IT妖怪図鑑 - こちら特命システムゼロ課 #5 ー 邪神・言った言わんの馬鹿(じゃしん・いったいわんのばか)編

(一)


 そうこうしているうちに、なんだかんだで、年が明けてしまった。
『躁霊・徹夜囃子』を撃退した後、二体ほどBランクのIT妖怪の相手をしたが、年末年始ともなると、さしもの妖怪ばらも活動を休止するようで、特にスクランブルが掛かることもなく、のんびり休暇を取ることができた剛である。
 ただ、帰省もせず、恋人に一番近い存在である城富美子とは相変わらずの状態で、混雑する元日、二日は避けて神田明神へ初詣に出向き、『邪神・言った言わんの馬鹿』打倒を誓った以外は、家で食っちゃ寝、食っちゃ寝していたのだった。とにかく暇を持て余していたので、本日一月四日の初出勤日は非常に心躍るものだった。
 ところが、さすがに年始ぐらいは皆、早めに事務所へ顔出しすると思いきや、松本瑠美衣はお餅の食べ過ぎでムネヤケがするという理由で休み。袴田端正とナマちゃんは午後一時を過ぎても出勤せず、薇研一は行方知れずで、結局装社実と二人、「暇ですなあ」「暇ですね」と言いつつ過ごすことになってしまったのだ。
 これまで、四体のIT妖怪相手に実戦を経験してきた剛にとって、シミュレーターでの練習はもう意味がなく、となると、やることがなにもないのである。これでは、自宅でゴロゴロしているのと、なんら変わりがない。
「一月の初出勤日なんて、例年こんなものですよ」
「はあ」
「IT妖怪ばらの活動は、被憑依者となる人間の精神状態に大きく影響されますからね。人間のほうがまだ、お屠蘇気分が抜けない状態では、活発化しようがないわけです。メンバーの皆さんは、そのことを経験則としてご存じなので、ま。出てこんわけですな。イテッ」
 装社実は、鼻毛を抜きながら解説してくれたが、抑揚のない間延びした喋り方なので、聞いているだけで眠たくなってくる。ただでさえ、昼食の後で眠いのに。
「なるほど。ふわぁぁぁぁぁ」
「あくびしないでくださいよ、伝染しますかふぁぁぁぁぁ」
「だって、ふぁいくつなんふぁぁぁぁぁ」
「もう本日は終業ということにしましょうか。正月早々IT妖怪も動きださんでしょうし。ナマさんも袴田さんも、どうやら今日は出勤するつもりがないようですし」
「そうですね。あっ、ちょっと待ってください。電話みたいなんで」
 剛は、ワイシャツのポケットから携帯電話を取り出した。
「はい。もしもし」
―― もしもし薬師神君。私よ、桃栗。
「あっ、桃栗係長、新年明けましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。本年もどうぞご指導ご鞭撻よろしくお願いいたします」
―― なにを“印刷するだけですぐに使える年賀状2000”みたいな挨拶してるのよ。薬師神君、今どこにいて、なにしてるわけ?
「ゼロ課の事務所で、正月気分を味わっています」
―― あらそう。じゃあ、こっちへ新年の挨拶にいらっしゃいよ。
「“こっち”と申しますと?」
―― 決まってるでしょうが。ツサ本社内、システム三課の私のところよ。
「えっ?」
―― ウェブ・ダイナミクスの一件で、あれだけ私に世話になっていながら、以降音沙汰なしってどういう料簡なのかな。
「申し訳ありません。あの後、立て続けにええっと四件、ミッションが下ったものですから、ついバタバタとしてまして」
―― これだから男は困るのよね。なんでも「仕事で忙しかった」って言えば済むと思ってるんだから。私に言わせれば、えらそうにするほど働いてんのかって話よ。無駄なこと一杯やって、効率悪いんじゃないのってこと。
 並みの女性の口から出た言葉ならいざしらず、“売上対前年比百五十パーセント、対前月比百二十パーセントの女”桃栗咲に言われると、反論の余地がない。
「別にそういうつもりでは」
―― まあ薬師神君の場合、その辺に転がってる男どもとは違うから、本当に忙しかったのかもしれないけどね。でも今、事務所で正月気分を味わってるってことは、暇だってことでしょ。じゃあ、こっちへいらっしゃいよ。社内で三時ぐらいから毎年恒例の新年会があるの。小一時間ほど付き合って抜け出すから、四時ぐらいに来て。社内に入りにくければ、外の喫茶店かなにかで待ってて。到着したら携帯に電話ください。これは業務命令です。
「うっ」
 桃栗咲をエンジニアとして、また社会人としてリスペクトしている剛にとって、“業務命令”と言われれば、抗うことはできない。
―― 美味しいお食事とお酒でもご馳走していただこうかしら。立て続けにIT妖怪を四匹もやっつけたんだったら、懐はホクホクのはずでしょ。じゃあ四時にね。
「もしもし」
 ブツ、ポーポーポーポー。
「切れた」
「フフフ。桃栗係長からランデヴーのお誘いとは。よろしいですなあ、若いということは」
「とんでもない。ランデヴーなんて、そんな浮いた状況じゃありませんよ。業務命令です業務命令。自分は桃栗係長から不義理に対してお叱りを受け、さらに食べ物とお酒をたかられるのです。どうしましょう課長、助けてください。そうだ! 袴田課長代理に代わってもらおうかな。部下がしでかした不始末をしっかりフォローする。それこそ役職者の務めではないでしょうか」
「冗談でしょう。袴田さんなんぞ行かせて御覧なさい。ブツ切りになって送り返されてきますよ。でも、いいのかなあ。桃栗係長と申さば例年、初出勤時には晴れ着を召されているはずですよ。普通の恰好をしていてさえ、あれほどのご器量でございますから、晴れ着姿となると、どれほど華やかで艶やかになることか。男子たるもの、それを見逃す手はないと思いますがなあ」
 ゴクッ。これは、剛が生唾を呑みこんだ音だ。
「仕方ありませんな。では袴田さんを呼んできましょうか。倉庫にいるかなあ。正月休みの間に、干からびて死んでいなければ重畳なのですが。それより、餅の食いすぎで膨れ上がって、入り口から出せなくなっていたらどうしよう」
「ちょっと待ってください。やはりここは自分が」
「ははは。最初から行くつもりのくせに、恰好つけるんじゃありませんよ。薬師神さん、手元不如意などといったことはありませんか? なにしろゼロ課の総代として行っていただくのですからね。なんなら幾らか都合させていただきますよ」
「大丈夫です。たくさん報酬をいただいていますので」
 これは皮肉でもなんでもない。IT妖怪撃退の報酬が想像以上に高額で、ゼロ課に移籍してから半年、剛が受け取った報酬は一千二百万円に達していた。これは二課に在籍していたときの年収の三倍にあたる。単純に計算すると、年収六倍になるのである。収入が爆発的増えたからと、単純に喜んでいるわけにはいかない。収入が増加した分、多額の所得税、住民税を納付しなくてはならない。剛はツサの正社員ではなくゼロ課とIT妖怪撃退の委託契約を結んでいる個人事業主だから、それらの納付は自分で行う必要があるのだ。
「そうですか。避妊具はお持ちですかな。努々忘れてはなりませんぞ」
「桃栗係長相手に、避妊具を使用することなど、絶対ありません」
「さあて、それはどうでしょうか。桃栗係長は酒豪でかつ、酔うと大胆になられますからな。哀れ薬師神剛、貞操の危機や如何に」
「やめてください」
 事務所にいると、装社実にからかわれっぱなしなので、剛は二時前に事務所を飛び出してしまった。約束の時間が四時であるにも関わらずだ。ゼロ課の事務所がある中野から、ツサ本社がある西新宿までは、三十分もあれば着いてしまう。仕方なく、中野から新宿まで歩くことにした。
 通勤に使用している自転車は、駐輪場に置いてくることになるので、明朝の出勤時のことを考えるとげんなりするが、西新宿まで自転車で行くのは拙い。もしかすると、酔っぱらった桃栗咲をタクシーで錦糸町まで送り届けなくてはならない可能性があるからだ。その後タクシーで西新宿に戻ってきて、寒空の下、自転車でえっちら自宅まで帰ってはいられない。
「やっぱり寒いなあ」
 剛は、真冬でもコートを着用しない主義なのである。コートを持っていないわけではなく、とにかく着たり脱いだりが面倒なのである。作業場所によって、上着を掛ける設備を提供してくれないところがあるので、その場合始末に困る。面倒なのと寒いのと、どちらを選ぶかとなれば、迷わず寒いほうを選んでしまう剛なのだった。中野サンモール商店街を歩いているときはそうでもなかったが、JR中野駅南口を抜け、中野通りを歩いていると、抜けるような晴天でかつ風が強く、寒さが身に凍みてくる。中野通りをひたすら南下し、青梅街道と交差したところで左折、あとはひたすら新宿に向かって驀進するというのが剛の計画であったが、この寒さでは、途中で挫折してしまいそうだ。
「そうだ。軍資金を補充しておいたほうがいいな。新中野駅近くに、みずほ銀行があったはずだ。銀行の中は暖房が効いてるから、一息つけるぞ。とりあえずそこを第一目標地点にしよう」
 甲州街道をひたすら歩く剛の視線は、自然と行き交う車の前バンパー部分に注がれる。注連飾りの有無を確認しているのだ。伝統的な四季折々の風習を大切にしたいタイプの剛は、昨今、正月の飾り付けを行わない者が増えていることに対して、憤懣やるかたないものを覚えている。当然彼の室内には鏡餅、アパートのドア、そして自転車の前カゴには、注連飾りが装着されているのであった。
 新年の風情を愉しみつつ、適宜トイレ休憩なども挟みつつ、ゆっくりと歩いたが、それでもたかだか中野から西新宿の距離である。約束時間の三十分前には、ツサ本社が入居している西新宿の雑居ビルを臨む場所まで到着してしまった。仕方なく剛は、目に留まったエクセルシオールカフェに入店する。実は剛、このエクセルシオールやスターバックス、その他諸々の今風カフェチェーンがあまり好きではない。椅子やテーブルの構造上、ゆったりくつろげないからである。外から店内が見えるというのも嫌だ。喫茶店で休息をとるならば、心地よく秘密めいた場所で、ふかっとしたソファーに体を埋めたいではないか。
 と言った理由で、剛は喫茶室ルノアールを好むが、ツサ本社の近隣に店舗がないので、本日は仕方なくエクセルシオールにしたのである。ただ、そもそも剛の場合、喫茶店で時間を潰すのが大の苦手なのであった。買い置きの食パンが切れたときなど、喫茶店やファストフード店モーニングセットなるものを食することがあるが、三分で平らげた後は手持無沙汰になって、二分後には慌ただしく席を立ってしまうのだ。
 ただ漫然とスマートフォンを弄っているだけで、三十分も一時間も喫茶店で粘ることができる人間のアルゴリズムが、剛にはさっぱり理解できない。案の定、入店後五分でお尻のあたりがムズムズとしてきた。
「今三時三十五分。桃栗係長は“四時ごろ”と言った。三時三十五分は“四時ごろ”なのか、そうではないのか。そもそも“ごろ”の定義とはなにか。少なくとも四時三十五分は“四時ごろ”ではありえない。なぜそう感じるのか。それは“過ぎちゃってる”からだ。待ち合わせ時間において“ごろ”を適用する場合は、約束の時間を過ぎてはならない。従って、約束の時間のn分前から約束の時間ジャストを“ごろ”と表現するのだ。
 問題はその、変数である“n”の値だ。五か十か、はたまた十五なのか。ここまでなら社会通念上“ごろ”と表してよいだろう。では二十五は許されないのだろうか。例えば相手を待たせるのが絶対に嫌で、二十分前には約束の場所にやってくる二人の場合、二十五分前は、“ごろ”以外のなにものでもないはずだ。
 そんなことをグズグズ考えている間に、四時二十分前になったので、剛は意を決して桃栗咲に電話することにした。
 ジャジャジャジャッジャジャーン、ジャーラララララー。クラッシック音楽のような呼び出し音が繰り返し流れる。新年会ということで、かなり騒々しいことに加え、まさか約束時間の二十分前に電話を寄越してくるとは、露ほども思っていないだろうから、電話の呼び出しに気づいてくれない可能性が高い。諦めて五分前ぐらいになったらもう一度掛け直そうかと考えていた矢先、電話が繋がった。
―― ワイワイあーだこーだはいぎゃははは桃栗どーのこーのぶひぇへひぇ
 電話の向こうから、喧騒に埋没しそうになりつつも、桃栗咲の声がかろうじて聞こえてきた。
―― でめえらうるさいんだよ。他人が電話してるときぐらい静かにしたらどうなのさ!
 桃栗咲の一喝で、電話の向こうに静寂が訪れる。さすがの統率力だ。
―― はい、桃栗。
「桃栗係長ですか。自分です、薬師神です」
―― あら薬師神くぅん。えらく早いのね。分かった。一刻も早く私に会いたかったんでしょ、いやんスケベ。こら山根。いま小声でヒューヒューしただろ。アホ面して囃してる暇があったら、一刻も早く、私にプライベートな用事で電話掛けてこられる、甲斐性ある男になる努力をしろよ。分かったか? ん? 分かった。よろしい。ごめんなさぁい薬師神くぅん。今どこにいるの?
「本社の近くのエクセルシオールカフェです」
―― エクセルシオール? ああ、コンビニの裏手のとこね。
「ええっと。そうです」
―― 十分ぐらいでそっちへ行くから、待ってて。じゃあね。
「はい。では」
 本社ビルからここまでは目と鼻の先なのに、十分もかかるのである。意を決して早めに連絡しておいてよかった。四時まで我慢して連絡し、そこからまた十分以上待たされたのでは堪らない。剛は胸を撫で下ろした。
 毎度のことであるが、桃栗咲が入店するやいなや、客の視線のすべてが彼女に注がれる。中には、視線を逸らすことができず、ぽっかあんと口を開けたままの男がいた。彼女が姿を現す前から、容姿に自信がありそうな女性は数名いて、これ見よがしに脚を組み、脹脛や大腿部をチラ魅せなどしていたが、桃栗咲が入店した後は、姿勢を正し、硬くなってしまっている。
 三十近い年齢ということもあって、さすがに赤系統ではなく、紺と白を基調とした模様であるが、艶やかな振り袖姿で、店の照明が明るくなったと錯覚するほどだ。当然のことながら、あちこちからヒソヒソ声が聞こえてくる。
「芸能人かな」
「見たことないけど」
「ブレイク寸前のモデルじゃね」
「グラビアか写真集、もしかすっとCMの撮影かもしんねえぞ」
「サインしてもらおうかな」
「やめとけよ。芸能人じゃなかったら恥かくぞ」
 剛などは、自分と会うときには“私は一般人です”と書いたプレートを首から掛けてきてほしいと、切実に思っている。
「きゃあ薬師神君、お待たせぇ」
 満面に笑みを浮かべ、桃栗咲が剛の体面に座った途端、これまたお決まりのヒソヒソ声が始まった。
「あの男なにモンだ?」
「あのガタイ見てみろよ。それに目つきの悪さ。ヤクザだぜヤクザ」
「そうかあ。芸能人のバックには、だいたいヤクザがついてやがるからな。羨ましい」
「羨ましがってる場合じゃないぞ。怖ええよ」
「絶対目を合わせちゃ駄目だぞ。それに、女のほうをチラ見するのもヤバいよ。『俺のスケをモノ欲しそうに見てんじゃねえ』って絡まれるぜ」
 絡まない。
「嬉しいわね薬師神君。みな、私たちのこと素敵なカップルだって思ってくれてるのよ」
「思ってませんでしょうが! ヒソヒソ話聞こえてませんか? どう曲解すればそうなるんです」
「ふうん、そうなんだ」
「係長。飲み物はどうされますか」
「いらないの。そんなに長くいるつもりないから。戻って役員連中の相手しなきゃ」
「え? でも電話では、『美味しいお食事とお酒でもご馳走していただこうかしら』って」
「冗談よ」
「はいぃ?」
 まったくがっかりしなかったと言うと嘘になるが、「助かった」と思う気持ちのほうが勝っている。
「フフフ。がっかりした? そんなことないわね、ホッとしてるんでしょ。顔に書いてあるぞ」
 図星である。剛は思わずおしぼりを手に取り、顔を拭きそうになっている。
「薬師神君、どうこの振り袖姿。いい歳して振袖なんて着てんじゃねえと思ってるんでしょ」
「そんなことありませんよ。ヒソヒソ話聞こえてたでしょう。係長はモデルで、CM撮影かなんかだと思ってますよみんな」
「私は薬師神君の感想を聞いてるんですけど」
 このまま桃栗咲のペースに嵌ると拙いと判断した剛は、話題を変えることにした。
「似合ってますってば。それより桃栗係長、『魔画像・壊裂咤絵』のミッションでは、お力添えをいただき、本当にありがとうございました」
「どういたしまして、あれしきのこと。でもね、今日はもっと、お力添えしちゃうつもりなのよ。生涯掛けても返し切れないかもしれないぞ。ええっと」
 桃栗咲は着物と同じ柄の巾着の中からスマートフォンを取り出し、時間を確認している。
「もう四時過ぎてるわね。そろそろ来ると思うわ」
「そろそろ来るって。誰が?」
「フフフ。来てからのお愉しみよ」
 桃栗咲は、ずっと入口のほうに視線をやっている。剛は入口に背を向けて座っているので、彼女の様子を見ながら首をひねるだけだ。
「あ、来た来た。こっちよぉ」
 桃栗咲が椅子から立ち上がって、その相手に手を振るので、剛も溜りかねて振り向くと、そこには、システム二課課長、城富美子が立っていたのである。いつもと同じ、純白のブラウスに黒のパンツスーツ。トレードマークの黒縁眼鏡というスタイルだが、剛が記憶している凛々しさが微塵もない。憔悴しきって、その場に立っているのがやっとであるという様子だった。城富美子がこんな姿になったのは自分のせいだと、剛は胸が締め付けられる思いである。
「城課長!」
 剛の姿を見とめた城富美子の両目から、大粒の涙がポロポロと零れた。
「剛君、もう駄目なの。助けて」
 か細い声でそう呟いた城富美子の体がグラッと揺れたので、剛は慌てて彼女に駆け寄り、抱き留めた。
「お互いにね。特に城富美子が意地を張ってて、見てられないからさあ、ちょっと背中を押してあげたのよ。じゃ、邪魔者は消えますから」
「あの、桃栗係長、ありがとうございます」
「本当にありがたいと思ってんの。それなら私にも力を貸してくれる、薬師神君。勿論今すぐじゃなくていいのよ。山岡血清の件が片付いてからでいいんだけど」
「無論。自分などの力でよければ、いくらでもお貸しします。なんでしょうか」
「耳を」
「こうですか」
 桃栗咲は、剛の耳元でゴニョゴニョとなにかを囁いた。
「ふんふん、ふんふん。え? でえぇ――――――――――――――――! うっそぉぉぉぉぉぉぉぉ」
「こら。いつもそうやって、公衆の面前ででかい声だすんだから。じゃ、よろしくね。でもあんまり期待はしてないんだ。なにしろ無骨一辺倒の薬師神君だからなあ。いざとなれば自分で行動するつもりよ」
 桃栗咲が颯爽と店を退出するまで、剛は驚愕の表情を浮かべ、城富美子を抱きながら固まっているのみだった。

