上げ言葉になってしまうんですねえ」
「語尾上げ言葉じゃありません。『はいぃ?』っていうのは、正真正銘疑問形で」
 チャーリーは装社実にこう告げた。「私は、母国アメリカ、そして日本で、ITスペクターの侵略を阻止すべく、早期発見、撲滅に勤めていた。しかしながら、ある強力なスペクターとの闘いに破れ、脳神経の一部を破壊されて、戦闘不能となってしまったのだ。ミスター装社。是非私の後継者となってほしい」
 それを聞いた装社実は、多くを語らずただ一言、「諾」と答えた。
 するとチャーリーはにっこりと微笑み、装社実に三つのアイテムを手渡したのだ。それは、IT妖怪の存在を察知すると、紫色に光り輝く『捜魔の無線光学マウス』、IT妖怪を捕縛する『吸魔のUSBメモリー』、そしてIT妖怪を撃退する『破魔の101キーボード』なのであった。
「その三つのアイテム、我々は『IT妖怪ハンター三種の神器』と呼んでおりますが、それを受け取った私は天命に目覚め、活動を開始したという次第なのです。しかし、ある経緯がございまして、私は残念ながらIT妖怪ハンターとして活動できなくなってしまいましてな。そこで、急遽後継者の育成をせねばならんのです」
「失礼ですが、その経緯というのは? 先ほど、そのチャーリーさんでしたっけ? その人もIT妖怪に負けて戦闘不能になったとおっしゃってましたけど」
「これは、薬師神さんをIT妖怪ハンター候補としてスカウトするにあたり、申し上げておかないとフェアではないので、恥を忍んでお話しするのですが、私もチャーリーと同様、IT妖怪との対決に負けて神経系統の一部をやられ、戦闘不能となってしまったのです。この左脚もそのとき不随意になってしまいました。二年前のことです。
 私は荒れましてね。むざむざシステム開発の仕事に戻る気にもならず、アラフィフのシステムエンジニアなぞは潰しが利きませんから転業にも踏み切れず、酒浸りの毎日でした。当然家庭は崩壊します。結局家内からは愛想をつかされ、子供たちとも別れることになってしまいました。そんなとき、旧知の四方殿に拾ってもらったのです。IT妖怪ハンターを育成する仕事をやってはどうかとね」
「自分はまだ家庭を持っていませんが、そんなハイリスクで、かつリターンがあるかどうかも分からない仕事はちょっと」
「でしょうな。薬師神さんでなくても、皆そう考えるでしょう。では、私が一敗地にまみれたIT妖怪こそ、『邪神・言った言わんの馬鹿』であると言ったら?」
「……」
 この一言で、剛の気持ちは決まった。実は、詳しい話を聞くほどに『IT妖怪ハンター』という仕事に興味が出てきていた。荒唐無稽な与太話といってしまえばそれまでなのだが、剛は以前から、薄々IT妖怪の存在を感じていたように思うのだ。
 中途半端な覚悟で臨むのは危険だが、大口顧客の電算課トップということで、手も足もでなかった山岡血清の川田。もし彼が本当に、IT妖怪『邪神・言った言わんの馬鹿』とやらに操られているとしたら、起死回生、一発逆転が可能なのだ。課長の城富美子以下、かつての同僚を救うことができる。もう、それしかないような気がする。いずれにせよ、暫くは普通のシステム開発業務には戻りたくない精神状態であることは確かだ。
「いやいや。なかなかよい目になっておられますな。そうです。条理にかなわぬことは絶対に許さない。相手がたとえ、大口顧客の責任者であっても立ち向かう。その心意気こそ『IT妖怪ハンター』に必要不可欠なる適正なのです」
「……」
「よろしい。ではそろそろ、ゼロ課の皆さんに、薬師神さんを紹介しておきましょうか。IT妖怪ハンター候補の着任と聞いて、興味津々の様子ですから。ほら」
 装社実が視線をやった先には応接室兼会議室のドアがある。ドアの中央上部には、五十センチ四方の擦りガラスの窓がついているが、その向こうに、先ほどから、大きさや形状が様々な人影が見え隠れしていた。入れ替わり立ち替わり、応接室内部の様子を伺っているのだ。剛は部屋の外からボソボソと話し声が聞こえてくることに、かなり前から気づいていた。おそらく、システムゼロ課に、どんなやつが着任したのか知りたくて、うずうずしているのではと推測していたのだ。しかし、装社実の話しが、なかなか終わらない。
「いつまでチンタラ説明やってんだよ。こっちから乗り込むか」と悪態をつく、若い女性の声が、はっきり聞こえてきたため、装社実が、課員に剛を紹介しなくてはならないことに思い至ってくれたのだ。
「こんな時間に、課の全員が揃っているのは珍しいのです。いや、時間云々ではありませんね。課の全員が揃うこと自体、めったとないのですから。はて、最後に全員が揃ったのはいつだったのやら」
 部屋の外から、「まだどうでもいいこと喋ってるぜ。しょうがねえなあ、歳をとるとよぉ」と、また女性の声。なかなか伝法な性格の持ち主であるようだ。
「コホン。えーっと皆さん。どうぞお入りください」
「どおぉれ」
 装社実が声をかけるや否やドアが開き、大時代的な掛け声とともに、四十前後の男が悠然と入室してきた。年恰好からすると、装社実に次ぐナンバーツーなのか。ワイシャツにスラックスと、一応ビジネスマンぽい恰好はしているが、ネクタイは締めていない。すでに十月だから、ツサ本体としてはノーネクタイはNGのはずだが、システムゼロ課には適用されないようだ。
 目元ぱっちり鼻筋も通り、眉も太く、なかなかに彫の深い顔立ちで、若いころはさぞかし女性からの視線を集めただろうが、今ではブクブクと醜く肥え太っているため、その往年の美青年ぶりが返って痛々しく感じる。
「ひやあぁぁぁ」
 突然男が、奇声を上げて前につんのめった。なにかに躓いたわけではない。続いて入ってきた若い女性に、背中をおもいきり蹴とばされたのだ。
「なにをするんだよぅ!」
 男はなんとか体勢を立て直し、うしろを振り向く。両手を背中へ回して、もぞもぞと動かしていたが、どうやら体が固すぎて、蹴られて痛む部分を撫でたくても手が届かないようだ。
 若い女性は、男の怒りの抗議に一切とりあわず、今度はブヨブヨとした腹へ、渾身の前蹴りを放った。
「はうっ」
 男はたまらず、腹を押さえてその場にしゃがみ込む。
「しゃしゃり出てんじゃじゃねえ、偉そうに。てめえなんざ、申し訳なさそうな顔で、一等最後に入ってきなっての。俺がいいって言うまで、そこでじっとしてな」
「はい。シクシク」
 肝が縮み上がるほどの啖呵だが、それを発したのは、どう見ても二十歳代前半の女性であった。またこの女性が、とんでもない恰好をしている。ボディーラインのくっきり出た黒のライダースーツを身にまとい、髪の毛はラフなパーマのかかった肩までのミディアムヘアーで、ライトブラウンに染められている。瞳の色はブルーだが、おそらくカラーコンタクトだろう。スカーレット・ヨハンソン演じる、ブラックウィドウを意識しているようだ。
顔は充分に及第点だが、残念ながら胸と尻のボリュームと、身長が足りない。さらに残念なのは、『零組』と染め抜かれた法被を着ているところであった。 
 いや、容姿はどうでもよい。そもそも、なぜこのように壮絶な職場いじめが堂々と行われているのだろうか。剛の理解の範疇を超えている。
 彼女のあとに続いて入ってきたのは、一見すると普通の男性である。身長は、かなりの猫背なので低く見えるが、背を伸ばせば百七十センチを超えるだろうということで、高からず低からず。少々痩せぎすだが、骨と皮というわけでもない。下はスニーカーにジーンズ。上はくたびれ気味のTシャツという、社会人としては少々ラフすぎるものだが、先の女性と比べれば普通の恰好だ。髪の毛はボサボサで、寝癖もそのままだが、極端に長いわけではなく、剛とて残業徹夜が続くと、似たような状態になるレベルに留まっている。
 唇はカサカサ、目は半分死にかけているけれども、デスマーチ状態となったシステム開発現場では、よく見かけるタイプではある。だが、彼の発する違和感たるや、ただ事ではなかった。まず、間口七十センチ、奥行き五十センチ、高さ十二センチはあろうかという、大きなジュラルミンケースを提げているのだ。普通、そんな荷物を携えて会議室にくるだろうか。自席に置いておくだろう。
 極めつけは、彼が動くたびにジーコジーコと、機械音がすることだ。なんと彼は、背中にドーム型の機械を背負っていたのである。そのドームからは、彼の体に対して直角に、床に対して平行に、ゼンマイの取っ手が突きだしていたのだ。
 剛は、「自分はとんでもないところへきてしまった」と後悔し始めたが、最後に入室してきた人物、いや、怪物を見て、その後悔が確定的なものとなってしまった。
 それは、二メートルを優に超える巨人だった。性別は確定できない。だが骨格の太さから考えて、女性ではないはずだ。ではなぜ性別が確定できないのか。そして、日本人であればめったにありえない二メートル超えの巨人なのか。それは、彼がナマハゲの面を被っていたからである。
ただし、ナマハゲなのは面だけで、ワイシャツにネクタイ、スラックスを着用しているので、余計に異様だ。さらに、腰に刃渡り三十センチは優にある出刃包丁を提げていて、もし本物ならば、即刻逮捕拘留となるはずだが、そんなことを心配することすらばからしくなってくる。
 とにかく、現実味のまったくない顔ぶれだった。これでは、その系統の映画かアニメである。剛は、もしかして夢を見ているのではないかと、自分の頬をつねっている。
 ブラックウィドウもどきの女性は剛の隣、ゼンマイドーム男は、剛の斜め前、すなわち装社実の隣のソファーに腰掛ける。ナマハゲ男は、装社実の背後に腕を組んで仁王立ちだ。剛の位置からは、ナマハゲ面の口から、彼を睨みつけている両の目が見える。はっきり言ってかなり怖い。
「揃われましたね。まずは薬師神さん、自己紹介をお願いできますか」
「自己紹介ですか。はい。皆さん初めまして。自分は薬師神剛、以前はシステム二課で働いていました。得意な言語はやはりC#で。DBMS(データベース・マネジメントシステム)は、ORACLE、SQLServerの経験があります。ええっと。好きな歌は、KANの『愛は勝つ』でええっと、座右の銘は」
「ちょっと待ちな。通り一遍の自己紹介なんざ必要ねえよ。薬師神さんとやらが、これまでなにをやってたかなんて、ここの仕事にゃ関係ねえんだからな」