(二)


「今、城課長が、ツサのセキュリティー対策課責任者に、ドキュメント管理サーバーのハードディスクスキャン許可を申請するメールを送った」
 社内ネットワークの監視しているナマちゃんが、抑揚のない声で報告した。
 昨日、桃栗咲の粋なはからいにより、城富美子と久しぶりに再会した剛は、山岡血清の電算課課長、川田に憑依している『邪神・言った言わんの馬鹿』が、いよいよ本性を現し、攻勢を掛けてきたことを知ったのだ。年明け早々に、彼は最後通牒を突きつけてきた。いつまで待ってもシステムが完成しない。ツサとの契約は白紙。費用も払わない。逆にペナルティも覚悟しろと。
 システム二課の課長である城富美子は、ツサの実質的トップである四方惟光システム本部長と協議し、山岡血清のプロジェクト参加メンバーに、これ以上精神的、肉体的負担を掛けるのを避けることを第一義とし、川田の申し出に従う決断を下したのだ。城富美子以外のメンバーはすべて山岡血清のプロジェクトから外し、他のプロジェクトへ割り振った。当然、城富美子は責任を取る形で辞職の意を表明している。
「一縷の望みを掛けて、ゼロ課の薬師神に相談してみろ」と、四方システム本部長は城富美子に進言したが、彼女は首を縦に振らなかった。そこで四方は、三課の桃栗咲に、城富美子の説得を依頼したという経緯だったのだ。桃栗咲がどのような手法で説得を試みたか、なんとなく恐ろしくて、剛としては詳細を知りたいとは思わない。城富美子は説得に応じ、剛に会う決心をしたのだから、結果オーライでよいのである。
 剛は、城富美子にひとつ頼みごとをしたのだ。「消えた議事録ファイルの痕跡を探すため、システム二課は、ドキュメント管理サーバーのハードディスクをスキャンするつもりである」という噂を流してもらいたいと。OSのファイルシステムというのは通常、ファイルを削除したといっても、削除されたという印をつけるだけで、データはゴミとしてしばらくハードディスク内に残るのである。だから、ハードディスクを直接スキャンすれば、消された議事録の内容を読みとれる可能性がある。
 実際にそのようなことをやるわけではない。川田、というか彼に憑依している『邪神・言った言わんの馬鹿』が、必ず妨害目的で侵入を企てるはずであり、それを証拠として押さえるという作戦なのである。
 実際にIT妖怪と遭遇した桃栗咲に説得されたものの、自らの目で確認していないものを百パーセント信じることができない彼女は最初、「自分はやらない。ゼロ課から噂を流せばいいではないか」と拒否した。だが、城富美子が噂の出所であるということに意味があるのであって、他者が流しても信憑性がないのだと、説得に一苦労だったのである。
 彼女はいまだに『IT妖怪』の存在を完全に信じ切っておらず、「外部からツサのドキュメントサーバーのセキュリティーを突破するのは無理だ。だから噂を流すようなことをしても無駄である」と食い下がったので、じれた剛が「この期に及んで、自分を信じてくれないのか!」と声を荒げる一幕もあった。
 歳下で、しかも元部下であった男にそんなことを言われて黙っている城富美子ではない。「偉そうに言わないでくれる。面倒臭い女だと思ってるんでしょ。でもこれが私だから」と、すさまじい剣幕で席を立つという、最悪の展開になってしまったのだ。そんなこんなで、いきなり作戦が頓挫したかと思われたが、彼女なりに気持ちを整理し、行動を起こしてくれたのである。
「川田が情報を入手したようだ。さすがだな。城富美子氏がメールを送ってから、五分と経っていないぞ。たった今、『ドキュメントサーバーのディスクスキャンをするらしいが、意図を理解しかねる。とりやめていただきたい』という抗議のメールが、城富美子氏宛、Ccで四方事業部長に送られた」
 ナマちゃんにかかると、セキュリティーなどないも同然だ。そしてプライバシーも。LAN回線を行き交うパケットを監視して、ウェブへのアクセスから個人間のメールやメッセンジャーの遣り取りまで、全て解析されてしまう。暗号化されていようが屁でもない。剛などは、もしかするとこのナマハゲ面を被った天才プログラマーは、IT妖怪にとり憑かれているのではないかと考えている。もしくは、IT妖怪が現実に肉体を持ったのか。そもそも、常時ナマハゲの面を装着しているところが怪しい。極度な対人恐怖症のためとは本人の弁だが、確証はないのだ。
「もうかれこれ十八時を回っていますよ。実際に彼女が動いてくれたのは今の時間ですか。相当お悩みになられたのでしょう。なにしろ『IT妖怪』ですからなあ。現実主義者の彼女にとって、受け入れ難かったに相違ありません」
 装社実は、腕を組んでウンウンとうなずいている。
「そうですね。でも最終的には行動してくれて、自分も一安心です」
「薬師神さんも、あの手の女性が相手だと、ご苦労なさるでしょう。いかがです? この際松本君に乗り換えては。ああ見えて、この男(ひと)と決めたら一途。案外良い奥さんになると思いますよ」
 大きなお世話である。今システムゼロ課のオフィスにいるのは、剛と装社実、ナマちゃんの三人だ。薇研一は、ここ二、三日連絡が取れない状態だ。なんでも、『言った言わんの馬鹿』との決戦が近いということで、一切外界との接触を絶ち、自宅の研究室で新兵器の開発に没頭しているらしいのである。
 袴田端正は、『邪神・言った言わんの馬鹿』との対決に向け、一週間ぶりに銭湯に入り、身を清めたいと外出している。袴田端正が身を清めたところで、闘いの趨勢にはまったく影響しないが、彼が放つ臭気がいくばくかでも軽減されるから、入浴は大歓迎だ。ついでに来たきり雀のジャージ上下を洗濯してきてほしいが、「それほど言うならさぁ、コインランドリー代出してくれよぅ。薬師神氏ぃ」となると馬鹿らしい。
 松本瑠美衣は、ミッション遂行のため、現地へ直行直帰だ。『言った言わんの馬鹿』撃退ミッションを行う間、ゼロ課から遠ざけておいたほうがいいということで、放置していても問題ないC++ランクのIT妖怪撃退指示が下り、本人も納得いかない様子だったが、原則的に、ゼロ課では、装社実の指示が絶対なのである。
「定期的に、外部からドキュメントサーバーにアクセスがある。IPは山岡血清。ファイヤーウォール突破を試みているのだ」
「いきなり仕掛けてきましたか。左脚が疼きますなあ」
 装社実は、昔『言った言わんの馬鹿』と対決した時に不随意となった左脚を撫でた。その姿を見て剛は緊張する。思わず知らず拳を強く握りすぎて、掌を見ると、爪の跡が付いて真っ赤になっている。
「薬師神さん、そう緊張する必要はありませんよ。今回は単なる前哨戦に過ぎませんから。左脚が疼いたのは、いよいよ奴の尻尾を押さえることができるという興奮からです」
 剛の様子を見て、装社実がフォローする。
「本体はこないだろう。テンタクル(触手)だけを寄越してくるはずだ。奴が公衆回線を経由して、さらにファイヤーウォールをぶち破って本体ごと別のネットワークに移動できるほどの通力の持ち主なら、そもそもこちらに勝ち目はない。フフフ」
「そうですね。ははは」
 ナマちゃんと装社実は、ほのぼのと談笑している様子だが、その内容は、相当絶望的なものだった。
「ちょっと待ってくださいよ。フフフとか、はははって、談笑している場合じゃないでしょう。もし本体が攻め込んできたらどうするんですか?」
「放置」
「好きなようにさせるしかないでしょう」
 剛の問いかけに対し、二人はほぼ同時に、同じ内容の返答を返してきた。
「……」
 剛は絶句する。これが漫画なら、二人に背を向けてしゃがみ込み、木の枝で床に抽象的な模様を描いているところだ。当然背中へは、十数本の直線が降り注いでいるのである。
「心配無用だ。ツサは普通の会社ではない。我々ゼロ課のホームグラウンドだから。もし『言った言わんの馬鹿』の本体が侵入してきたとしたら、猛烈な波動を放つはずで、それを我々が捕捉できないはずがない。これまでそのようなことがなかったということは、奴にはそれができないということになるのだ」
 剛の様子を見て不憫に感じたのだろう。ナマちゃんがフォローしてきた。
「IT妖怪とは、とどのつまりはアプリケーションだからバージョンアップは可能です。誰がバージョンアップしているかは不明ですが。ただそれは負けた場合のみなんですね。実際に、一度撃退したIT妖怪に再び相まみえたことが何度かありましたが、いくばくかのアルゴリズム的改善が見られましたから。しかし、一度も負けなければ、改善しようがないでしょう。以前『言った言わんの馬鹿』と対決したときには、そのような通力を振るうことはありませんでしたから、現在でも持っていないでしょう。“敗北なくして成長なし”というのは、人間でもIT妖怪でも共通の真理なのです」
 装社実の理屈には、かなり説得力がある。剛としては一安心した。
「ではその、テンタクルでしたっけ。それがドキュメント管理サーバーに侵入してきたら、自分はどうすればいいのですか?」
「まずテンタクルを構内に閉じ込める。あとはいつもと同様のルーチンで、ハンター薬師神が電脳魔界にジャックインして、吸魔のUSBメモリーで複製捕獲し、オリジナルはヌル初期化砲で止めを刺す」
「構内に閉じ込めるって? そんなこと簡単にできるのでしょうか」
「簡単さ。ゲートウェイサーバーのモデムケーブルをひっこ抜くのだよ」
「は?」
 ナマちゃんの回答は、あまりにアナログすぎて拍子抜けするものだった。
「ツサのサーバールームには、ゼロ課の息がかかったオペレーターがいますから。物理的に回線が切断されたら、さしものIT妖怪も、テンタクルを遠隔操作できないでしょう。回収も不可能です。動かなくなってしまう可能性が高いですから、リファレンスアンカーを撃ち込む必要もないかもしれませんね。たとえ自律アルゴリズムが組み込まれていて、トカゲの尻尾のように動き回ったとしても、それほど複雑怪奇なものではありますまい。まあ、薬師神さんの敵ではありませんね」
「はあ」
 装社実とナマちゃんから、交互に安全性を保障されればされるほど、剛の不安は募ってくる。なにしろ『言った言わんの馬鹿』は、装社実の神経系統の一部を破壊し、IT妖怪ハンターとしての生命を断ち切った怪物なのだから。
「大丈夫だ、ハンター薬師神。IT妖怪に憑依された本人、またはその関係者が、不幸にも落命に至った例はあるが、ハンターからはまだ死者は出ていない」
 ナマちゃんから、感情のこもらない調子でそう言われても、まったくフォローにならない。再起不能者は出ているのである。
「まあ。とにかく、今日はお二人にここで、詰めていただくことになりますなあ。腹が減ってはなんとやら。店屋物をとりましょうか。大丈夫、経費で落としますから」
 なにかといえば出前をとりたがり、かつ経費で落としたがるのは装社実の癖だが、今はのんびり外で食べている場合ではない。いつ何時、『言った言わんの馬鹿』がファイヤーウォールを突破するか分からないのに。
「ちょっと待ったあ。その経費で落ちる店屋物とやら、ボキも是非ご相伴させていただきたあい!」
 袴田端正の声である。なんとタイミングよく戻ってくることか。
「残念ながら、敵は我々に腹ごしらえをする時間を与えてくれないようだ」
 ナマちゃんの声には、さすがに若干緊張の色がある。
「薬師神さん、スタンバイしてください」
「はい」
「あのう。店屋物の出前はどうなるんですかはうっ」
 メリッ。ドッドーン。袴田端正が、ナマちゃんの裏拳を顔面に喰らって吹っ飛び、仰向けにでひっくり返った。すかさず装社実が、後頭部を強打しないように地面すれすれで受け止めている。抜群のコンビネーションだ。「いちいち空気を読んでいたら生きちゃいけないんだよぉ」というのが、袴田端正の人生哲学だから、今のようなことをやってナマちゃんにぶちのめされることが、これまで幾度となくあったのだろう。稽古が行き届いているのである。
「テンタクルが、ツサのネットワーク内でインスタンス化した。ハンター装社、オペレーターに連絡を」
「心得ました!」
「ハンター薬師神、電脳魔界へジャック・インする準備をするのだ」
「了解!」
 装社実とナマちゃんが予測していたとおり、『言った言わんの馬鹿』のテンタクルは、公衆回線が切断されると同時に、自律アルゴリズムが組み込まれていなかったようで、いきなり動作不能となった。となればあとはルーチンワークである。テンタクルが保存された吸魔のUSBメモリーは、バイク便で警視庁サイバー犯罪対策課特命分室・IT妖怪班へ送られる。また令状申請書も書面で添付する。早くて明日の夕刻、遅くとも明後日の午前中には、退魔令状が届くはずだ。
 ただ、テンタクルを捕獲するところまでは予定どおりであったが、ひとつだけ予期せぬ事態が起こった。それは、モデムが発火し、使い物にならなくなってしまったことである。オペレーターからの報告によると、外部から、現実的にありえないほどの高負荷がかかったそうだ。
「かなりお怒りのようですな、言った言わんの馬鹿殿は。モデムは、ゼロ課が弁償しなくてはならないでしょうねえ」
「薇氏に依頼して、もうすこし頑丈なものを作ってもらうといいのではないか」
「そうですね。あっ、ちょっと待ってください」
 装社実は、ジャケットの内ポケットに手を突っ込んで、ジージー震えているスマートフォンを取り出した。着信があったようだ。
「はい、もしもし。そうです。ああ、お疲れさまでございます。実は今しがた、『言った言わんの馬鹿』の退魔令状を申請したところでして。え? 本当ですか。はい。分かりました。方策を練ります」
 通話を終えた装社実の表情が暗い。
「四方さんです。山岡血清の川田から、四方さんのところへ要請がきたらしい。金曜日に開催が予定されている定例会議を前倒ししたいとね」
「さっそく動いてきましたね。いつですか」
「明日です」
「明日!?」
「川田の要求は朝一だったのですが、四方さんは、そんな急に関係者を集めることはできないと突っぱねました。しかし、結局十六時開催ということで押し切られた模様です。相手はお客様ですからねえ。やれやれ、明日の十六時となると、二十四時間ありません。退魔令状が間に合わない可能性が高いですね。お役所仕事だからなあ」
「ど、どうすればいいのでしょう?」
 急激なことの成り行きに、ただ慌てふためくほかない剛である。
「ナマさん、ここは、あれしかないでしょうね」
「左様。リスクが伴うが、緊急退魔権を行使するしかないな」
 ナマちゃんが言った緊急退魔権とは、一般的な刑法でいうところの緊急逮捕権に該当する。その場にいる誰の目にもIT妖怪の正体が明らかである場合、IT妖怪ハンターは、令状の取得を事後に行うという条件で、それを撃退できるというルールなのである。ただし、もし誤認であった場合、当人はIT妖怪ハンターの資格を剥奪。所属チームも監督不行届きということで、最悪無期限の活動停止を余儀なくされるというリスクがある。冗談抜きに、差し違える気構えで臨まねばならないのだ。
「でも、もしこちらが緊急退魔権を行使して会議に乱入したとして、奴が正体を現さなかったらどうするんです? ゼロ課はお取り潰しになるかもしれない。リスクが高すぎますよ」
「ところがですね。とことんイワンの馬鹿なのか、それとも我々を舐めているのか、やっこさんのほうから、薬師神さんが会議に乗り込む大義名分を与えてくれたのです」
「どういうことですか?」
「川田は、薬師神剛を明日の会議に出席させよと言ってきています」
「えっ?」
「薬師神さんは、既にツサを退職し、関係は完全に切れています。表向きはね。四方さんは、内心“しめしめ”とほくそ笑みつつも、『既に弊社社員ではなく、かつどこでなにをしているか分からない者を会議に出席させることは不可能である。そんな当たり前のことが分からないのか』と拒否しました。ところが川田は、子供が駄々をこねるかのごとく、『いいや絶対に連れてこい』との一点張りで。
 四方さんはやむなく、『努力はしてみるが確約はできない』と回答したわけです。実は出席させる気満々で、二百五十六パーセント確約できるんですがね。従いまして薬師神さんは、危険を犯してトツする必要はなく、まずは神妙な面持ちで会議に顔を出せばいいのです」
「それはまあ、助かりましたね。助かったと言い切っていいのかどうか、自分には分かりかねますが。でも川田はなぜ自分を?」
 奴は、薬師神さんに抵抗されたこと、そして、ダブルクリップで止めた議事録の束を投げつけられたことをずっと根に持っておるのです。薬師神さんはその軽挙の責任を取って懲戒という形で職を解かれました。まあこれは、山岡血清と言うか、川田に対して体裁を整えるための方便で、内部的には自己都合退職なのですがね。ただね、薬師神さんは、川田に対しては謝罪しておりません。奴にとって、それは絶対に許されざることなのです。プライドが許さないんですね。
 前回は、薬師神さんの、執念の議事録整理作戦と、捨て身の攻撃により一敗地にまみれましたが、そのことにより奴は学習し、都合の悪い議事録を好き勝手に改竄または消し去って、万全の態勢を整えたつもりになっています。そしていよいよ、意趣返しするときだ考えているわけですよ。おそらく、薬師神さんに投げつけられた議事録の束の、三倍ぐらいの厚みのやつを準備しているのではないですか。無論あなたに投げつけるためだけにです。そのために、会社を辞めて無関係になった人間を会議に参加させよと、社会通念上あり得ないことを言ってきているのです。発想が非常に子供っぽいですな。
 しかしそれが、山岡血清の川田保と『邪神・言った言わんの馬鹿』からの多重継承で生まれた怪物、『邪神・言った言わんの馬鹿イン山岡血清』なのです。奴が持っている、子供っぽい感情に突き動かされ無茶をしてしまうという特徴は、我々にとって非常にプラスに働きます。奴がもし冷徹な計算によって、まるでプログラムのように効率重視でシステム二課に攻撃を仕掛けていたとしたら、我々は、電脳魔界で奴と対決する以前に、現実世界で完膚なきまでに叩きのめされていたでしょう」
「課長が仰っていることはよく分かります。しかし、自分は一体なにをどうすればよいか、さっぱり分かりません」
「薬師神さんのすべきことはたった一つですよ。それは、会議が終わるまでに、川田から『邪神・言った言わんの馬鹿』本体を引っぺがすことです。それが出来なければ、我々は終わりです」
「ううむ。結局どうすれば」
「実は私の頭の中にも、具体的な方策はないのです。ただ、前回のときよりさらに激しく、奴のプライドをズタズタに引き裂いてやれば、怒り狂って正体を現すかもしれませんね。薬師神さん、あなたなりのやり方を考えてみてください」
「はい。分かりました」
「ふうむ。さすがは薬師神さん、これだけ難儀な局面にぶつかっても、緊張の色が感じられませんな」
 装社実が指摘した通り、剛としては、急激なことの展開に慌ててはいるが、プレッシャーは感じていなかった。『言った言わんの馬鹿』は、装社実を引退に追い込んだ、IT妖怪の幹部と称すべき強敵である。もし、対決が週末のままであれば、逆にあれこれ思い悩んで、不安の虜になっていたかもしれない。対決が前倒しになったことにより、無論準備する時間は短くなるが、ウジウジと思いなやんでいる暇もなくなったのだ。以前よりさらに過激に、奴のプライドを引き裂くということについても、既にツサの社員ではないという立場を上手く利用すれば、案外簡単に出来そうな気がする。
「間に合いキュルキュル間にキュルキュルキュルキュル」
 勢いよく事務所に駆け込んできたのは、薇研一であった。ぜいぜいと息を切らしている。背中に背負ったゼンマイドームの取っ手が、通常の五倍ほどの速度で回っていた。どういうメカニズムになっているかは不明だが、ゼンマイの回転速度が速くなるほど、薇研一は機敏に動けるのである。ゼンマイと彼の肉体とは、まったく繋がっていないにも関わらずだ。
「キュルっとっと」
 薇研一は、床に伸びている袴田端正の体に躓き、手に握っていたものを取り落しそうになった。退魔のアミュレットのようだが、通常のものより、かなり長い。
「危ないおや?これは袴田さんははんまたぞろ空気を読まない言動をしてナマハゲさんの逆鱗に触れたんですね困った人だなあ」
 心なしか、ゼンマイの回転が緩くなってきた。全開でここまでやってきたので、そろそろ切れ始めているのかもしれない。
「ドクター薇。その手に握られているのは退魔のアミュレットのようですが、とうとう完成したのですか?」
「あっ薬師神君そこにいたのですね」
 装社実が問いかけると、薇研一は、返事もそこそこに、まっすぐ剛に向かって駈け寄った。行きがけの駄賃に、蘇生しかけた袴田端正の後頭部を踏んづけて、再び気絶させたりしている。
「薬師神君これを」
 薇研一から剛に手渡されたのは、やはり退魔のアミュレットだったが、やけに珠の数が多い。
「これは?」
「退魔のアミュレットEXですよ退魔のアミュレットEXですよ退魔のアミュレットEXですよご覧なさい珠の数が六十五個あるんです従来のアミュレットは三十二個プラス一の、珠で構成されているわけですが、これは、珠が、六十四個プラス一ありますので、二セット分の、命令を コーディング、することが、できるのです。もちろん、一度に送出、処理、されるのは、一命令セット分のみ、ですがね。
 従来の、アミュレットは、命令セットを送出して、実行される、まで、次の、命令セットを コーディング、することが、できません、でした。従って、若干ながら、待ち時間が、発生、します。ところが、この、EX、なら、その、無駄、な、待ち、時間を 排除、で――き―ま―――す。た―――だ―――し―――――」
 薇研一の言動がスローになり、最後には停止してしまった。
「薬師神さん、どうやらゼンマイが切れてしまったようだ。お手数ですが巻いてやってくれませんか」
 動作モードを最大にして事務所へやってきたため、ゼンマイ切れを起こしてしまったのだ。独りでいるときにゼンマイが切れたらどうなるのだろう。装社実やナマちゃんは、動力を太陽電池か燃料電池に切り替えたらどうかと進言しているが、薇研一は頑として受け付けない。バネの復元力による駆動でなければ、ゼンマイの意味がないらしい。ただ回っていればよいわけではないようだ。
「薬師神さん。ゼンマイドームの右横にボリュームがありますでしょう。ゼンマイを巻き終えたら、そのつまみを『3』に合わせておいてくださいね。それ以下だと、ゆっくりボソボソ、なにを言っているか分からなくなりますから」
「だだし、この新型アミュレットを使いこなすには、ある程度操作に慣れてもらわないと。それから、常に一手先を読む勘と洞察力が必要です」
「あっ、動き出した。薇さん、とにかくありがとうございます。でもしばらく、これまでのアミュレットを使っちゃだめですか?」
 いきなり新型アミュレットが使えるのか、かなり弱気になっている剛である。
「それはまあ、最終的には薬師神君の判断になると思うけど。でもせっかく作ったんだから、『邪神・言った言わんの馬鹿』との対決のときには使ってほしいなあ」
「薇さん。実は明日対決なんです」
「それほんとなの。それは厳しいかも。装社課長、どう思う?」
「駄目ですね。おそらく従来のアミュレットでは、『言った言わんの馬鹿』には勝てないでしょう。やっこさんが繰り出してくる攻撃を無効化するのに精一杯で、本体にダメージを与えることは不可能です。稽古ですね。稽古しかありません」
「はあ」
『言った言わんの馬鹿』と対決した経験のある装社実が断言するのなら、三十二ビット版退魔のアミュレットでは勝ち目がないのだろう。剛としては観念するほかないようだ。
「まことに申し訳ありませんが、今夜居残って稽古をしていただけますか、薬師神さん。なあに、超過勤務の埋め合わせはしますよ。やっこさんとの対決が済めば、一週間ほど休暇を差し上げます」
 装社実は恐縮の体である。だがこれまで、振替休暇の約束が果たされた試しはない。
「了解しました。では自分はシミュレーションルームへ」
「あっ、僕も一緒に。薬師神君の使いやすいように、調整が必要だと思うから」
 退室する剛と薇研一の後姿を見送る装社実の両の拳は、強く握りしめられている。
「心配無用だ。ハンター薬師神は、きっと『言った言わんの馬鹿』を打倒する。ハンター装社実は、独りで奴と闘ったが、ハンター薬師神には、我々がついているのだから」
「そうですね。あっ、そうだ。ナマハゲさん。邪魔だから、この袴田さんのご遺体をゴミ捨て場まで運びたいのですが、手伝ってくれませんか。明日は燃えるの日なので」
「燃えるゴミとして捨てて支障ないだろうか。粗大ごみ、いやさ産業廃棄物に属するのではないのか?」
「大丈夫でしょう。燃えても臭いにおいを発散するだけで、大気や水質を汚染することはございますまい」
「なるほどな。しかし、こんなに大きな物体が入るゴミ袋があるだろうか」
「特大のゴミ袋を足のほうからと、頭のほうからと二枚被せて、真ん中をガムテープかなにかで止めればいいですね」
「そうだな」
「誰がご遺体ですかぁ! 具体的な遺棄手順を考えないでくださぁい」