 剛の渾身の挨拶は、ブラックウィドウもどきに、あっさり遮られた。
「松本さんの言われるとおりでしょうなあ」
 ブラックウィドウもどきは、松本という名らしい。装社実は、多少不服そうな表情を浮かべつつも、松本某の意見を肯定した。確かに、これまでのシステム開発経験が、IT妖怪撃退に直接役立つはずがなかろう。従って自己紹介など無意味だと、剛自身考えていたのだ。
「では、メンバーの紹介に移りましょうか。まず薬師神さんの隣に座っている女性が」
「待てってえの。ご覧のとおり個性爆発の顔ぶれだからよ。おやっさんが皆を紹介すると、ゼッテー回りくどくなっちまうよ。生い立ちから人生哲学まで語りだしちゃってさ。俺がやるよ」
「そうですか。ではお願いしましょう」
「俺は松本瑠美衣(まつもと・るびい)。ここでは唯一のIT妖怪ハンターさ。分からないことがありゃあ、なんでも聞いてくれ。ただし、めったと事務所にゃ顔を出さねえけどよぉ。わはははは」
 この自己紹介で、剛には、彼女がシステムゼロ課で暴君然とふるまえる理由が腑に落ちた。唯一のIT妖怪ハンターということは、唯一の稼ぎ手ということだ。若いが、実力も実績も課員から認められているのだ。裏表のない性格に違いないので、信頼されてもいるだろう。ただ、鈴を転がしたような可愛い声と、伝法な口調、そして自分のことを『俺』というのは、まったく合っていない気がする。
「課長の隣に座ってるゼンマイ仕掛けの人は、薇研一(ぜんまい・けんいち)さんだ。ゼンさんは、こう見えても天才エンジニアなんだぜ。ハードウェアのな。ハンターが使う器械は、全部ゼンさんがメンテナンスしてるのさ。薬師神さんも聞いてるだろ。IT妖怪ハンター三種の神器」
「はい」
「ウチのショーバイとしてさ、IT妖怪ハンター育成てえのがあってよ。そのためには、器械を量産する必要があるだろ。それもゼンさんの担当なのさ。いいか、どっかの国みたいに、劣悪なコピー品を作るんじゃねえぞ。ゼンさんは改良も施しやがるんだ。すんげえだろ。元はアトランティスの技術だぜアトランティス。信じられねえよ。俺みてえなバカには無理だな」
「いくつか質問してもいいですか?」
「なんだよぉ? 手短に頼むぜ、手短に」
「IT妖怪ハンターが使う器械は、オリハルコンでできていると聞きました。そんな材質、どこから手に入れたんです?」
「いい質問だな。実は、オリハルコンが使われているのは筐体だけなんだよ。ガラだけ。そんなもの、鉄でもダンボールでも、折り紙でもいいわけじゃん。そだろ」
「筐体にはポリカーボネート樹脂を使用――、象が踏んでも壊れ――。オリハルコンほど耐性はな――」
 薇研一が横からフォローを入れてきた。くぐもった、聞き取りにくい声だ。特に語尾はまったく不明だ。なんとなく言いたいことは分かるが。
「もうひとつ重要な質問です。薇研一さんの背中には、なぜゼンマイが?」
「決まってるだろ。ゼンさんは、ゼンマイが回ってねえと動けねえからだよ」
「なぜ?」
「そういう心の病気だからさ」
「……」
「ゼンマイ式だろうが電池式だろうが、ちょっと病んでいようが、ゼンさんはゼンさんだ。本質的なことろにゃ関係ねえ。俺は大好きだぜ。分かったか?」
 剛としてはうなずくしかない。
「じゃ次いくぞ。課長の後ろにデェンと構えているのが、ナマハゲのナマちゃんだぜ。ゼンさんがハードウェアの天才ならば、ナマちゃんはソフトウェアの天才なんだ。アトランティス時代のプログラムをあっさり解析してメンテナンスするだけじゃなくて、改良までやってんだ。すんげえだろ。俺みてえなバカには無理だな。
 どうせ質問してくるだろうから先に答えちまうけど、ナマちゃんは極度の対人恐怖症でよぉ。こうしてナマハゲ面を被ってなきゃ、人前に出られねえんだよ。分かったか? ん? 心配ねえ。腰にぶら提げてる包丁はホンモノだが、ナマちゃんはめったなことじゃ使わねえから」
 当然だ。本物の包丁をぶら提げ、ナマハゲの面を被って外を歩けるほどの度胸があれば、対人恐怖症など簡単に克服できそうなものだが。
「ナマハゲの面を被っていようが、ひょっとこの面を被っていようが、ナマハゲさんはナマハゲさんで、本質的なことろには関係なくて、松本さんは、ナマハゲさんが大好きなんですね」
「分かってんじゃねえか。なかなか見所があるぜ、薬師神さんよぉ。ただし、ひょっとこの面を被っていたら、ナマハゲさんとは呼べねえけどな」
 松本瑠美衣が、メンバーの紹介を装社実に任せなかったのは正解であった。あまりに個性的すぎるメンバーだから、装社実が紹介すると、ひとりあたり二時間を超えるのは確実だ。
「装社のおやっさんは、もう紹介する必要ねえわな。てことで、よろしく頼まあ。早いこと一人前のハンターになってくれよな」
「はい。よろしくお願いします」
 剛は、松本瑠美衣にパンパン肩を叩かれた。剛の場合、ほとんど初対面といってよい相手、しかも異性の肩をいきなりパンパン叩く女性に、これまで出会ったことはないが、この気さくさが彼女の魅力なのだと考えている。