 シミュレーションルームで、六十四ビット版『退魔のアミュレット』の操作を練習し続け、なんとか格好がつくようになり、剛がパイプ椅子に腰掛けて一服していると、ナマちゃんが入室してきた。
「邪魔をしてもいいだろうか。ハンター薬師神」
「はい。大丈夫です。なんとか格好がついてきたので、ちょっと休憩しているところで」
 腕時計を見ると、既に午前一時を回っていた。ナマちゃんは剛の向かい側のパイプ椅子に腰掛けたが、それから微動だにせず、ただ黙しているだけだ。
「ナマさん? どうされたのですか」
「ああ、済まぬ」
 ナマちゃんは一瞬反応したが、また黙り込んでしまった。物言わず、思いつめた様子のナマハゲが対面に腰掛けているという状況は、かなり薄気味悪いものだ。
「もう午前一時を回っていますが、まだいらっしゃったんですね。装社課長もいらっしゃるのかな」
「ハンター装社は、十一時ごろ帰宅した。電車がなくなるというのでな」
「そうですか」
「……」
「…………」
 またしてもそこで、会話が途切れてしまう。
「あの、ナマさん。なにか言いたいことがあるんじゃないですか? ナマハゲの面を被っておられるので表情は分かりませんが、なにか思いつめた様子であるのは、ビンビン伝わってきますよ」
「そうか。ではお話しよう。今回の『邪神・言った言わんの馬鹿』撃退ミッションを遂行するにあたり、必ず遵守されねばならないことがひとつあるのだ」
「なんでしょうか?」
「それは、『ハンター松本には内密で遂行すべし』ということだ。我々支援チームも、そしてハンター薬師神、君も今回のミッションをハンター松本に伝えてはならない」
「なぜですか?」
「ハンター松本は、ハンター薬師神ではなく自分にそのミッションを与えよと、強く主張してくるはずだからだ。それが通らねば、ゼロ課離脱も視野に入れるといったような、強硬な姿勢で臨んでくるであろう。そのような事態は絶対に避けなくてはならない」
「しかし、松本さんはこれまで、自分に与えられたミッションを横取りして手柄を奪おうとか、そういったことは一切なさいませんでしたよ」
「それは、『邪神・言った言わんの馬鹿』が、彼女にとって特別なIT妖怪だからである」
「だからなぜなんですか? 意味が分かりません」
 ナマちゃんは、ここでまた固まってしまった。ちょうど、機嫌よく動いていたアプリケーションが、ガーベッジ・コレクションに入って応答なしになってしまった感じである。
「ナマさん?」
「今から伝える情報は、絶対に他言無用だぞ。もし誰かにこの情報が、ハンター薬師神をソースとして伝わったことが判明した場合、私は出刃包丁を持って、貴君の自宅を襲撃するだろう。貴君は日本拳法の心得があるらしいが、自分は総合格闘術をやっていたから遅れは取らんぞ。秘密を守ると約束するか」
「はい」
「絶対だぞ」
「はい」
「では話そう。ハンター松本は、装社実の娘なのだ」
「ええっ?」
 まさに驚愕の事実だ。松本瑠美衣は、装社実のことを“おやっさん”と呼んでいる。組織の上下関係からすると、課長を“おやっさん”と呼ぶのは、一般的にはおかしいが、彼女が伝法な性格だから、“親分”と呼ぶのと同じニュアンスなのだろうと、剛は勝手に解釈していたのだが、まさか本当に“父親”だったとは。
「勘のいいハンター薬師神のことだ。これだけ言えば、彼女に今回のミッションを秘密にする理由が推測可能だな」
「はい」
「装社実が『言った言わんの馬鹿』に敗北した後、彼の生活は荒み、家庭は崩壊した。“松本”というのは、母方の旧姓だよ。母親に引き取られた松本瑠美衣だが、長じて父の背中を追いかけることとなった。と言うか、家庭崩壊の原因を作った『邪神・言った言わんの馬鹿』を始めとするIT妖怪に復讐するために彼女は、IT妖怪ハンターの道を選んだのだ」
「ちょっと待ってください。それほどの遺恨があるのなら、逆に彼女にミッションを与えるのが筋なのでは?」
「駄目である」
「なぜですか」
「なぜ? ハンター薬師神ほどの逸材が、これほど簡単なことが分からぬのかね。ハンター松本では『邪神・言った言わんの馬鹿』には勝てぬからさ。おっと、『やってみなくては分からないじゃないか』などと、なんら裏付けのない精神論を展開しないでくれたまえよ。私は、ハンター薬師神と同じように、彼女の闘いぶりを逐一モニタリングしているのだ。客観的に分析して勝ち目がない。そんな闘いに彼女を送り込むわけにはいかん」
 もし松本瑠美衣が『邪神・言った言わんの馬鹿』に負けた場合、父親と同じく神経系統に損傷を受け、障碍が残る可能性があるのだ。それだけは絶対に、絶対に避けねばならないことぐらいは分かる。そしてこのとき、剛の頭に、まさに電撃的に記憶が甦ってきた。『躁霊・徹夜囃子』のミッションに入る前日、事務所で『アレアレチャンネル』のライブアーカイブ動画を視聴したとき、出演していた“パール”なる女性への、装社実の不可思議な態度だ。
「ナマさん。これも他言無用を約束しますので、ご存知でしたら教えてください。課長にはもうお一人。そうですね、年齢からすると瑠美衣さんの姉にあたるお嬢さんがいらっしゃるのではないですか?」
「ううむ。いまさら隠し立てしても始まらぬな。ハンター装社には確かにもう一人娘がいる。名は装社波亜瑠(そうしゃ・ぱある)。松本瑠美衣は母方に引き取られたが、波亜瑠は父の元に残ることを望んだ。今は家を出て、音信不通になってしまっているらしいのだが」
「ぱ、ぱある」
 剛は絶句した。
「もしかしてその波亜瑠さんも、IT業界へ進まれたのではないですか? しかも、IT妖怪絡みの」
「詳しくは知らぬが、そのような話を聞いたことはあるな」
 間違いない。装社波亜瑠こそ、『アレアレチャンネル』に出演していた女性だ。そう剛は確信した。彼女は、大胆にもハンドルネームではなく、本名で出演していたのである。
「装社課長の元に残ったのに、どんな経緯があって、敵対するような行動を」
「ハンター薬師神。おそらく昨今暗躍している謎の女が、装社波亜瑠であると結論付けているのだな。だがそれは、決してハンター装社の前で口に出してはならない。当然彼もそう考えているはずだが、証拠はなにひとつないのである。我々が便宜上そう呼んでいる『IT妖怪サマナー』の連中が、IT妖怪ハンティングの中心人物であるハンター装社に打撃を与えるため、陽動戦術として“パール”の名を使っている可能性も否定できぬのだから」
「確かにそれも考えられますね。分かりました」
「『邪神・言った言わんの馬鹿』は、装社実、瑠美衣、そして波亜瑠父娘だけではなく、ハンター薬師神、システム二課の関係者、そしてゼロ課のメンバー全員にとって、打倒すべき仇敵である。総力戦になるは必定。我々後方支援チームも、決死の覚悟で臨むつもりだ。無論ドクター薇も引っ張り出してきて待機させる。分かったな」
「はい。あそうだ! ナマさん、実はちょっとお話がございまして」
「なんだ改まって。六十四ビット版『退魔のアミュレット』がしっくりこないのか。残念だが、ソフトウェア的に調整できることは少ないぞ。改良してほしい点があるなら、ドクター薇に申告したまえ」
「そんなことではないのです。どうしようかな。こんな状況では不謹慎かもしれませんが、そもそもナマさんと二人で話す機会があまりないので」
「なんだ、煮え切らんな。日本語というのは膠着語で、結論が先に来ないので好かぬ。もう私は帰るぞ。ハンター薬師神はどうするのだ。こんな真夜中に自転車は危険だ。自宅まで車にて送って進ぜようか」
「ちょっと待ってください。じゃあ言いますよ。ナマさんは、桃栗咲さんのこと、どう思われます?」
「桃栗咲。三課の桃栗係長か。あれほどの美形はちょっとおらぬな。私は苦手だ。せんに会ったとき、不覚にも気を失ってしまった。こんな面などクソの役にもたたん。もう二度と会いたくない類の女性である。ちょっと待ってくれ。彼女の姿を想起しただけで、眩暈がしてきたぞ」
「そうなんですよねえ。対人恐怖症、とくに美しい女性が怖いナマさんにとって、まさに災厄と断定していい人です」
「御意」
「でもその災厄がですね、ナマさんのことが好きで、真剣にお付き合いを希望しているとしたら、どうされます?」
 ツサ本社の近くの喫茶店で桃栗咲と会ったとき、彼女から耳打ちされたのは、このことだったのである。『魔画像・壊裂咤絵』の件で、装社実と共にウェブ・ダイナミクス社の事務所に乗り込んだナマちゃんは、桃栗咲の色香にあてられて失神した。そして介抱中に、桃栗咲は、ナマちゃんの素顔を目撃してしまったのである。彼女曰く、ナマハゲ面の中には、ギリシャ彫刻と見まごうばかりの、超美形の素顔が隠されていて、それを見た彼女の全身に、五十八万三千二百三十六・七ボルトの電流が流れたのだそうだ。そんな細かい値がよく計れたものだと思うが、そこで彼女はナマちゃんに、俗にいう“一目惚れ”をしてしまったというわけだ。
「冗談はよしてくれ、ハンター薬師神」
「彼女は人間としてスケールが大きい分、それほど複雑な精神構造の持ち主ではないです。自分は、桃栗課長の発言が冗談なのか本気なのか、なんとなく分かるようになってきました。ナマさんのことについては、彼女は本気です」
「どうせ金が目的なんだろうさ。金さえ持っていれば、顔はナマハゲでも牛でもニワトリでも、豹でもアホロートルでも、なんでも構わないという女はいるものだ」
「莫大な資産をお持ちだからというのが、桃栗係長がナマさんのことを好きになった理由のひとつであることは否定しません。誰だって、お金がないよりあるほうがいいに決まってますから。しかし、断じてそれだけではないと思います。これは私見で、論理的裏付けはまったくありませんが、自分は、桃栗係長こそ、ナマさんの対人恐怖症を治癒できる、唯一の女性ではないかと考えています」
「それはあれかね。私にとって桃栗咲が“運命の女性である”と言いたいわけかね。自分で言っていて、鳥膚が立ってくるのだが」
「ううん。ちょっと違いますね。自分が言いたいのは、桃栗係長ほどの美人を克服できれば、まず他の女性の前で臆するようなことはないんじゃないかなと、女性に対する恐怖症が克服できればしめたもの。男なんてその辺に転がってるジャガイモと同じになりますよ」
「なるほど。そもそもどうやって桃栗咲に対する恐怖症を克服するのであるかという、根本的命題を証明できていない点を度外視すれば、ハンター薬師神にしてはかなり論理的だ。だが今の局面において、その話題について深く掘り下げるのは、いかがなものであろうか。『邪神・言った言わんの馬鹿』との対決は、十五時間後に迫っているのだぞ」
「大丈夫です。自分は『邪神・言った言わんの馬鹿』に絶対勝ちます」
「ほう。その論理的根拠は?」
「ええっと、負ける気がしないからです」
「ははは。やはりそのほうがハンター薬師神らしい」

(三)


 剛は、ゼロ課事務所内で四時間ほど仮眠をとり、近くの喫茶店で朝食を摂った。その後数時間ほど、六十四ビット版退魔のアミュレット操作を練習し、コンビニエンスストアで買ってきた、照り焼きチキンサンドイッチで早めの昼食を済ませ、午前十一時過ぎには事務所を出た。
 十六時からの定例会議は、立川にある山岡血清のラボ内で開催される。ラボへのアクセスは、公共交通機関を利用する場合は、JR立川駅、もしくは多摩都市モノレール立川北駅で下車し、路線バスに乗るか、通勤時間帯のみ運行する専用送迎バスを利用する。しかし、ゼロ課の面々は十四時前に事務所に集合。そこからナマちゃんのベンツワゴンで現地へ向かうことになっている。
 剛が一人、早めに事務所を出たのは、『言った言わんの馬鹿』との対決に向け、彼が立案した作戦遂行の準備をするためである。まず近くの理髪店に入店し、トレードマークの角刈りをさらに短く坊主にし、稲妻型の剃り込みを入れてもらった。かなり迷ったが、意を決して眉を剃り落してもらう。その結果、一段と只者でない雰囲気を醸し出すようになったが、なぜ剛がそのような行動をとったかは、おいおい明らかになってくる。
 整髪が完了すると、剛はすぐさまJR中央線快速に乗り込んだ。あるものを借り受けるべく、立川在住の知人に会う予定なのである。その後、立川駅前で、十五時三十分ごろナマちゃんのベンツワゴンに拾ってもらう段取りになっているのだ。退魔のアミュレット以外の道具は、アタッシュごと車に積んでいってもらうことにしている。
「ひゃあ。これは、思ったより人が多いぞ」
 剛は、JR立川駅改札内外の混雑ぶりを見て、嘆息した。JR立川駅は、川崎方面へ向かう南武線の始発駅であり、また青梅方面への分岐駅であり、かつ多摩都市モノレールの立川北、立川南両駅との接続があるということで、東京都西部のローカル駅と侮るのは大間違いで、かなりの乗降客数を誇る巨大ステーションなのだ。
 駅ビル内にはルミネ立川。南側には駅ビルと併設されているショッピングビル、グランデュオ立川。そして北口を出れば、伊勢丹、高島屋、ロフト、ビックカメラなどの大規模店舗が林立しているのも、乗降客の多さに拍車を掛けている要因だ。
「すごいなあ。中野駅なんて、完全に負けてるよ。えっと、板尾と待ち合わせの約束をしてるルノアールの場所は?」
 剛はスマートフォンの地図で、喫茶室ルノアール立川駅前店の場所を確認した。待ち合わせ場所をルノアールにしたのは、剛の意向であることは言うまでもない。板尾というのが、本日剛が待ち合わせしている人物の名である。剛はルノアールに入店し、さっと店内を見渡した。既に板尾は到着している。なぜ一瞥しただけで発見できたかと言うと、彼がとんでもない恰好をしていたからだ。剛と同様角刈りにサングラス。極めつけは白と黒の縦縞のスーツを着込こみ、脚を組んでふんぞり返り、電子タバコふかしているのだ。ピカピカツルツルの、白いエナメルシューズが眩しい。それにしても、白と黒の縦縞スーツとは、まるでシマウマ、いや葬式の鯨幕だ。平日の昼下がり、鯨幕を身にまとって喫茶店にやってこられる男。要するに、カタギではないのである。
 板尾のほうでも剛の姿をみとめ、その場で起立し、店内に響き渡る大声で「押忍!」と叫んだ。
 板尾広二(いたお・こうじ)。彼は剛の大学時代の一年後輩で、同じく日本拳法部に所属していたのである。
「板尾。久しぶりだな」
「押忍!」
 二人は立ったまま、拳と拳をごっつんごっつん何度も突き合わせた。これは日本拳法部時代の挨拶なのである。板尾も剛と同様に、身長が百九十センチ近くある。体型も近い。そのような大男が二人、突っ立ったまま拳をごっつんこさせている絵面は、相当異様である。なにしろ一人は鯨幕なのだ。ウエイトレスのお嬢さんなどは、怖がって注文を取りに来ることができないでいた。
「とにかく座ろうか」
「押忍!」
「今日は、突然呼び出してしまって悪かったな。忙しいんだろ。いろいろと」
「とんでもありません。薬師神先輩に呼び出されたら、たとえ火の中水の中であります。押忍!」
 剛は、強くて厳しいが、後輩想いであったので、大層慕われているのである。
「板尾、頼んだものは持ってきてくれたか」
「もちろんであります。押忍!」
 板尾は、持参してきた二つ折りのスーツバッグを手渡した。
「スーツの上下とシャツ、その他モロモロです。押忍! ご注文の通り、自分が持っているものの中で、いちばあん、ド派手なやつを入れていたであります。押忍!」
「見せてもらってもいいかな」
「押忍!」
 スーツバッグのジッパーを開け、中を覗くと、明るい紫のスーツが剛の目に飛び込んできた。なんとなく頭がクラクラしてきたので、そのままジッパーを閉めてしまう。
「ありがとう。助かるよ」
「それはもう、自分は恥ずかしくて着られないであります。でも、いちばあんド派手なものとのご要望でしたので。押忍!」
「分かった分かった」
「それから靴ですが、自分は薬師神先輩より足のサイズが小さいので、合うものがありませんでした。押忍!」
「そうか。じゃあ靴は買うことにするよ。でも、エナメル製のテカテカシューズなんて、どこで売ってるのかな?」
「お任せください。自分が、そっち系ご用達の店を紹介させていただきます。そのスーツにはきっと、テラテラのチャバネゴキブリ色が似合うと思います。押忍!」
「頼むよ」
 剛の作戦はこうである。既にツサを退職し、まったく無関係の人間であることを利用して、社会人としての通念から完全に逸脱した、とんでもない恰好で乗り込んでやろうと考えたのである。具体的に言うと“ヤクザみたいな恰好”だ。先日、東洋情報システム企画へ乗り込んだときに掛けていた、ミラーサングラスも持参してきている。それでまず、川田の度肝を抜いてやるのである。名付けて、“なんという恰好をしてきたのだ貴様作戦”である。
 だが、剛はそんな服飾品を所持しておらず、わざわざ仕立てている時間もない。そこで、立川在住の後輩である板尾から借用することを思いついたわけだ。まっとうな仕事についていないという噂を聞いていたので、きっと、それらしい服飾品を所持しているはずだと考えたのである。お誂え向きに剛に非常に近い体型なのだ。
「それから、例のものだけど」
「武器ですよね。注文が難しかったんで、こんなのしか思いつかなかったんですけど」
 そう言いながら板尾は、大きな紙製の手提げ袋を剛に手渡した。剛は袋を受けとり、中を覗いて、わずかに苦笑する。
「駄目ッスかね?」
「いや。これで十分だよ。ありがとう」
「薬師神先輩のお役に立つことができて光栄であります。押忍!」
 剛は、スーツの内ポケットから、封筒を取り出した。
「これはお礼だよ」
 板尾は封筒を受けとり、中身を確認する。
「ひいふうみい――。げぇ、十万もありますよ。ちょっとお貸しするだけなのに、これは多すぎますよ」
「受け取ってくれ。もしかすると、汚したり、破ったりしてしまうかもしれないから、そのときは、これで勘弁してくれ」
「別にもういいんですけどね。分かりました。ありがたく頂戴しときます。押忍! でも、やっぱIT業界って儲かるんですね。薬師神先輩もあれですか? 六本木ヒルズにお住まいで。付き合ってる彼女も、モデルかなんかだったりするんですかね」
 ライブドアや楽天のせいで、IT業界は、株で儲けて、次々会社をM&Aで乗っ取るのが仕事だと勘違いしている人間が多い。板尾もその一人のようだ。
「そんなに儲かる仕事じゃないよ。住んでるところは中野の狭いアパートだし。でも」
 剛は続けて、うっかり「付き合っている彼女は、モデルなんか目じゃないけどな」と言いそうになり、両手で口を押えている。まだ城富美子を彼女にしたわけではないから、すんでのところで法螺吹きになるところだった。
「でも。なんですか?」
「別にいいんだ。それより板尾、お前今、なにをやってるんだ? 相変わらずブラブラしてるのか。あまり親御さんに心配を掛けては駄目だぞ」
「冗談じゃありませんよ。ちゃんと働いてますってば。叔父貴が経営してる会社でね」
「ほう。どんな仕事だ?」
「叔父貴の会社は、飲食店をいくつもやってましてね。八王子でしょ、立川でしょ、三鷹、吉祥寺、荻窪、ええっとそれから、中野にそれぞれ店があるんです。形態は様々で、居酒屋あり、寿司屋あり、バーあり、キャバクラあり、きわどい風俗系ありなんですが。自分は、多摩地区のエリアスーパーバイザー、てなことやらせてもらってます」
「スーパーバイザー? 各店舗を回って、経営指導でもするのかい」
「冗談でしょ。そんな面倒くさいことしませんよ。さっきも言ったように、形態がバラバラなんですよ。経営については各店舗の責任者にお任せです。自分の仕事は、トラブルシューティングですね。店と地域住民のトラブル、従業員と客のトラブル、客同士のトラブル、そんでもって従業員同士のトラブル。これらが発生したら、自分が乗り込んでですね、穏便に解決するんです」
「ふうん、穏便にねえ」
「押忍!」
「まあ頑張れよ。身内のってことは、将来会社を任される可能性もあるわけだろ」
「どうですかねェ? 叔父貴には来年高校を卒業する長男がいるんですよ。将来的には会社を継がせるでしょ普通。ただこの長男が、すこぶるつきの馬鹿なんですよ。バイクと喧嘩と女のことしか考えてなくて。さて、どうなりますかねえ。ところで先輩」
 板尾はグッと身を乗り出してきた。そして声のトーンが落ちる。
「こんな派手な服を準備して、いったいなにしようってんです? かなりヤバいヤマを踏むんでしょ。絶対そうだもの」
 確かに“かなりヤバいヤマ”には違いない。剛は敢えて否定しなかった。
「黙ってるところを見ると、やっぱりそうなんだ。よし、他でもない薬師神先輩のためだ。なんなら準備できますよ」
「なにを?」
「大きな声じゃ言えませんよ。ちょっと耳を貸してください」
「こうか」
 板尾は、剛の耳元で囁いた。
「ハジキです。押忍」
「いらぁん!」
「そうですかぁ」
 板尾は実に残念そうだ。剛には、なぜ彼がそんなに残念そうなのか、いまいち理解できなかったが、まあ、いろんな意味で派手なのが好きなのだろう。
「どあああぁぁ! 大変だぁ」
「なんだよ。いきなりでかい声出すな」
「薬師神先輩の飲み物がないんであります。押忍!」
「あほんとだ。そう言えば、まだ注文取りに来てないな。水もオシボリもない」
「ごんるわあああぁ! 薬師神先輩の注文を取りに来てねえじゃねえかぁ! もたもたしてやがると、風向きを見て、この店にしィ点けっどぉ!」
 板尾が叫んだ途端、店にいるウエイトレスが全員、剛たちの席にすっ飛んでくる。ついでに、数名の客が店を出てしまった。
 学生時代の後輩との会合は存外に楽しく、思い出話などしている間に、気が付くと十五時なっていた。待ち合わせ時間まで三十分もない。
「板尾。ゆっくり話をしていたいんだが、今日はあまり時間がなくてな。すまんが、靴屋まで案内してくれるか」
「押忍! 今度ゆっくり酒でも酌み交わしましょうよ。ウチがやってる店に、是非来てください。なあに。金なんぞいりませんから」
「そうだな。お前の仕事ぶりを見せてもらおう」
「そうだ。これをお渡ししておきます。押忍!」
 板尾が剛に手渡したのは、ライターだ。『キャバクラ クロスアンジュ』と書いてある。住所を見ると中野区だった。
「自分は、煙草を吸わないが」
「ウチがやってる店の一つなんです。そこで自分の名前を出していただければ、ナンバーワンがすっ飛んできます。押忍!」
「そうか。じゃあせっかくだから貰っておくよ」
「押忍!」
 別にキャバクラでナンバーワンを侍らせたいわけではないが、もしかするとこのライターが、役に立つかもしれないと考えたのだ。
 二人はルノアールを出て、『フロム中武』という複合商業施設ビル内にある靴屋に入店。板尾の進言に従って剛は、チャバネゴキブリ色のエナメルシューズを購入し、トイレで着替えを済ませた。
 昭和五十年代を髣髴させる、やたら襟が大きくて、無意味にスケスケの部分があるワイン色のシャツに、紫のスーツ。首には蛇が巻き付いたような首飾り、ドクロの指輪。左腕にはキンキラキンのブレスレット。右腕には退魔のアミュレットEX。虹色に光を乱反射するミラーサングラス。そして極めつけは、チャバネゴキブリ色のエナメルシューズという姿だ。大便個室内で着替えを済ませ、鏡に写った自分の姿を見た剛は、そのあまりの凶悪さに、思わず110番しそうになったほどである。
「どうだい。似合ってるかな」
「……」
 トイレの外で待っていた板尾は、剛の姿を見てまず絶句する。
「あのぉ。似合ってるかどうか分かりませんが、目的は充分果たされてると思います。その証拠に、トイレに出入りする人はみな、薬師神先輩を避けて通っています。押忍!」
「そうか」
「ただ、交番の前は通らないほうが身のためだと思うであります。それから、鉄道警察詰所のまん前も避けたほうがいいです。押忍!」
「ご忠告ありがとう。気を付けるよ」
「それから、ヤマが片付いたら、着替えたほうがいいと思います。押忍!」
「そうするよ」
 板尾と別れた剛は、駅コンコースを縦断し、南口へ向かった。時刻は既に十五時三十分を過ぎている。南口前のバスターミナルの隅で、ナマちゃんのベンツワゴンが待っているはずなのだ。駅コンコースは人でごった返していたが、剛が進む方向にいる人々は必ず道を開けてくれるので非常に楽である。あまりに恥ずかしく、全速力で走り出したい衝動にかられたが、そんなことをすると、通行人が雲の子を散らすように逃げまどい、パニックが起こるおそれがあるので、我慢した剛である。
 南口へ出て、バスターミナルを見渡すと、既にナマちゃんのベンツワゴンが到着していた。助手席側の窓をコツコツと叩くと、パワーウインドウが開いて、装社実が呑気に顔を出したが、その顔がみるみる引き攣っていく。
「ああああああ、あんた誰? わわわわ我々は人を待ってるだけです。すぐに移動しますから。脅そうったって、そうはまいりませんからね!」
「課長、自分ですよ」
「んでぇぇぇぇぇ! あんた薬師神はん? なんでんねんその恰好は。どこへやったんでっか、まひげ。アタマ大丈夫なん?」
 平素は飄々としている装社実も、極度に興奮したり、パニックに陥ったりすると、出身地である関西の言葉が出てしまうという特質を持っている。剛は、自分が考えた作戦が、まず装社実に対して功を素したことに満足している。
「ハンター薬師神。とにかく車に乗り込んでくれ。出発だ」
 運転席でナマちゃんが、冷静な声で号令を掛けた。
 剛たちが乗り込んだベンツワゴンは、山岡血清立川ラボの駐車場に停車していた。剛を始めとしたゼロ課のメンバーは、まだ車の中にいる。時刻は午後四時を五分ほど過ぎてしまっている。実は立川駅前から山岡血清立川ラボへ向かう途中、警視庁サイバー犯罪対策課特命分室・IT妖怪班から、『邪神・言った言わんの馬鹿』の退魔令状が発効されたと連絡が入ったのだ。至急バイク便で届けると言うので、到着を待つことにしたのである。退魔令状さえあれば、ゼロ課のメンバーは堂々と会議に殴り込みを掛けることができる。
 ただ剛の場合は、最初から会議への出席を認められているので、退魔令状を待つ必要はないのだが、協議の上、十五分程度遅れて会議に顔を出すことになった。剛が会議に遅参することにより、川田が焦れて冷静な判断力を失い、自らの首を絞める行動に出るのではないかという期待もあったが、一番の理由は時間稼ぎである。剛と川田との対決が始まってから、退魔令状の到着までの間隔は、短ければ短いほどよいのだ。
 かくして剛が立案した作戦は、“遅れてきた上に、なんという恰好をしているのだ貴様作戦”に変更された。作戦の効果を最大限に引き出すため、四方システム本部長以下、ツサの面々にも剛の遅参は連絡していない。
「ただいまの時刻十六時十分。薬師神さん、そろそろ行きましょうか」
「了解です」
 剛は、自らの両頬をビシッと張って気合いを入れた。
「ハンター薬師神。三種の神器は持って行け。状況によって、退魔令状が間に合わぬまま『言った言わんの馬鹿』との対決になるかもしれぬ。その辺りは流動的に、臨機応変にな」
「はい」
「う――う。き・ん・ちょう・するう――」
 薇研一の間延びした声からは、まったく緊張の色が感じられないが、巻戻りのボリュームが、2(低速)に設定されているので仕方がない。いずれにせよ、装社実、ナマちゃん、そして薇研一までが後方に控えてくれていると思うと、実に心強い。特に袴田端正がいないことが余計心強い。ただ、松本瑠美衣がいないのは少し寂しかった。彼女は、『邪神・言った言わんの馬鹿』との対決を知らされず、どうでもよいIT妖怪退治を命じられているのである。それを考えると、剛の心に、チクッと小さな針が刺さるのであった。
「では、出撃します」
「うん。見慣れてくると、なかなかお似合いですよそのスタイル。特に、チャバネゴキブリ色の靴が憎いですな」