「じゃあ俺は客先へ行くから。近々カタをつけなきゃならねえ妖怪がいやがるんでな。ナマちゃん、対決のときは、遠隔サポート頼むぜ」
「心得た。敵は『峠の妖怪・フルフル』だったな」
「そうだ。ヤツにとり憑かれると、最悪過労死やら欝による自殺やらにハッテンしちまうからよ。早ええとこ退治しねえとな」
『峠の妖怪・フルフル』とはどんな妖怪だろうと、剛としては興味津々だったが、尋ねても詳しく解説してもらえそうな雰囲気ではない。
「では、ナマハゲさんに薇さん、薬師神君をシミュレーションルームにお連れ願えますか」
「シミュレーションルームってなんですか?」
「シミュレーションルームというのは、そもそもですね」
「だからおやっさんは、自分が説明しようとか、いらねえことかんげえなくていいんだってばよぉ。俺が説明するから」
「はあ」
 装社実は、またぞろ松本瑠美衣に発言を遮られた。どちらが上司なのか分からない。そもそも、一般的な会社組織の常識をシステムゼロ課に当てはめようとすること自体、誤りなのかもしれない。
「シミュレーションルームてのはよ、IT妖怪退治の稽古をする部屋だよ。分かったか?」
「はい。なんとなく」
「そうかよ。薬師神さんとやら、きっと適性があるぜあんた。じゃ、解散!」
「ちょっと待ってよぉぉ」
 全員が席を立ち、退室しようとドアに向かって動き出したとき、悲痛な叫びが室内にこだました。
「なんでボキを薬師神氏に紹介してくれないんだ。どうしてボキだけハブるんだよぉ!」
 松本瑠美衣から、すさまじい職場いじめを受けた男だ。直立不動で、口をへの字にし、上唇をかみしめている。唇がピクピク震えているところをみると、おそらく泣きだすのをこらえているのだ。どうでもよいが、どうして『僕』が『ボキ』なのだろう。発音が悪いからそう聞こえるのか。それとも意識的に、格好いいと思ってそう言っているのか。剛にはよく分からなかった。
「なんだ。てめえいやがったのか? いつからだ」
「最初からいたよぉ。ボキを蹴とばして、いいって言うまでじっとしてろって、ルビヒちゃんが」
 袴田の発音が悪いのか、意図的に恰好をつけているつもりなのか、『ルビイ』が、『ルビヒ』に聞こえる。
「やめな。鳥肌が立つんだよぉ。いいか、今度俺のことを『ルビヒちゃん』って呼んだら殺すぞ」
 松本瑠美衣は、体中を撫でさすりながら、男を睨みつけた。
「ひぃ」
「ま。こんな野郎でも、ゼロ課のメンバーだ。とりあえず紹介しとくよ。こいつの名は鬼喪異臭漏(きもい・しゅうろう)。鬼界ヶ島の鬼、喪中の喪、異形の異、臭気の臭、早漏の漏だ」
「ちがあうの。ボキの名前はそんなんじゃなぁい。ボキは袴田端正(はかまだ・たんせい)っていうんだ!」
「肩書は課長代理だけど、なんのスキルも持ってやしねえ。ゼロ課のお荷物だ。だが、この会社の実質的トップ、四方システム本部長の甥なんで、お情けでおいてやってんだよ。俺はそういうの大嫌いだぜ。役立たずのくせに、コネで世渡りしてるやつ。
 こいつはな、薬師神さんよ。万事やること中途半端で、勤め先を片っ端からしくじってさ。おかげで女房に愛想を尽かされて、マンション叩き出されてよお、四方システム本部長に泣きついてきたってわけさ。けど、よその課じゃお荷物になるだけだろ。プログラミングやシステム開発の経験がねえんだからさ。てことで結局、おひとよしのウチが拾ってやったって寸法よ。今は、このビルの同じ階にある、うちの倉庫で寝泊まりしてるんだぜ。こいつの体臭が倉庫中に充満してて、中に入られねえのさ。俺だったら死ぬね。そんな生き恥晒すぐらいだったらよぉ。人生舐めてんだよ」
 松本瑠美衣にしては珍しく饒舌だ。よほど腹に据えかねているのだろう。袴田端正は、両の拳を握りしめ、直立不動のままだ。唇の振動が激しくなっている。涙腺が決壊寸前なのだ。
「まあまあ。彼が所属しているおかげで、ゼロ課に対する風当たりが弱まっているというメリットもありますからね。なにしろ、よそから見れば、ゼロ課は、なにをやっているのか分からない、不気味な集団ですから。以前は、ゼロ課解散を叫ぶ連中が多くいましたが、四方システム本部長の甥御様が所属しているってことで、今のところ強固に主張する者はいませんし」
 装社実のフォローのおかげで、袴田端正の顔に生気が蘇ってきた。
「ま。ボキに対して、いわれのない中傷がなされたわけだけどぉ。薬師神氏。君だってそのうち、ボキの真の価値を見出すと思うよ。てことで、ボキは課長代理なんでね。それなりに立ててくれなきゃ困るよ」
「はい分かりました。キモイ課長代理」
 袴田端正の顔がみるみる蒼ざめていく。だが無言だ。松本瑠美衣の様子をチラチラ窺っているところをみると、彼女の前で、剛に対して怒りを爆発させるのは拙いと判断したのだろう。薬師神剛、痛恨の失言であった。
 彼の頭には『袴田端正』という本名が、まったくインプットされていなかったのである。場が一瞬凍りついたが、次の瞬間には爆笑の渦となった。松本瑠美衣などは、腹を抱えてうずくまり「ああイテテ」などと大ウケしている。どうやら剛は、システムゼロ課の面々に温かく迎え入れられたようだ。ひとり、袴田端正を除いて。