(四)

 場所は変わって、山岡血清立川ラボの本部棟二階にある第一小会議室。そこで、山岡血清電算課課長川田保と、ツサの四方惟光、そしてシステム二課の城富美子が対峙していた。
 株式会社株式会社スリースターズ・ユニバーサル・ソリューション・アーキテックシステムズの実務を掌握する実質的トップ、四方惟光システム本部長。彼こそ、装社実の古くからの知人にして、IT妖怪ハンティング専門チームシステムゼロ課設立の立役者で、ハンター薬師神剛誕生の仕掛け人なのだ。
 さらに、その経歴は謎に包まれており、まさに“フィクサー”なのだが、その外見からは、まったくそれを感じさせない。痩身で胡麻塩頭。鼈甲縁の眼鏡の奥には人懐っこい目がある初老の男性。例えて言えば、毎朝、小学校付近の道に旗を持って児童を見守る、近所のお祖父ちゃんを連想されるのだ。まだ隠居する年齢ではないだろうが、醸し出す雰囲気としてそうなのである。
 通常定例会議には、山岡血清側の関連各部門の長が、入れ替わりで出席するのだが、この日はシステム開発の内容についての協議ではなく、株式会社ツサの責任追及が目的であったので、山岡血清側は川田一人なのである。
 川田は、会議が始まってからずっと、「薬師神はどうした。なぜ会議に来ない。すぐ呼べ今呼べ直ちに連れてこい」と、飽きることなく怒鳴り続けている。徐々に声が枯れてきているほどだ。
 四方惟光が「会議に出席するよう依頼はしましたが、確約は取っておりません。ご存じの通り、薬師神剛氏は、今ではツサと何の関係もない人間です。彼には、この会議に出席する義務など一片もないのです。どうかそれをご理解ください」と、当たり前すぎることを言っても聞く耳を持たない。さすがの四方も呆れ果て、「このまま怒鳴り続けたら、喉をやられて吐血するかもしれない。そうなれば止まるだろう」と、放っておく構えだ。城富美子は、ただ唇を噛み締め、黙ってうつむいている。
「来た」
「は?」
「来たんだよ、奴が。お前たちにあの足音が聞こえないのか。あれは薬師神だ。とうとう来やがった。あははははは」
 当然四方と城富美子には、剛が歩いてくる足音など聞こえてこない。四方は、「妖怪野郎がそう言っているのだから、薬師神が会議室に近づいているのは間違いなかろう」とまず川田の言を肯定し、さらに「長期に渡ってIT妖怪と同調し続けると、人体は超感覚を持つことになるのか。これは装社実に報告せねば」と感心しきりであったが、IT妖怪の存在を未だに信じ切れていない城富美子の顔は、恐怖に引き攣っていた。幻覚に支配された狂人と会議の真似事をしても無意味だと、天を仰いでいる。
「近づいてきたぞ。そうら、そうら」
 会議室のドアノブが、カチャと音を立てて回る。そしてゆっくりドアが開き、紫色の怪人が入室してきた。
「薬師神剛だ」
 さしもの川田も、剛の姿を見て動きを止めた。遅参を詫びつつ、菓子折りでも提げて、ヘコヘコ及び腰で入室してくるとでも思っていたのだろうが、そうは問屋が卸さないのが剛の作戦だ。城富美子などは、ぽっかんと口を開けたまま凝固している。四方は、黙ってうつむいていた。実はクスクス笑っていたのだ。剛の珍妙な姿が面白いわけではない。剛の意図をおぼろげに察し、これから何が起こるのか、興味深すぎて笑いが堪えられないのである。
「ふん。まずは座れ、薬師神」
 剛は、チャバネゴキブリシューズの踵をカツンカツン鳴らしながら、城富美子の横の席まで移動した。「もう、わけが分からない」と言いたげな表情で、城富美子は剛の姿をしげしげと眺めている。彼女の視線は、剛の頭から爪先まで、最低三往復はしただろう。剛は城富美子の隣に着席するかと思いきや、椅子の上に紙袋を乗せ、コロコロ引きずって、議長席の横、即ち川田の隣まで運んでいき、そこで着席した。
「はい、こんにちは」
「呑気に挨拶している場合か。なんという格好だ薬師神。まあ、会議の席上であのような仕儀に及んだ破落戸(ごろつき)だからな。やっと天職に巡りあえたってことだ。今日君を呼んだのは、ほかでもない。君を始めとする株式会社ツサの責任を追及し――」
「ちょっと待てよ。本題に入る前にまず、日当を払ってくれねえか」
「に、日当?」
「もうツサとも、あんたのところとも、一切関係のない自分を呼びつけたんだ。日当を払って当然だろうが。あんたの言う通り、今じゃみみっちいシステム開発の仕事から足を洗って、日銭を稼ぐシノギをやってるんでね。一日仕事にあぶれると痛えんだよなこれらが。本当は五万ほしいところだが、まんざら知らない仲でもないないし、三万で手を打っとくよ」
「ふざけるな。金など払えるか。どうしてもほしいなら、ツサから取れ」
「理屈に合わないことを言ってんじゃねえぞ。自分を呼んだのはあんただろ。ツサは口を利いただけじゃねえか。だから自分には日当、ツサには仲介料を払って当然だな」
「なにを言うか。薬師神、貴様には私の慈悲でもって、謝罪の機会を与えてやったんだ。日当など払うつもりはない」
「払わないのか。払わないんだな。じゃあ、スジを通さなければどんなことになるか、体に教えてやるよ。言っとくが、素人に舐められっぱなしじゃ済まないシノギなもんでな」
「暴力を振るうつもりか。相変わらず、やり方は同じなんだな、薬師神!」
 剛は、紙袋に手を突っ込み、中のものを取り出した。それを右手に持って掲げ、可愛い作り声で、妙な節を付けつつ叫んだ。
「ちゃららっららーん♪ ピコピコハンマー」
 ぽきゅ。
 あまりのことに、その場に凍りついたまま反応できない川田の頭部で、間の抜けた音が鳴った。
「どうだ? あれ? あまり効いてねえようだな。じゃあこれでどうだ。えい、えい、えい、えい、えい」
 ぽきゅ。ぽきゅ。ぽきゅ。ぽきゅ。ぽきゅ。ぽきゅ。ぽきゅ。
 川田が呆然と突っ立っているのをいいことに、剛は繰り返し彼の頭をピコピコハンマーで殴り続けた。
 ぼきゅ、ぼす、ぼす、ぼす、ぼす、がつっ。
 だんだん音が低く、くぐもってきたのは、剛が徐々に叩く力を強めているからだ。
「あんまりいい音がしないな。安物だったか? それとも、あんたの頭が安物ってことか」
「いい加減にしろ!」
 川田がものすごい勢いで払いのけたので、ピコピコハンマーは剛の手を離れ、壁まで飛ばされていった。上手い具合に槌の部分が平行に壁に当たったのか、ピコっと可愛い音を立てた。川田はハンマーを払いのけた腕の前腕部を押さえ、顔をしかめている。
「打ち所が悪かったみたいだな。真っ赤になってるじゃねえか。あ~あ、あとで腫れてくるよそれは。柔らかいプラスティックでも、思い切り叩くと、こっちが怪我することがあるのさ。人間だって同じだ。柔らかいプラスティックだと思って調子に乗って苛めてると、痛いしっぺ返しを喰らうことになるんだよ」
「だから、そろそろ壊して捨てようと思っているのさ。城課長、そして四方システム本部長には既に弊社の意向を伝えている。我々山岡血清は、完全にベンダーの選定を誤った。従業員二百十余名、マザーズに上場した気鋭の一流SIerと思ってシステムを発注したが、その実体は、お粗末極まりないものだった。低レベル技術者の吹き溜まりだったのだ。
 薬師神、貴様のような品性下劣な人間が、サブリーダーでございと納まっていたのだから、推して知るべしなのだがな。仕上がりは亀の如く遅い。辛抱強く待って、やっと出てきたと思ったら、取り決めした仕様とは似ても似つかぬものだ。 さすがに我慢の限界である。ツサとの契約は白紙。当然開発費は支払えない。既に支払った開発費については、返却を要求する。さらに、ペナルティを課すことも視野に入れている」
「ペナルティを請求したいのは、ツサのほうじゃないのかなあ。自分がプロジェクトを離脱したあとはよく知らないが、自分がいたときは、思いつきで仕様変更を連発なさる、優秀極まりないエスイー殿が山岡血清にいらっしゃってね。それでどれほど時間を無駄にしたか。まあ、システム開発には仕様変更がつきものだから仕方ないとして、仕様変更ではなく、全面的にバグだと言い張るんだから驚きだ。やっぱ、優秀な人は違うわ」
「これを見てから、大きな口を叩くんだな、薬師神」
 川田の手には、クリップ止めされた紙の束が握られていた。二センチ以上の厚みがある。
「なんだそれは?」
「これまでの議事録を印刷したものだよ。これと、現在中途半端に出来上がっているシステムとを比べれば、どれほど違っているか一目瞭然だ」
 川田は、議事録を持つ右手を大きく振り上げた。顔は下卑た笑いで歪んでいる。剛に対して議事録の束を投げつけるつもりなのである。剛は、川田が振り上げた腕の手首を、がしっと掴んだ。それほど力を入れているつもりはないが、華奢な体格の川田にとっては、万力で締め付けられているように感じられるだろう。苦痛で顔が歪んでいる。
「それは議事録じゃないだろ。日本語はちゃんと使ったほうがいいぞ。それはあんたの創作じゃないか。そうだ。ところどころ絵が描いてあるだろうから、創作絵本か。ちょっと来いよ」
 剛は、川田の腕を掴んだまま歩き始めた。痛みから逃れるため、川田も着いて歩かざるをえない。剛がどこへ向かおうとしているのか不明だが、先ほど吹き飛んだピコピコハンマーを目指しているように見える。歩きながら、剛は話を続けた。
「いいかあんた。あんたは案外単純だから、議事録さえ書き換えれば人間が畏れ入ると思っていたんだろうな。残念ながら、人間には記憶ってものがあってね。覚えているものと違うことぐらい、すぐに気付くのさ。するとどうなると思う? あんたに対して畏れ入るどころか、『気持ちの悪い奴だ』ってことになるんだ。議事録と同時に人間の記憶も書き換えるべきだったな。ま、あんたにはそこまでの通力はないだろうが。分かったかい。おや、いまいちピンときてなさそうな顔だな。よし」
 剛は、ちょうど足元に転がっているピコピコハンマーを拾い上げ、続けて二発、川田の頭を叩いた。
 ぽきゅ、ぽきゅ。
「やっぱり、まだピンとこないみたいだな。そうか分かった。こんな創作絵本を持ってるからだな。よし、燃やしちまおう」
 剛は、川田の腕を掴んだまま、板尾からもらったライターを点火し、議事録の束に近づけた。川田が抵抗して腕を動かすので、剛はそれを脇に抱えて固定する。
「ほら。火が点いたぞ。早く放さないと火傷するよ」
「もうやめなさい剛君! これがあなたのやりかたなの? 無茶苦茶よ、こんなの」
 黙ってことの成り行きを見ていた城富美子が、堪らず立ち上がって叫んだ。剛は城富美子に一瞥をくれただけだ。
「こんなやりかたで解決してくれなんて、頼んでない」
「ソウダ。コンナヤリカタデ、カイケツシテクレナンテ、タノンデナイ」
 川田が、城富美子の言葉を真似て繰り返した。これは、オリジナリティーに欠ける『邪神・言った言わんの馬鹿』独特のアルゴリズムだ。そしてその声は、程度の低い音声合成のようになっている。もう一息だ。
「黙れぇ!」
 この叫びは、城富美子に対してなのか、川田に対してなのか、剛自身よく分かっていない。城富美子が剛と川田のところへ駆け寄ろうとしたとき、彼女の腕が四方に掴まれた。
「城君。薬師神の闘いの邪魔をしてはならん」
「だって本部長。こんなの、常識から外れすぎる。彼のやっていることは犯罪です!」
「これまで、常識の範疇で解決できなかったから、薬師神に頼んだんだろう。だったら彼を信じて託すのだ。これは業務命令だぞ!」
 その一言で、城富美子は大人しくなった。川田は無言のまま身じろぎしない。誰の真似をして、どのような言動を取れば、この窮地から逃れられるのか、演算しきれないのだろうと剛は考えている。議事録の束はいよいよ激しく燃え、熱が剛の頬まで届いてくる。だが、川田はそれを後生大事に握り続けていた。着衣に引火するかもしれない。川田に火傷を負わせるのは避けねばならない。
「早く議事録を放せ。さもないと服に引火するぞ!」
「アツイ、アツイ、アツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイアツイ」
 剛は、スーツのポケットから退魔のアミュレットを掴み出し、拳に巻いて、議事録を掴んでいる川田の手の甲に打ちつけた。
 グギヤァァァァァァァァ――――――――――――――
 長い長い、獣のような叫び声。剛は、床に落ちてなお燃え続けている議事録の束を、チャバネゴキブリ色のエナメルシューズで踏みつけ消火した。掴まれた腕を解放された川田は、その場にへたり込み、両腕で膝を抱えた体育座りで俯いたまま、なにか呪詛のような言葉をブツブツと繰り返し続けている。紙が燃える臭いとはまた別の強烈な臭気が剛の鼻腔を衝く。硫黄臭だ、城富美子も四方も、ハンカチで口と鼻を押さえている。
「剛君、この臭いは!」
 城富美子は以前、川田との会議の席上でこの硫黄臭を嗅いだことがあると言っていた。だが、そのときとは比較にならない強烈さだろう。なぜならこれは、IT妖怪本体が姿を現すときの臭気だからだ。
「よし。えっ?」
 いざ退魔経を詠唱し、決戦に臨もうとしたとき、シャツの胸ポケットでスマートフォンが震えた。着信だ。剛は舌打ちした。タイミングを逸すると、退魔経で川田から『言った言わんの馬鹿』本体を分離できなくなるかもしれない。だが、着信はおそらく装社実だろうから、無視するわけにはいかない。仕方なく剛は、スマートフォンをハンズフリーモードにして床に置き、そのまましゃがんだ体勢をとる。現在のところ川田は、体育座りのまま動き出す気配はないが、念のためだ。
「もしもし」
―― 薬師神さん、今、退魔令状が届きましたよ。これから全員でそちらへ向かいます。
「ちょっと今取り込み中なんですが。会議室の場所を説明している暇がありません」
―― 大丈夫です。退魔令状がありますから、偉いさんをとっつ構えて案内させますよ。そちらはどのような?
「ですから取り込み中です。ちょうど妖怪の奴が、硫黄臭を発しているところなんです」
―― しまった。これまた面目ない。最悪のタイミングでしたな。でぇぇぇ。な、なんです。地震! えっ? 誰かが車を揺すってるぅ。
―― 見つけたぜこの野郎ども。許さねえぞ!
 マイクが拾ったのは、松本瑠美衣の叫び声だった。
―― おかしいと思ったんだよ。普段相手にしねえような、弱っちい妖怪の退治を押しつけやがってよ。ゼッテーなんかあると思って事務所へいってみたら、案の定、アホ面提げた鬼喪異が、つくねんと一人留守番してやがった。。
 ちょいと締め上げたら、うたううたう。てめえらが『言わんのボケ』を退治しにいったことをペラペラ喋りやがったよ。俺だけハブるたぁ、どういう料簡でぇ! あ?
―― おのれ袴田。いつまでの使えん奴め。ハンター松本。落ち着くのだ! 実はこれには深い理由が。
―― 黙れこのナマハゲ! おうりゃあ、おうりゃあああ。
―― や―め―て。きもちわ―る――い。
―― 松本さん、やめなさい。全員車酔いになっちゃいますってば。薬師神さん、申し訳ありません。一旦切ります。
 向こうも、取り込み中状態に陥ったようだ。
「ソウシャ・ミノル。イマノコエハ ソウシャ・ミノルダ。オレハ オマエヲ オボエテイルゾ。マタシテモ キサマカ。コノ クタバリゾコナイガァァァァァ!」
 体育座りのまま膝の間に顔を埋めている川田の両肩から、シュウシュウと黒い煙が立ち昇り始めた。『邪神・言った言わんの馬鹿』が、装社実の声に反応し、実体化しようとしているのだ。一敗地にまみれたものの装社実は、『邪神・言った言わんの馬鹿』を敗北寸前まで追いつめたのだろう。その記憶がIT妖怪の中で蘇り、時間軸が混ざり合って、自分が今誰と対峙しているのかが、判断できなくなってしまったのだ。
 黒い煙が発する気から感じられるのは、“怒りと憎悪”のみである。
「ソウシャ・ミノル。キタレ、ワガ オウコク二!」
 川田の肩の上でわだかまっていた煙は一本の筋となり、無線LANルーターに吸い込まれていった。
「今日こそ貴様の最期だ。『邪神・言った言わんの馬鹿!」
 剛は素早く破魔のヘッドギアを装着し、電脳魔界にジャック・インする。
「生成せよ、魔界公開鍵! ジャック・イーーーーン!」

(五)


「なにぃ!?」
『邪神・言った言わんの馬鹿』を追って、電脳魔界へジャック・インした剛の周囲で、いきなり巨大なヌルボムが炸裂し、視界ゼロの状態になった。剛は慌てて自分のアルバタールの状態を確認したが、目立って損傷を受けた部位はない。ヌルボムを喰らったのが、電脳魔界内にアルバタールの実体が完全に生成される前、すなわちシューティングゲームやアクションゲームに例えると“無敵状態”だったので、幸運にも被害を受けなかったのである。しかし、出鼻を挫かれるのには十分だった。
 ヌルボムの残滓が消滅し、視界が取り戻されると、剛の前方上空に、『邪神・言った言わんの馬鹿』本体が、不気味に顫動しながら浮かんでいた。

 剛がこれまで闘ってきたIT妖怪のように、小細工を弄することなく、いきなり本体が姿を現したのだ。しかも、自らを人体や、恐ろしいモンスターの姿に擬することなく、数値丸出しなのである。しかし、体の表面に十六進数が浮かび上がった、立体的で巨大なアメーバ―状の物体が蠢いているのは、下手に伝説上のモンスターの姿をしているより、数段無気味であった。
「なるほど。小細工を弄さなくとも、お前には負けないということだな。面白い」
 IT妖怪本体は、剛の言葉になんらレスポンスを返すことなく、全身から数十本のテンタクル(触手)を吐き出した。それらは本体から切り離され、剛のアルバタールめがけ、猛スピードで接近してきた。
「最初からトップギアのガチってことか」
 十数本の触手は、剛の実体を貫くべく、次から次へと突っ込んできたが、触手の動作パターンは複雑なものではないから、簡単に予測可能である。剛はひらり、ひらりと身を躱し、適宜、短距離ブロック転送移動も交えつつ、一本ずつ無効化していく。
 触手の本数が半分ほどになったとき、剛がかつて経験したことのない、恐るべき攻撃を『言った言わんの馬鹿』が繰り出してきたのだ。
「ヌルボム!」
 明らかに触手が射出してきたと思われる大規模ヌルボムが、剛の周囲で数十発爆発したのだった。
「聞いてないぞそんなの」
 触手の何本かは、味方が射出したヌルボムの爆発に巻き込まれ消滅したが、減少分本体からまた射出されるので、触手の数が減らないのだ。電脳魔界内はヌルボムの爆風で覆われ、身動き取れない状態に陥った剛をめがけて、触手本体が突っ込んでくるので、仕方なくヌル初期化球を数十個生成し、自分の体を中心に衛星の如く高速回転させ、触手を撃ち落すという作業を延々続けざるを得なくなってしまった。
「これでは、『言った言わんの馬鹿』本体に攻撃している暇がないぞ。どうすればいい」
―― こちら装社。ただ今到着しました!
 装社実からマカイムスチャットが入ったが、剛には返事をしている余裕がない。
―― ハンター薬師神。『言った言わんの馬鹿』本体の一部にヌル(0x00)が集約されつつある。奴は我々が持つ必殺兵器『ヌル初期化砲』に相当する攻撃を仕掛けてくるつもりだ。直撃を喰らうとひとたまりもない。とにかくブロック転送移動で逃げるのだ。
 『言った言わんの馬鹿』本体の中心部には、ブラックホールのような穴が開き、ギュ――ンギュ――ンギュ――ンという、甲高く耳障りな音とともに、それが徐々に巨大化していった。やがて、本体の顫動が一瞬止まる。
「来る!」
 転送先の細かい演算を行う暇もなく剛は、ランダムに位置を定めてブロック転送移動する。IT妖怪本体から、剛がいた場所を遥かに超えて彼方まで、巨大な虚無のチューブが横たわっていた。チューブの内部にあった触手は当然のこと、周辺にあった触手までが、ブラックホールに吸い込まれるごとく消滅してしまった。
「怖い」
 IT妖怪ハンターになって初めて剛は弱音を吐いた。剛は、このIT妖怪が、装社実を始めとするハンターを次々退けてきた理由を理解したのだ。
『邪神・言った言わんの馬鹿』には、他のIT妖怪にはない、極めて特殊な能力がある。それは『闘ったハンターの攻撃を学習し、自らのアルゴリズムとして取り込む』という能力だ。要するに馬鹿だから、現実世界での行動と同様、なんでも真似すればいいと思っているのである。
「グッ」
『言った言わんの馬鹿』が射出した『ヌル初期化チューブ』の威力に呆然として、防御がおろそかになっていた剛は、触手が射出したヌルボムで、右腕を付け根から吹き飛ばされていたのだ。アルバタールの状態を確認した途端、右肩に激痛を覚えた。
―― 拙い! スティグマティクス(聖痕現象)だ。右肩から出血しているぞ。
―― 剛君!
―― 城課長。薬師神に近づいてはいかん! ミッションの妨げになるぞ。
―― だって、剛君が死んじゃう。嫌だ、剛君!
―― 落ち着け!
―― なにか有効な手立てはありませんか、ナマさん!
―― 今考えているところだ。
―― 考えてどうにかなる問題かよ。俺もジャック・インする。こうなりゃ、二人掛かりでやっつけるしかねえだろ!
―― やめるんだハンター松本。よほど息が合っていない限り、互いの妨げになるのが関の山だ。最悪同士討ちもありえる。二人掛かりでやれば勝てるという、根拠のない考えは捨てることだ。
―― やってみなきゃ分からねえだろうが!
―― 不確定な偶発要素に頼る局面でないことぐらい分からぬのか! 何年ハンターをやっているのだ、松本瑠美衣。
―― うるせえ! 俺をハブって、新入りの薬師神センセイなんかに任すからこんなことになるんだよ。センセイがやられたって、俺一人で『言わんのボケ』をやっつけてやらあ! 出てきやがれ、魔界公開鍵!
 後方支援チームも、収拾がつかない状態になってしまっている。
―― やめてくれ、瑠美衣!
 装社実の悲痛な叫び。そうだ。父親である装社実の轍だけは、断じて松本瑠美衣に踏ませてはならない。
「松本さんをこちらに寄越さないでください。誰か、彼女のヘッドギアを」
―― 御免!
 ドス、グシャ。なにか硬いものが砕ける音。
―― 俺のヘッドギアが。てめえナマハゲ! もう許さねえぞ。痛てえ。放せよこの野郎。
―― 許せ松本瑠美衣。君に父親の轍を踏ませるわけにはいかない。もし君がIT妖怪に負けて、父親と同様体に障碍が残ってしまったら。そのような事実を私は受け入れることができないのだ。
―― なんでだよ!? いい加減に放してくれねえか。苦しいんだってば。
―― それは。私にとって君が大切な人だからだ、松本瑠美衣。私は、君の前でだけ安寧の気持ちを持つことができる。君は、私がこうして抱きしめることができる唯一の女性なのだ。
―― なにを浮ついたこと言ってやがんだ。ナマハゲの癖に!
―― ナマハゲが女性を好きになってはいけないか?
―― え~薬師神さん。詳細は別途お話ししますが、松本瑠美衣は、私の実の娘なのです。娘は今、ナマさんに抱きしめられて大人しくなりました。さらに、柄にもなく頬を染め、まんざらでもない表情をしています。
―― こらオヤジ! いちいち薬師神センセイにレポートしてんじゃねえ! おい薬師神。面倒臭せえ経緯があって、『言わんのボケ』はあんたに任せるが、負けやがったら承知しねえぞ! もし負けてみろ。このでっかい胴体をこの部屋の窓から放り投げるぞ。
―― ちょっと無茶言わないでよ! 剛君、危ないことはもうやめて。お願い。
―― 空気を読まねえ発言してんじゃねえよ。てめえのイロだろ。ここは一番、勝つと信じてやるのが、女の道ってもんだぜ。
―― 適当なこと言わないでくれる。私はずっと、あんたたちの大騒ぎを見てたんだからね。このままじゃ剛君に勝ち目がないんでしょ。瑠美衣さん、あんたはいいわよ。そうやってナマハゲさんに、ギュッと抱きしめてもらってるんだから。私なんてまだ、一度だって剛君に抱きしめられたことないのよ。可哀想だと思わないの?
 城富美子は、どさくさに紛れて、言わずもがなのことをカミングアウトしてしまっている。後方支援チームは、さらに混乱度合いを増しているようだ。これではまともな支援を望むべくもない。
 それにしても、ナマちゃんの意中の女性が松本瑠美衣であったとは驚きである。ナマちゃんにとっての運命の女性は、元から身近にいたのである。残念ながら桃栗咲は、生涯最初で最後の失恋を経験することになりそうだ。だが剛は、「気の毒だ」とはさらさら思わなかった。桃栗咲なら、別の男がいくらでも見つかるだろうから。
 とにかく剛には、「『邪神・言った言わんの馬鹿』をやっつけ、城富美子を抱きしめる」という大目標ができた。城富美子が絡むと、当社比二倍増量の能力を発揮する剛であったが、それでも『邪神・言った言わんの馬鹿』撃退の有効な手立てが思い付かない。まるで“避けシュー”の如く、空間一杯に撒き散らされるヌルボムを無効化するだけで精一杯なのだ。ヌル初期化球で無効化できなかったボムで、体中のあちこちに無数の小さな穴が開いている。アルバタールの自己修復機能が間に合わず、穴の数は増加の一途を辿っていた。
「多分現実世界でも出血しているだろう。このまま穴だらけになって、全身から血を流して死ぬのかなあ」
―― 薬師神さん! 電脳魔界に、突如巨大なインスタンスが実体化しました。規模の大きさからしてIT妖怪ではないかと推測されます。なんだこれは。こんなことありえない! 猛スピードでそちらへ接近している。これは、かなり拙いかもしれません。
“拙いかもしれない”どころではないのである。一匹でも持て余しているのに、もう一匹増えたら、百パーセント勝ち目がない。剛は観念した。一対一で負けるのは悔しいが、二対一でボコボコにされるのなら諦めがつく。そう思うしかないのだ。
―― おお。なんと言うことだ! 正体不明のIT妖怪が触手を射出し、『言った言わんの馬鹿』の触手を無効化しているぞ。
―― 薬師神センセイの味方をしてるってことかい? うっそぉぉ!
―― 信じがたい状況です。IT妖怪と闘っているハンターに、別のIT妖怪が加勢するなどいう事例は、未だかつて報告されていません。
―― すごいすごいすごいすごい!
―― ドクター薇。いくら興奮したからとはいえ、ゼンマイレベルを上げてはいかん。まだまだ予断が許されない状況なのだ。いざというとき、ゼンマイ切れになられては困る。
―― だってだってのんびり観戦していられないいられないいられないんだもんだもんだ。
―― 落ち着いてろってのが、土台無理だっつーの。見てみろ『言わんのボケ』の野郎。防戦一方になっちまってるぜ。
 後方支援チームは、謎のIT妖怪出現に湧いているようだが、剛からはまだ、状況が確認できていなかった。ただこれまで、大地も空もない、宇宙空間のようであった電脳魔界のはるか遠方に山々と大地、青空が確認できるようになってきたのだ。それらがまとめて、剛がいる方向へ向け、暗黒の空間を塗り替えるようにして進んできたのである。砂埃を巻き上げ、大地を掛けてきたのは、総勢何千にも及ぶ騎馬軍団だった。
徐々に大きくなってくる鬨の声と軍馬の響き。騎馬軍団の先頭には、豪華な甲冑に身を包み、軍配を差し上げている偉丈夫がいた。
「薬師神剛よ。あのときの礼をするために推参した。助太刀仕るぞ」
 謎のIT妖怪の正体。それは、かつて剛が闘い、侠気から自刃を介錯した『悪霊・黙示録大佐』改め『闘鬼・戦国武将』だったのだ。
「薬師神殿。きゃつめの攻撃の無効化は我が引き受ける。汝は本体を討て」
「承知!」
『言った言わんの馬鹿』が射出する触手は、『闘鬼・戦国武将』が放つ触手にことごとく撃ち落され、剛にまで攻撃が及ばない。彼は自由に動くことができるようになった。
「よし、リファレンスアンカー射出!」
 手応えがあったので。すかさず吸魔のUSBメモリーに本体を吸い込もうとすると、またしても信じられないことが起こった。『言った言わんの馬鹿』本体がいきなり消失し、別のアドレスに出現したのだ。
「ブロック転送!? 聞こえますか装社課長。IT妖怪はブロック転送移動をしないはずでは?」
―― ううむ。おそらくハンターがブロック転送移動を行うのを見て、学習したのでしょう。
「まるでFFに出てくる、“ものまねし”ですね。倒そうとして強力な技を繰り出すほど、こいつを強くしてしまうんだ」
―― ブロック転送移動をやられたら、リファレンスアンカーは何の役にも立ちません。捕獲は諦めましょう。撃退することだけに集中してください。薬師神さん。
「はい。そのつもりで、先ほどから攻撃し続けているのですが、ヌル初期化砲がまったく当たりません。馬鹿の一つ覚えみたいにブロック転送移動を繰り返すので、移動先が予測できないんです。なにか手立てはないのか」
―― 有効かもしれぬ方法があるぞ、ハンター薬師神。移動先の先頭アドレスは予測不可能だが、現在奴がいる先頭アドレスは簡単に取得できよう。攻撃を仕掛けて奴がブロック転送移動したあと、先頭アドレスからある数値をサーチするのだ。それはズバリ、IT妖怪本体が現在いる先頭アドレスの値だ。無作為に移動するにしても、予め乱数により転送先アドレスを演算しておかなければならない。その演算結果は、必ずIT本体内部のどこかに格納されているはずなのである。その格納先を取得できれば、先頭からの相対番地が判明する。
 そして再度攻撃を仕掛けるのだ。こちらが攻撃を仕掛ける態勢に入ったことを検地して、奴がブロック転送先の演算を行った直後に、その相対番地を参照すれば、転送先アドレスが取得できるという寸法だ。
 だが、かかる面倒な作業は、攻撃しながらは無理だ。であるからハンター薬師神。頼り甲斐のある戦友に攻撃を任せ、君は転送先アドレス取得に専念するのだ。
「了解しました」
―― 転送先アドレスの格納場所は、こちらでサーチする。そのような作業は、電脳魔界全体を俯瞰できるこちらのほうがやりやすいからな。
「よろしくお願いします」
 剛は、ナマちゃんとのチャットを終え、『闘鬼・戦国武将』に向き直った。
「お願いがあります。あなたから、奴に攻撃を仕掛けていただけますか」
「弓兵隊、前へ!」
「できれば弓矢のように、小さいのがプチプチ突き刺さる奴じゃなくて、一発ドッカーンとお見舞いする奴がいいんですが」
「砲兵隊、前へ!」
 騎馬兵団が二つに分かれ、その間から、大八車の荷台に固定された、お寺の釣鐘の如き大口径の大砲が、しずしずと出現してきた。そもそも援軍としてやって来たのは、騎馬兵団だけだったはずだ。弓兵隊や砲兵隊など、どこから出現したのか。基本的に“なんでもあり”なのが電脳魔界だから、深く考えても仕方ないのだ。
「撃ち方用意!」
「あらさあ」
 大八車を引いていた砲兵が、鯔背な掛け声とともに、砲身を空中にわだかまっている『邪神・言った言わんの馬鹿』に向けた。
「撃ち方用意よぉし!」
「え? 火薬を詰めたり、砲弾を込めたりしなくていいんですか。砲身を目標物に向けるだけなの?」
「撃ち方用意よぉぉぉし!」
 砲兵は右手を高々と掲げ、再度元気一杯に叫んだ。
「いつ砲弾を込めたんだろうなあ?」
 剛は、おっかなびっくり砲身の中を覗いてみる。
「不用意に砲身を覗いてはいかあん。持っていかれるぞ!」
 なにを持っていかれると言うのか。砲身を覗いただけで暴発するような兵器は、使用しないほうが身のためだと剛は思った。
「撃てぃ!」
『闘鬼・戦国武将』が、いきなり軍配を返した。
「え、もう発射しちゃうの。ちょっと待ってよ」
 ドッガアァァァァァ――ン
 耳をつんざくような大音響とともに、巨大な漆黒の球体が射出された。球体の直径は二メートル以上ある。よく考えると砲身の径より大きいのだ。反動で、大八車が砲兵もろとも後方へ二十メートルほど吹き飛ばされる。そもそもどのような機構で射出されたのか分からない巨大球体は、衝撃波により土埃を巻き上げながら、ほぼ一瞬にして目標に本体に着弾。したと見えたが、『言った言わんの馬鹿』の本体は、既にそこには存在しなかった。そもそも球体が射出された瞬間に、目標が移動していたのだから間が抜けている。
―― サーチが完了した。転送先アドレスの格納場所は、本体の先頭アドレス+8FD3バイトの位置だ。再度攻撃を仕掛けてくれ。転送先のアドレスを指示するから、ヌル初期化砲でとどめを刺せ、ハンター薬師神。
「了解。続けて、もう一度攻撃してください」
「心得た。撃ち方用意!」
「撃ち方用意よぉし!」
「撃てぃ」
 ドッガアァァァァァ――ン
 轟音と共に、二発目の巨大鉄球が射出された。
―― 6D4E887A!
「これで終わりだ。ヌル初期化砲発射!」
 剛の放ったヌル初期化砲は、狙いたがわず、ブロック転送移動により実体化した『邪神・言った言わんの馬鹿』本体を直撃した。