(三)


 シミュレーションルームというから、複雑な計器類のついた機械がびっしりと並んでいるのかと思いきや、そこは5坪にも満たない小さな部屋で、什器と呼べるものは、窓際に置かれた五十インチほどの薄型液晶モニターと、向かい合わせに並べて置かれた二本の会議用長机。そして、長机に沿え置かれている折り畳みパイプ椅子が四本のみであった。あと目を引くものといえば、窓に掛けられた暗幕だ。
「ではハンター薬師神。適当に座っていただけますか。それから、ドクター薇も」
 まだ、IT妖怪ハンターになっていないどころか、なにをすればよいかすら分かっていないのに、ナマちゃんから『ハンター薬師神』と呼ばれて、大層面映い剛である。適当に座れという指示であったが自然とナマちゃんと薇研一は並んで上座に、そして剛は二人に対面するかたちで、下座に腰かけることになった。
「よっこら。しょと」
 あまり力の入りそうにない掛け声とともに薇研一が、ずっと提げていた怪しげなジュラルミンケースを長机の上に乗せ、ガチャガチャと蓋を開けた。ナマちゃんはナマちゃんで、ノートパソコンを自分の前にセッティングする。持ち運ぶには少々大型だが、ナマちゃんが大柄すぎるので、ネットブックのように見える。
「ではハンター薬師神。まずなにをさておき、『IT妖怪ハンター三種の神器』を手渡そう。ドクター薇、お願いする」
 ナマちゃんに促されて、薇研一が剛に手渡したのは、手のひらに隠れてしまうほどの小型無線光学マウスだった。光沢のあるガンメタリックで、なかなかデザインも渋いが、二つボタンで真ん中にホイール。特に一般のマウスとの相違はない。両のボタンの部分に、意味ありげな梵字が刻まれているが、剛には解読不能であった。
「捜魔の無線光学マウス。一見普通のマウスだが、IT妖怪の存在をキャッチすると、青白い光を発するのだ。不可解なのは、ハンターの能力によって感度が変化することで、この件については残念ながら現代のソフトウェア工学というか、科学では解明できていない。ドクター薇そしてこの私の両名が解明できないのだから、必然的にそういうことになる」
 ナマちゃんは、よくよく考えると、とんでもないことを言ってのけているのだが、その口調からは、一片の気負いや誇張や見栄が感じられないので、ああそうなのかと納得してしまう剛である。
「ちなみに、やたらにピカピカ光っては困る局面では、ほらこの裏についている切り替えスイッチ。これで捜魔機能をオフにすることができる。普通のマウスとしても使える優れものだ。それから、このとおり先端には高感度無指向性集音マイクと高画質ヴィデオカメラがついていて、五百十二ギガバイトのフラッシュストレージが内蔵されているので、IT妖怪に憑依された人物の様子を動画として記録することが可能だ。この録画機能は、アトランティス製にはなかったものだよ。私の発案により、ドクター薇に取り付けていただいたのさ」
「はあ」
「画質、音質、ズーム倍率、可搬性、撮影時間と、どれをとっても業務用ヴィデオカメラを凌駕する性能なので、ハンター薬師神が結婚し、ご子息またはご息女が誕生したおり、学芸会や運動会の撮影に使われてもよろしかろう」
「そうですね。使わせていただきます」
 どうやらナマちゃんは、柄になくジョークを混ぜ込んでみたらしいが、剛には通じなかった。
「続けよう。捜魔の無線光学マウスとハンターのシンクロ率は、場数を踏めば向上するかといえばさにあらず。適性という以外にない。これが、IT妖怪ハンターになれる人間が限られているという事実に繋がるのだ。そもそも発見できなければ撃退もなにもないわけだから」
「装社課長からは太鼓判を押されたのですが、本当に自分には、IT妖怪ハンターの適正があるのでしょうか。どうもいまいち現実味がなくて」
「ハンター装社からは、ハンター薬師神が会議の席上で山岡血清の川田を糾弾したのは、きゃつめに対して尋常ならざるものを感じたからだと聞いているが。それも、常識外れの偏執さとか癇症とかいった精神病理学的なものとは違う、物質的なものだと」
 剛は、あの忌まわしい定例会議のことを想起していた。あのときは室内に、ゴミが大量に投棄され、水が汚濁したドブ川のような悪臭が充満しているのを感じていた。それに加えて、さらに川田が話し出すと、生ゴミ捨て場のど真ん中に立っているような、饐えた臭いと、マグロやカツオのような大型魚が死んで腐敗したような臭いが混ざりこみ、彼がヒートアップするほど強烈になっていった。そして、極めつけは、呼吸ができなくなるほど強い硫黄臭が加わったのだ。
「どんでもない悪臭です」
「なるほど。では次だ。ドクター薇、よろしく」
 結局ナマちゃんは、剛の適正について言及しなかった。しかし、薇研一に次の神器を要求したところをみると、“適正アリ”と判断してよいのだろう。次に薇研一が剛に手渡したのは、長さ五センチほどのUSBメモリーであった。マウスと同様に光沢のあるガンメタリックで、これにもなにやら梵字が刻んであるが、やはり剛には解読不能だ。
「それは、吸魔のUSBメモリー。ハンター薬師神は、西遊記をご存知だろうか」
「西遊記って、あの中国の古典物語ですか」
「そうだ。あの物語の中に、金角銀角という兄弟の魔王が登場する。彼らが持っていた道具を覚えておられるかね」
「効果がユニークなので覚えています。確か、返事をした者を吸い込んでしまう瓶か瓢箪かなにかだったんじゃないでしょうか」
「そのとおり。金角が所持していたのが琥珀の浄瓶、銀角が所持していたのが瓢箪の紅葫蘆で、いずれも、呼びかけに応じた者を吸い込んでしまう、魔法の道具だ。吸魔のUSBメモリーは、それらと同様に、IT妖怪を吸い込み捕獲する道具なのだよ」
「あのう。なんとなく分かるような気もしますが、具体的にはさっぱり分かりません」
「さもあらん。のちほどシミュレーターで実際に使用してもらおう。さていよいよ、主力兵器の登場だ」
 剛が薇研一から手渡されたのは、なんと数珠であった。しげしげ眺めてみても、端を掴んでしごいてみても、掌に包んでジャラジャラと揉んでみても、やはり取り立ててなんの変哲もない数珠である。一般的な数珠と違うところは、それぞれの珠に小さな突起がついていることだ。
「これぞIT妖怪ハンターの主力兵器、『退魔のアミュレット』だ」
「ちょっと待ってください。装社課長が、チャーリー・マクラーレンから託されたのは、『退魔の101キーボード』ではなかったのですか?」
「キーボードでは呪文、これは便宜上そう呼んでいるだけで、撃退用プログラムのことなのだが、それを唱えるのに時間がかかりすぎる。そこで、ハンター装社、ドクター薇、そして私が共同で開発したのがこの退魔のアミュレットなのだ。
 呪文すなわちコードをファンクションレベルに分解してライブラリ化し、珠の操作だけで実行できるようにしたわけさ。その数珠には珠が三十三個ある。それぞれに小さな突起がついていて、押すたびにオン・オフが切り替わるのだ。ハンター薬師神もプログラマーだから、オン・オフの意味はお分かりだろう。オンが1でオフが0、ビットの状態を現すわけだ。三十二ビットの並びを決めたら、大きな珠がひとつあるだろう。その房が出ている珠。その突起を押すことにより命令が確定し、実行されるのだ。そうすれば、コンシューマゲーム機のコントローラーと同様、慣れればスクリーンを見ながら手元で操作可能だろう。これは、ハンター装社の悲願であったのさ」
「自分も最初は苦労したので、なんとなく想像がつくんですが、もしかして」
「さよう。ハンター装社は、我流でキーボード入力を覚えたため、ブラインドタッチができなかったのさ」
 ナマちゃんがもしナマハゲ面を被っていなければ、おそらく苦笑している様子が見られるに違いない。
「捜魔の無線光学マウス、吸魔のUSBメモリー、そして退魔のアミュレットの三種の神器をインテグレートするのが。ドクター薇」
 ナマちゃんの言葉を受けて、薇研一がジュラルミンケースから、ジャジャーンとばかりに取り出したのは、ゴーグルとヘッドフォンとマイクが一体になった機械であった。ゴーグルが透明ではないので、おそらくヴァーチャルリアリティのインターフェース機器であろうと推測される。
「『破魔のヘッドギア』だ。これは完全に我々が開発したオリジナルでね。ほらここ、ゴーグルの横の部分に、吸魔のUSBメモリーを差し込むコネクタがある。捜魔の無線光学マウスと、退魔のアミュレットは、Bluetoothで接続するのだ。ヘッドホンとマイクは、我々後方支援チームと、『マカイムス』で動画・音声チャットを行うためののものだ」
「マカイムス。というのはなんですか?」
「『魔界Teams』の略だ。さすがにそのようなものを一から開発している暇はないから、Teamsを機能拡張したのだがね。Teamsはオープンソースではないのだが、そんなもの、バイナリを逆アセンブル(機械語を人間が判読できるニーモニックコードに変換する)すれば、屁みたいなものである」
「はあ。すごいですね」
「口幅ったいようだが、私はすごいのだ。では、これをご覧いただこうか」
 ナマちゃんがPCにUSBメモリーのような機器を突き刺し、液晶モニターのリモコンを操作すると、PCの画面に切り替わる。すると先ほどのUSB機器は、ワイヤレス映像出力アダプターか。剛は実物に始めてお目にかかる。システム二課では面倒にもケーブルで接続しており、使用するパソコンによって、やれコンバーターがない、やれコネクターの型が合わないと大騒ぎしていたのである。
 画面には全面にパワーポイントのプレゼンテーションが映し出されている。画面の左下に、両手を口に当てて叫んでいる惣流・アスカ・ラングレーが描いており、中央には、彼女が発している大きな吹き出し。そしてその吹き出しには、『IT妖怪撃退手順 改定第二版 製作 システムゼロ課 (課長代理)袴田端整』とあった。袴田端整課長代理は、こういったマニュアル作成などの雑務を一手に引き受けているというか、やらされているのだ。
 スライドショーのページが送られて、目次が表示された。そこには以下のように記されている。