「敵将、討ち取ったり!」
『闘鬼・戦国武将』が、大音声で勝利を宣言した。

(六)


 破魔のヘッドギアを取り外し、剛が現実世界に戻ってくると、そこはお祭り騒ぎになっていた。装社実と松本瑠美衣父娘は、涙を流しながらフォークダンスを踊っているし、ナマちゃんはナマちゃんで、出刃包丁を振り回し、腰の太鼓をデンデケデと叩きながら、これまた怪しげな踊りを舞っている。
 壁に人型の穴が開いているので、どうしたのかと尋ねると、興奮した薇研一がゼンマイドームの回転数を最大にし、全力で走り出したため、壁を打ち抜いてしまったらしいのだ。そこでゼンマイが切れて停止してしまったので、今はそのまま、そっと寝かされている。ゼンマイを巻き直すと、今度は何を破壊するか知れたものではないからだ。
 城富美子は、椅子に腰かけて、無言で剛を見つめている。安堵の様子は感じられるが、なんとなく釈然としない表情を浮かべている。「『IT妖怪』なるものが退治されたのは見ました。でも、だからなに?」とでも言いたげだ。
 電脳魔界でIT妖怪に負けていてはそもそも話にならないが、IT妖怪ハンターの仕事はそれだけではない。被憑依者のアフターフォローこそ重要なのだ。悲願であった仇敵『邪神・言った言わんの馬鹿』撃退がようやく成り、浮かれて娘とダンスしている装社実は、おそらく役に立たないと思われるので、剛が責任もって締めなくてはならない。
「お見事だった。薬師神君」
 四方惟光が歩み寄ってきて、剛にねぎらいの言葉を掛けた。
「あの。このたびは弊社の川田が、とんだご迷惑をお掛けししてしまい、まことに面目次第もございません」
 四方の横で、恰幅のいい初老の男が、ハンカチで額の汗を拭き拭き、しきりに謝罪している。
「失礼ですが?」
「あ。申し遅れました。私こういう者でございましてへへへ」
 初老の男が手渡してきた名刺には、『株式会社山岡血清 立川研究所所長 堂乃上健二』とある。
「このラボの統括責任者、堂乃上健二(どのうえ・けんじ)所長だ。薬師神君。IT妖怪ハンティングに立ち会っていただくため、ご足労願ったのだよ」
「ここの所長様ですか。お初にお目に掛かります。私は株式会社ツサ、システムゼロ課の―」
「どうぞみなまで仰いませんようにひひひひ。高名なIT妖怪ハンター、薬師神剛先生でしょう。数十匹ものIT妖怪をバッタバッタとなぎ倒し、その手腕により救われた技術者の数は、軽く二百名を超えるという、あの有名なあはは」
 剛の業績が、誇大すぎる状態で知れ渡っているようである。もしかすると、装社実の広告戦略なのかもしれない。当の装社実は素知らぬ顔。フンフン鼻唄交じりで、松本瑠美衣とジルバを踊っている。
「ときに、川田さんは?」
「川田は、そちらに寝かせております。どうやら気を失っておるようでして。かような状況で、呑気に気絶している場合ではないと存じますが。まことに面目ないことでへへへ」
「呑気に気絶されているわけではないと思いますよ。IT妖怪が離脱するとき、被憑依者の肉体には、かなりの負荷が掛かるので、ほぼ百パーセントの確率で気絶してしまいます」
「さようでしたかははは。弊社の川田が、特別不甲斐ないわけではなかったのですね。いや、安堵しましたおほほほほ」
 剛はこの、堂乃上という男と会話することに、非常なストレスを感じていた。我が国でトップクラスの臨床検査会社において、研究所の所長という要職に就くほどの人物であれば、もう少し堂々としていて然るべきなのに、この卑屈さたるやどうだ。
 剛の場合、可笑しくもないのに、笑いながら話す人間を信用しないことにしている。笑いで語尾をうやむやにしてしまうのは、よほど発言に自信がないか、腹に一物抱いているかのいずれかだからだ。
 まだIT妖怪に憑依されていないころの川田が、ことあるごとに「経営陣が保守的、かつ事なかれ主義者ばかりである。これでは今以上の発展は望めない」と批判していたことを思い出す。
「まず、川田さんを起こしましょう」
 剛は、床に仰臥している川田の半身を起こし、肩胛骨の間あたりを強く押した。いわゆる“気付け”を施したのだ。
「うっ」
 川田は、ゆっくりと目を開いた。
「川田さん、大丈夫ですか。自分はツサの薬師神です。今の状況が把握できているでしょうか?」
「はい。分かります、薬師神さん」
「今日これまでの経緯を覚えておられますか」
「記憶が曖昧な部分はありますが、これまで自分がやってきたことは、概ね覚えています。四方システム本部長、城課長、そして薬師神さん始め、ツサのみなさんには、多大なるご迷惑をお掛けし、大変申し訳なく思っています」
 川田の謝罪の言葉を聞いて、城富美子が嗚咽している。それは安堵によるものなのか、地獄のような日々がフラッシュバックしてきたことによるものなのか、剛には判断できない。
「謝って済む問題か、この愚か者! 本日づけで立川ラボ電算課課長の任を解き、長万部営業所転勤を命ずる。そこで好きなシステムでもなんでも作ってこい。そこなら仕様変更し放題だぞ。どちらさまにも迷惑は掛からん。
 理由を教えてやろうか。予算なんてぜえんぜんないから、業者にシステム構築を発注できないのさ。自分で作るんだよ。だから、好きなだけ仕様変更すればいい。分かったか。分かったらさっさと行け長万部へ!
 忠告しておくが、今の季節は雪で大変だぞ。かんじき履いてけよ。アマゾンの通販だと二千円ぐらいからある。それぐらい自腹を切るんだぞ。と。薬師神先生。こんなところでご勘弁いただけますかねぃひひひひ」
「担当者一人に責任を押し付けて、はいそれでお仕舞いという態度は、いかがなものでしょうか。過去には、IT妖怪出現の責任を株主総会で追及されて、取締役総辞任という事例がありました。ねえ課長」
 剛自身、そのような事例は聞いたことがないが、装社実に振れば、適当にアドリブで応えてくれると思ったのだ。
「それはまあ、よくあることですね。私が記憶している中で一番キツかったのは、ええっと、IT妖怪の中には、人命に関わる恐ろしい通力を持つ奴がおりましてな。刑事事件に発展した結果、取締役以下諸課長に至るまで、管理職が全員有罪となってしまったことですかなあ」
 装社実は、松本瑠美衣とルンバを踊りつつも、期待以上のハッタリをかましてくれた。いや、もしかするとハッタリではなく、実際にあったことなのかもしれないが。
「ひぃぃぃぃぃ。この私がクビ? 冗談じゃない。まだまだ住宅ローンが三十八年残っておるのですよ。張り切って二世帯住宅を建てたのですが、お恥ずかしい話、息子がニートってやつに成り下がってしまいまして、私からローンを引き継いで払う気も能力もないんです。だから私の双肩に掛かっておるわけです。ああそれなのに。私はシステムのことなど、なあんも知らんのですもの。すべて川田が勝手にやらかしたことなんだもの。そうなんだもの」
 この堂乃上という男、いたぶっていると面白いが、不毛すぎる。時間の無駄だと判断した剛は、IT妖怪ハンティング担当者としての特権を振るうことにした。
「『IT妖怪の跳梁を許した企業または組織は、IT妖怪を撃退したハンター及び彼が所属する組織が指示する処遇を最優先として、IT妖怪の被憑依者に適用しなくてはならない』という、刑法上のルールに則りまして、自分が川田さんの処遇を指示させていただきます。それを受け入れるか受け入れないかは」
 剛はそこで一旦言葉を切って、堂乃上の鼻先に、ビシッと人差し指を突きつけながら続けた。
「あなた次第です」
「び、びぎゃああああ。受け入れます受け入れます受け入れます受け入れます」
「まず、長万部営業所転勤辞令は、白紙撤回してください。川田さんには引き続き、電算課課長の任に就いていただきます」
「しかしそれでは、対外的なモロモロがですね」
「まだ話しは終わっていませんよ」
「ひゃあ、申し訳ありません申し訳ありません」
 剛は、諦観しているのか、それとも達観しているのか、清々しいほど澄んだ目をして成り行きを眺めている川田に向き直った。
「川田さん、このままでは自分は悔しいです。システム開発のカットオーバーミーティングで、あなたは仰いました。この会社のシステムは全然駄目なんだと。検査部署によって、使用しているハードもシステムもなにもかも、すべてがバラバラで、一人の患者の検体を複数部署で検査した場合、横に串刺しした結果すら取得できない状況なのだと。
 だがそれは、これまで『仕方ない』で済まされてきた。なぜなら、それぞれの検査部署で設立年代に差があって、当然のことながら、使用しているシステムの構築時期にも差があるからだ。創業当時からある部署では、サーバーはUNIXとFORTRAN、クライアントはMS-DOSにDiskBasicという、恐竜のようなシステムがまだ動いている。それ以降は推して知るべしで、スタンドアロンのWindows上で動作するシステム、クライアント・サーバー型システム、イントラネットシステム、最近構築されたものは、クラウドに乗っていて、社内にシステム本体がなかったりするからである。ある部署のシステムが老朽化し、再構築するときも、部署の思惑と嗜好により、一貫性のない構成が選択されている状況だ。
 自分はこれを打破したい。そのためにまず、検査結果出力フォーマットを統一する。検査部署によって多少の違いはあれど、検査項目、基準値上限・下限、測定値、H/L判定、結果に対するコメントと、概ね出力項目は決まっている。ここに着目し、各部署から検査結果データを収集、適宜変換して、データベースに蓄積するのだと。
 当然、保守的で事なかれ主義の各部署長からは、川田さんの構想は総スカンを喰らいました。でも、あなたは引き下がらなかった。役員会議の席でプレゼンテーションを敢行し、構想の有用性を主張。ついに役員連中を説き伏せて予算を勝ち取ったのです。自分は、川田さんが熱く語る様子を見て、素直に感動しました。大企業のシステム関連部署には、どちらかと言えば、まず保身を考えて大胆な施策には消極的な人間が多いです。大規模なシステム開発がコケると、何千万、場合によっては億単位でお金が無駄になってしまいますから。でも、世の中には、こんな気骨のある人がいるんだと」
 剛は一旦言葉を切った。
「すみません。水はありませんか。長くしゃべるのは慣れないもので、喉が乾いてしまって」
「これをどうぞ。ミネラルウオーターです。口を付けてるし、ぬるくなっちゃってるけど」
 剛は、城富美子が差しだしてきたペットボトルのミネラルウオーターを受け取り、二口ほど飲んだ。
「ふぅ。ありがとうございます。これ、残りはいただいていいですか」
「返さなくていいわよ」
 その様子を見て、装社実と瑠美衣親子が「間接キッスだぜ」「はい。あれはまさしく、ペットボトルの口を媒介とした間接的な接吻に相違ありません」と、ヒソヒソ囁き合っている。
「そんなこんなで、システム開発が動き出しました。プログラムの製造フェーズが半ばを迎えたころ、川田さんはある日、設計に漏れがあることに気付きます。システム全体の動作に支障をきたしてしまうほどの、致命的な漏れです。あなたは悩みました。プログラム製造フェーズも半ばですから、仕様変更すると、相当な手戻りが発生する。当然それに対する費用も発生します。『今更そんな変更ができるか』と、突っぱねられるかもしれない。それに、なにより致命的なミスを犯してしまった自分が許されなかった。そこで川田さんに、文字通り“魔が差した”のです。よりにもよって、IT妖怪の中で屈指の、大馬鹿野郎を召喚してしまった。その後の顛末は、ここにいる皆さんも周知の通りです」
「薬師神さんの仰る通りだ。すべて私の弱さが招いたことです」
「まず我々に相談していただきたかったですね。川田さんはシステム開発のプロではありません。ですので、判断は我々システム開発のプロに任せていただきたかった。膨大な工数が掛かる変更と同等の効果が得られる、簡易な代替案を提案できたかもしれませんよ。いや、必ず提案できていたと思います。なぜなら、一旦出来上がったものをまた一から作り直したくないからです。そりゃあ必死で代替案を捜しますよ」
「そうですね。私の思慮不足でした」
「川田さん。この一件の落としどころは一つしかありません。それは、川田さんと我々がチームを組んで、システムを完成させることです。まずは、城課長と自分で、設計を整理し直します」
「待って。製造はどうするの? メンバーは全員リリースしちゃったから。川田さんにとり憑いていた化け物が退治されたって言ったところで、誰も信じないでしょ。帰ってきてくれないわ」
「僭越であるが、私がプログラマーとして参加しよう」
 ナマちゃんがプロジェクトへの参加意思を表明した。
「ナマさんが乗り出せば、プログラム製造なんて、あっと言う間に終わっちゃうぜ。あっと言う暇すらねえかもよ。始める前から終わっちまうかも。なんせ、五万年に一人出るか出ねえかの天才プログラマーだからな」
「志位を呼び戻します。自分がプロジェクトに復帰したと知れば、彼は必ず戻ってくる」
「『システム二課に、天才プログラマー志位紗夫雄(しい・しゃふお)あり』という噂は、私のような部外者の耳にも届いていましたからな」
「ま。ナマさんにゃ敵わねえだろうけどな。その志位って野郎が天才なら、ナマさんは大天才、超天才。いや、究極天才かな。うん」
「瑠美衣。お前は黙ってなさい」
「おぉ? 今、“瑠美衣”って呼び捨てにしやがったな。父親風吹かしてんじゃねえや。いいか? 俺を呼び捨てできるのは、この世でたった一人、ナマさんだけなんだぁいっと。ふ~んだ」
「な、なにを言っているのだ、ハンター松本」
「“瑠美衣”って呼んで」
「むむむむむむむむ」
「二人ともおやめなさい。どうもお見苦しいところをお見せしてしまって」
 見苦しくはない。どちらかと言えば微笑ましいのである。
「コホン。ナマさんと志位さんがプロジェクトに参加すれば、一気に見通しが明るくはなりますが、いかんせん物理的なボリュームなるものがありますから。アイ・ピー・システムの佐山氏に事情を話して、協力願いましょう。なあに、薬師神さんの窮地を救うためとなれば、一肌も二肌も三肌も四肌も脱いで、チキンの丸焼きみたくなってくれるに違いありません。まあ、アイ・ピー・システムにとって、ツサとのパイプができるのは得策なはずですから。ねえ、四方さん」
「そうだな」
「IT妖怪のことは、俺に任せときな。最近美味しいとこ攫われてばっかだからよ」
「と、言うようなことです、川田さん。なにもゼロから作るわけではなくて、基礎的な部分は出来上がっているんです。あと少し、一緒に頑張りましょう」
「薬師神さん」
「どわっ」
 川田が伸ばしてきた右手を握り返そうとした剛は、妙な声を出して、前につんのめった。後ろから城富美子が抱きついてきたからだ。
「ありがとう剛君」