  1. IT妖怪を発見し招待を暴く

  2. サイバーヘル(電脳魔界)へのジャック・イン

  3. 攻撃の無効化

  4. リファレンスアンカーと捕獲

  5. NULL(ヌル)初期化砲

 目次ページには惣流・アスカ・ラングレーがいない。その後のページにも、アニメキャラは一切登場してこなかった。剛の推理はこうである。おそらく袴田端整が調子に乗ってアニメキャラてんこ盛りのスライドショーを作成してナマハゲのナマちゃんに提出したところ、「ふざけるな!」とかなんとか一喝された上、裏拳を食らい、訂正を命ぜられたが、「どうか表紙だけには残させてくださぁい。ボキの、ボキの生き甲斐なんですぅ」と泣きつく。というような一幕があったのだ。
「まず、『最初のIT妖怪を発見し正体を暴く』だが、残念ながら、私は詳細を解説できない。概要だけ説明しておくと、捜魔の無線光学マウスでIT妖怪にとり憑かれた人間を発見したら、『退魔経』を照射して、その人間からIT妖怪を引き剥がすのだ」
「申し訳ありません。具体的なところがさっぱり」
「だから私には詳細を解説できないと言っている。なぜなら私はハンターとしての資質がないので、その手順を実行できないからだ。申しわけないが、ハンター装社から直接指南を受けてくれ」
「分かりました」
「正体を暴かれたIT妖怪は、構内ネットワークにできた特異なアドレス空間、サイバーヘル。我々は電脳魔界と呼ぶが、そこに逃げ込むので、ハンターは電脳魔界にジャック・インするのだ。ではハンター薬師神、実際にヘッドギアを装着して、ジャック・インしてみてくれたまえ。退魔のアミュレットでコマンドを実行しさえすれば、電脳魔界走査プログラムが動き出し、パブリックキートークン(公開鍵)を生成。自動ログインしてくれるので心配無用だ。電脳魔界にジャックインしたハンターは、『アルバタール』というプログラム集合で表される」
「至れり尽くせりですね」
「ここまではな。では装着してみてくれ」
「はい」
 ヘッドギアを装着して、ナマちゃんの指示通り、退魔のアミュレットを操作すると、剛の目に飛び込んできたのは、縦横にどこまでも続く黒い格子の中を、不気味な電子音を発しながら、膨れたり縮んだり、姿を変えたりしながら蠢く、数字の塊であった。いや、目に飛び込んできたというより、脳に直接投影されたと表現するほうが当たっている。

「ハンター薬師神。君の意識が今いるのが電脳魔界。そして、蠢く数字の塊こそIT妖怪の本体なのだ。もちろんこれはシミュレーターだから、危険はないので安心したまえ。
 IT妖怪の本体は、電脳魔界の中で無為に漂っているわけではない。異質なもの、すなわちIT妖怪ハンターの侵入を感知すると、攻撃を仕掛けてくる。攻撃には三つのパターンがあり、IT妖怪の種類によってその中のひとつ、強力なやつになると複合させて繰り出してくるのだ。まずこれが、無差別攻撃のボマー」

「このとおり、電脳魔界内部に、ランダムで数百から、多いものでは一万数千のアドレスに対してボム、すなわちヌルを書き込む。運悪くIT妖怪ハンターのアルバタール、面倒なので今後は単にアルバタールと称するが、それが存在するアドレスに命中すると、部分的にプログラムが失われることになる。
 しかし、現在ではこのボマータイプは敵ではない。なぜならアルバタールには、自己プログラム修復機能を実装してあるのでね。また、爆撃はランダムだが、乱数の発生には、元ネタとなるシードというものが必要であることは、プログラマーであるハンター薬師神ならご存知だろう。捕獲済みで、データがアーカイブされているIT妖怪なら、シードの元ネタを解析済みだから、敵が発生させる乱数を予め知ることが可能だ。そうなれば乱数ではなくなるね」
 剛は無言である。眼前に繰り広げられている、現実味のない異様な光景に言葉を失っているのだ。
「危険なのは次のスキャナーだ。ボマーと同様に、ヌルボムを投下するタイプなのだが、アルバタールの位置をスキャンし、移動方向を予測して、その周辺を集中的に爆撃するという厄介なやつだ。このように」

「アルバタールが爆心地にいると一発で消滅だが、案ずることはない。アルバタールは、IT妖怪にはない特殊な機能を持っている。それはブロック転送。転送先のアドレスを指定して一気に移動する、いわばワープなのだ。ちなみにIT妖怪は、連続したアドレスへしか移動できない。
 IT妖怪がアルバタールを捕捉してから、爆撃位置の計算、爆撃の実行までに、若干のタイムラグがある。IT妖怪に捕捉された場合、アルバタールからハンターへイベントが通知されるから、その間にブロック転送で逃げればよいのだ。ただし、ワープを多用すると相手が学習する。ここぞというときに使うのが吉だな。そして、もっとも危険な攻撃がこれ、リプリケーターだ」

「本体を中心に、四方向、または八方向、強力なやつになると十六方向へサブプロセスを射出する攻撃だ。サブプロセスは、射出された方向へ自分自身をコピーし続ける。ボマーは乱数の発生、スキャナーはアルバタールの位置を捕捉後の移動先演算などの処理が必要だが、このリプリケーターはそのような前処理なしで、いきなりサブプロセスを射出してくる。
 出合い頭ということがあるからね。恐ろしいのは、このサブプロセスと衝突すると、アルバタールのプログラムが書き換えられてしまうということだ。コア部分に命中すると敗北は必至だぞ。さらに恐ろしいのが、この触手自体自律するということなのだ。従って、射出済みのサブプロセスが電脳魔界のメモリー空間に残っている状態で、次の移動位置から新たにサブプロセスが射出されるということだ。下手をすると、メモリー空間がサブプロセスで埋め尽くされ、逃げ場のない状態になってしまう」
「あの。なにやら勝ち目がなさそうに思うんですが」
 剛は、やっとのことで口を開くことができたが、その内容はかなり悲観的なものだ。
「案ずることはないぞ、ハンター薬師神。先ほど解説したスキャナーを思い出してほしい。サブプロセスは一定の方向へ進み続けるだけなので、捕捉は容易だ。鼻っ柱にボムを落としてやればいいのさ。落とすボムは、スキャナーのそれほど大規模な爆発である必要はない。アルバタールが巻き込まれては洒落にならんからな。こんな感じだ」

「ビデオゲームの『ミサイルコマンド』を思い出しました」
「おや。ハンター薬師神はまた、レトロなゲームをご存知だ。アタリのミサイルコマンド。敵のミサイルをABM(弾道弾迎撃ミサイル)で打ち落とすゲーム。言いえて妙だな」
「自分はビデオゲーム、とくに弾幕シューティングが好きで、そういったものを創りたいなと考えたのが、プログラミングの道に進んだきっかけでした。今でもゲームが好きで、テクニックには自信があります。そこを見込まれてIT妖怪ハンターにスカウトされたんですね」
 実際に、装社実と初めて会ったのは秋葉原のゲームセンターだ。
「ううむ。まあ手先が器用なのと反射神経が鋭いに越したことはないかもしれんが」
 剛としては、冗談でアクションゲームの話を持ち出したわけではない。実際に、ビデオゲームと同じではないかと思ったのだ。まったく現実味がない。もしかして、これは剛を騙すための手の込んだお芝居であって、最後にナマちゃんがナマハゲ面をスポッと外し、「なあんちゃって」とネタばらしをするのではないかと不安になっている。ナマハゲ面を被っているナマちゃんが説明係なのは、話しながらニヤニヤしているところを見られないようにするためだ。薇研一が黙っているのは、嘘を吐くと「実はIT妖怪はね、ぷぷぷっ」などと、ついつい笑ってしまうタイプだからに違いない。
「ハンター薬師神、なんだねその顔は。信じられないかね。我々が組んで、君を担ごうとしているとでも思ったのか」
 剛は、すぐに感情が顔に出てしまうのだ。哲学者然とした奇妙なナマハゲ男に、完全に心の動きを読まれてしまった。
「あ。はい」
 思わず肯定してしまう剛である。
「残念ながら、君を騙したところで、我々にはなんのメリットもないのでね。ハンター装社が、引退に追い込まれた事実を思い出すことだ。中途半端に考えていると、命を落とすことにもなりかねない」
「そうですよね。分かりました」
「では先を続けるぞ。これでIT妖怪が繰り出してくる攻撃の無効化についての解説を終えた。次はいよいよIT妖怪の捕獲だ」
「はい」
「攻撃を適時無効化しつつ、ハンターはIT妖怪の頭、すなわち先頭アドレスを捕捉し、リファレンスアンカーという武器を撃ち込むのだ。リファレンスアンカーとは、IT妖怪の先頭アドレスを記録する、いわばポインタ変数なのだよ。ひとたびリファレンスアンカーが有効となれば、IT妖怪がどこへ動こうと、先頭アドレスを取得することが可能になる」
「自分はC言語の経験がないので、ポインタは苦手かなあ」
「IT妖怪と闘うにあたり、別段C言語の知識が必要なわけではないがな。ただしC言語は、今時のメジャーなプログラミング言語のご先祖にあたるものだから、暇なときに習得しておきたまえ」
「はあ」
「リファレンスアンカーが有効になれば、IT妖怪の本体を丸ごと吸魔のUSBメモリーにバイナリーファイルとして保存し、最後にヌル初期化砲で消去してジ・エンドだ。吸魔のUSBメモリーは、そのままバイク便で警視庁サイバー犯罪対策課特命分室・IT妖怪班へ送る。メールに添付して送信するなどはご法度中のご法度だぞ。IT妖怪を公衆ネットワークへ放つということは、逃がすのと同じことだからだな。そして我々は、IT妖怪のレベルに応じた報奨金を得ると。捕獲されたIT妖怪は、サーバー『アカシック』にアーカイブとして保存される。世界中のIT妖怪ハンターチームがそれを参照できるようになるのだ。このアーカイブを我々は『IT妖怪図鑑』と呼んでいるがね。こういう段取りになっているわけだ」

「なにか質問はあるかね?」
「その『IT妖怪図鑑』ですか。すべてのIT妖怪のデータを収集できれば、僕たちの仕事は終わるのでしょうか」
「ポケットモンスターではないのだから、図鑑をコンプリートしたところで、クリアーにはならんよ。そもそも、やつらが何種類いるのかさえ分からんのだからな」
「コンピューター関連なのですから、FFとかFFFFとか、八の倍数なのでは?」
「ふむ。着眼点としては面白いが、FFFF、つまり六万五千五百五十六種類もいれば、たかだか八十年程度しか寿命のない我々にとっては、“無数”と称してよいレベルだね。IT妖怪は、憑依した人間の意識を乗っ取るほかに、様々な超常現象を現実的に引き起こす通力を持っている。なぜそのようなことが可能なのかは、いくら捕獲したIT妖怪を解析しても分からん。
 これは私見だが、まず、高次元にIT妖怪サーバーなるものが存在すると思うのだ。そこに、巨大なフレームワークから、適宜必要な処理を呼び出す手順を記したIT妖怪の雛形、つまりクラス定義がある。それが、現実世界の技術者の意識と呼応して実体化、すなわちインスタンス化する。
 従って、現事実世界の技術者が、IT妖怪に憑依されないほど、意識を高みに押し上げることが必要だ。だがこれは個人レベルではなく、IT業界全体がアウフヘーベンせねばならぬ」
「それは、現状から考えると、かなり難しいのではないでしょうか」
「そうだな。それが無理なら、IT妖怪サーバーをクラックするかだ」
「ではその、IT妖怪サーバーというのは、どこにあるのですか?」
「まったく分からん。無論いずれは解明してみせる。この私のスキルをもってすればそれは可能だ。だがいまはモグラ叩きよろしく、IT妖怪が出現したら潰すという地道な作業を繰り返すしかないのである」
「ふうぅぅ」
 剛は、大きく長く息を吐き出した。いろいろと引っかかるところもあったが、今は質問する気力もない。とにかく異様に緊張し、そして疲れ果ててしまった。ツサに入社したときの新人研修初日でも、これほど緊張し疲れた記憶はない。
「まあ、なにか分からないことがあれば、その都度質問してくれたまえ。ではドクター薇。あなたからなにか言っておくことはないかな。ん? おや、これはしたり。お休みのようだね」
 薇研一が居眠りしてしまうのもやむをえない。ナマちゃんの説明が始まってから、すでに四時間以上経過していたのだから。
 

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