(七)


「あそうだ、忘れていました。本日付けで、ゼロ課にひとり配属されますから」
 朝礼の最後に、思い出したように装社実がそうつけ加えた。そんな大切なことを忘れないようにしてもらいたいものだ。剛の初出勤の日も、同様だったに違いない。あの時は、山のように積みあがったドキュメントやパーツの箱を自分で片付けないと、机が確保できなかったのである。
 システムゼロ課の朝礼は、毎朝午前十一時から始まるが、それでも全員が参加しているわけではない。課長の装社実と剛、そして倉庫で寝泊まりしている袴田端整の三人だけだ。袴田端正は、業務的に用事はないはずなのだが、週二回秋葉原に直行するので、毎朝参加するわけではない。松本瑠美衣はミッション遂行のため客先へ直行。ナマハゲのナマちゃんは、基本的に午後からの重役出勤。薇研一にいたっては、呼ばないと事務所に出てこない。
「午後一にいらっしゃいますから。袴田さん。とりあえずその辺を片付けて、机を確保してもらってですね。あとパソコン一台セットアップしていただけますか。入れとくものはええっと。オフィスだけでいいんじゃないかな。それから、メールアカウントの登録ですね」
「ちょっと待ってくださいよ。ボキは雑用係じゃないんですからね、こう見えても課長代理ですよ課長代理。繰り返しますけど課長代理ですよ課長代理。念のためもう一度繰り返しますけど、課長代理ですよ課長代理。大事なことなんで三回言いました」
「はいはい。分かりましたよ」
「分かってなあぁぁぁぁぁい。そんな作業は若いヤツに言いつけてくださいよ若いヤツにぃ」
 袴田端整は、これ以上ないほど横鼻を膨らませている。顔も真っ赤だ。
「あなたより若い者は全員、あなたよりずっと稼ぐわけですから。誰が雑用をこなさなければならないか、ちょっと考えれば分かるでしょうに」
「用事を思い出しました。ボキは今日早退しなきゃならないんだった」
「また。そんなことを。早退って、どこへ帰るつもりですか。隣の倉庫に寝泊まりしているくせに」
「ボキにだって、用事ぐらいありますよぉ」
「どうせ秋葉原でしょう」
「ちょっとぉ課長氏ぃ。アキバをディスる発言はどうなんですか。アキバはITのメッカですよメッカ。もっと簡単に、もっとスマートにIT妖怪を退治するヒントが見つかるかもしれないじゃないかぁ。だからボキは、ボキは」
 装社実を始め、ゼロ課のメンバーが袴田端整を軽く扱うものだから、彼が臍を曲げてしまうというやりとりは日常茶飯事だが、システムゼロ課に配属される人が来るまで、ほとんど時間がない。袴田端整が言う“若いヤツ”が、自分のことを指していると判断した剛は、自ら雑用を引き受けることにした。
「あの、袴田さん。自分がやります」
「当然だよぅ。だいたいだねえ、『自分がやります』とか言って、いちいち恩着せがましく宣言しなくていいのさ。黙ってシュッシュ―と体を動かしゃいいんだよぅ」
 端整は、腕を組み頭を後ろに反らせ、つまり上から目線になるよう剛を見ながら、得意満面そう言ったが、装社実にチラリと視線をやるやいなや、突然殊勝になった。装社実はかなり不機嫌そうな表情をしている。普段温厚というか、ボーっとしているので、余計怖い。声に出しては言わないが、「今やゼロ課のエースとなった、IT妖怪ハンター薬師神剛に、雑用を押し付けるつもりか貴様」と袴田端整を非難していることが丸分かりだ。
「あの薬師神氏。えらそうなこと言ってゴメン。こんなことお願いするの、あれなんだけど、よろしくね。ボキはボキでその、ほら。あれこれ忙しかったりするしさ」
 それでも自分がやると言い出せないところが、袴田端整の限界を示している。
「気にしないでください。自分は今、特段にやることないですし」
 やることがないのは事実だった。IT妖怪ハンターは、IT妖怪が出現しないと仕事にならないのである。松本瑠美衣などは、妖怪退治案件がないときは、いつなんどきでも休暇を取得している。ただ、IT妖怪ハンター育成セミナーの講師として全国を飛び回っているので、ゆっくり休むことができないのが実情のようだが。剛はまだまだ新参者なので、案件がなくても、とりあえず事務所に出勤することにしているのである。
 剛は、誰も座っていないのをいいことに、物置と化している机の上を片付けつつ、装社実にいくつか質問をした。
「装社さん。新しい人には、なにをしてもらうんですか? もしかしてIT妖怪ハンター候補かな」
「違いますよ薬師神さん。あなたの面倒を見てもらうんです。直属の部下というか、秘書ですね」
「自分の秘書?」
「そうです。松本さんですら、そんな役割の人はついちゃいませんよ。もっとも彼女なら『面倒クセえ』って言って断ると思いますけど。『邪神・言った言わんの馬鹿』は、いわば幹部クラスの大妖怪でね。本体の複製を入手できなかったのは残念ですが、行動パターンや通力などの情報をかなり収集できました。これは快挙と申せましょう。
 さらに注目すべきは、IT妖怪『闘鬼・戦国武将』が、薬師神さんの助っ人に駆け付けたことです。あのようなことはまさに前代未聞。IT妖怪ハンター薬師神剛の名声は、一躍業界内に轟いたわけです。言わば英雄ですよ英雄。ふぅ。英雄に片付けやパソコンのセットアップをやらせてるって知れたら、ウチの立場がないなあホント」
 袴田端整は、自席でパソコンに向かいながら、半分の体積になるほど小さくなって震えている。
「薬師神さんには今後、引き合いが殺到するでしょうし、実際きてますから、きっちりスケジュール管理をしてくれる専属秘書が必要だと考えたのです」
「専属秘書ですか。で? どんな人なんでしょう」
「知りません」
「はぁ?」
「今朝がた、四方さんから『薬師神君には、これから秘書が必要になる。でないと仕事が回らないぞ。私がひとり世話しよう。皆まで言うな。黙って受け入れるんだ。午後一にはそちらに行かせるのでよろしく。じゃあね』てな内容のメールがきましてねえ、それ以上のことは分からないんですよ。四方さんはいつもそうなんです」
「名前ぐらい分からないんですか。でないと、メールアカウントの登録すらできませんが」
「本人が来てからでいいでしょう」
「そんないい加減な。あっ、もうこんな時間だ!」
 机の上が散らかりすぎていたので、片付けて雑巾掛けをしたら、すでに十二時五分前になってしまっていた。
「ヤバイなあ。飯食ってる時間がないよ。ねえ袴田さん。どのパソコン使ってもらえばいいですか。袴田さんてば」
 袴田端整は、コクリコクリ船を漕いでいた。
「寝てる。参ったなあ」
「パソコンの準備も、あとでいいんじゃないですか。ノートかタブレットを持参してくる可能性が高いし。薬師神さんのお世話が仕事ですから、それで充分でしょう。フフ」
 装社実はなにやら含み笑いしている。剛の秘書となるべき人物について、それなりに詳細を知らされているにもかかわらず、なぜか隠している様子だ。
 チリン、チリリリン
 入り口に設置している、アナログな呼び出しベルが鳴った。ハードとソフト両方の天才技術者が揃っているのだから、人感センサーと連動した訪問者監視システムぐらい作れそうなものだが、社内設備については金と時間をかけないというのが、システムゼロ課のモットーなのである。
「まさか。もう来ちゃったんじゃないの」
 袴田端整は幸せそうに居眠りしているので、仕方なく“若い者”である剛が、腕まくりをしたままで出迎えることになった。
「すみませえん。どなたかいらっしゃいませんかしら」
 来客は女性のようである。剛は袴田端整の体が、ピクリと反応したのを見逃さない。おそらく、面倒なことをやらされるのがイヤで、狸寝入りを決め込んでいるのだ。
「なんか、どこかで聞いたことある声だな」
 システムゼロ課の事務所は、内部に仕切りが一切ないが、さすがに入り口のところだけはパーティションがしつらえられており、いきなり中が見えないようになっている。
 剛がおっかなびっくり迎えに出ると、入り口には、妙齢の女性が微笑みを浮かべて立っていた。
「あの、どちらさまでしょうか。うちは間に合ってますけど。命知らずばかりなんで」
 剛は、彼女が生命保険のセールレディーの類であると判断を下したのだ。
「イヤだぁ剛君。私よ。城です」
「え!? 城課長ですか。嘘ぉ、貴女が?」
 剛が驚愕したのは無理もない。なぜなら彼女は、かなりの数のフリフリ、ヒラヒラが付着し、かつレースでところどころ肌の色が透けて見える黒のブラウスにショッキングピンクのカーディガン。尻から脚にかけてのラインがしっかり確認できるスリムジーンズに、踵の高いショートブーツ履き。腕には丸められた白のダウンジャケットを抱えているという、以前の彼女からは想像もつかない格好をしていたからだ。城富美子の冬場のスタイルといえば、黒か濃紺のパンツスーツに黒のローヒールパンプス、くすんだグレー系統色のトレンチコートに黒のマフラーと決まっていたのだ。
 さらに髪は茶色に染められ、毛先の部分にウエーブがかかっている。しっかり化粧が施されているのも見て取れる。そしてとどめは、トレードマークの黒縁眼鏡を掛けていないのである。本人の申告がなければ、絶対同一人物であるとは分からない。
「なに吃驚してるのよ」
「だって城課長。その格好」
「どんな格好をしてたって私は私よ。外見に惑わされちゃだめじゃない。そんなことじゃ、一流のIT妖怪ハンターになれないぞ」
 いきなり小言を頂戴してしまった。
「……」
「あれ? 眉毛しっかり生えてる。ちょっと見せて。ぷっ、なにこれ?」
「松本さんからアイブロウペンシルを借りて、自分で描きました」
「左右のバランスがおかしいわよ」
「そうかな」
「生え揃うまでそのままにしとけばいいのに。男なんだから」
「しかし、朝起きて顔を洗うとき、鏡を見ると吃驚するんです。誰だこの怪しい奴はと思って。あと、外を歩いているとき、すれ違う人たちから三メートル以上距離を置かれてしまって」
「なるほど。ところで剛君。もうすぐお昼でしょ。一緒にランチしにいこうよ。積もる話もあるし。ね」
 剛には、城富美子が電撃訪問してきた意図が理解できなかった。そもそも今は平日の真昼間である。仕事はどうしたのか。
「でも今日、自分の秘書をやってくれる人が来るらしくて。外出するのは拙いかなと」
「大丈夫よ。その秘書って私のことだから」
「え?」
「剛君。本当にありがとうね。まさか山岡血清の案件が、こんなに早く片付くとは思ってなかった。スゴイわねナマハゲさんって。ほとんど神レベルのスキルだわ。志位君もナマハゲさんに負けじと発奮してくれたおかげで、十人月の仕事が、一ヶ月で片付いちゃったの。もちろん費用はきっちり十人月分請求させてもらうけどね。おかげさまで、これまでの赤字分をかなり埋め合わせできたわ。でね」
「もう積もる話が始まっちゃったみたいで。分かりました、食事へ行きましょう。あれ? でも、今日着任ですよね。とりあえずみんなに挨拶していたがかないと拙いかもしれないな」
「ボヤボヤしてると、どこのお店も満席になっちゃうじゃない。大丈夫。ナマハゲさんはまだ出勤されてないでしょ。瑠美衣さんは客先直行だって聞いてるし。ドクター薇は会社に来ないじゃん。装社課長には、一昨日お会いして挨拶は済んでいるわ。事務所に着いたら、剛君を勝手に連れ出していいって、許可をいただいているのよ」
 やはり装社実は今回の件について知っていたのだ。それなのに隠していたのである。彼の判断は正しかった。なぜなら剛が事前に富美子を秘書にするなどという話を持ちかけられた場合、絶対に固辞していたはずだからだ。世話になっておきながら、結果的に多大な迷惑をかけてしまったかつての上司を部下にして平然としていることなど、剛にできるはずがない。
「そうだ。ナマハゲさんと瑠美衣さんは、その後どうなってるの? 進展はあったのかしら」
「実はナマさんは昔、装社課長の部下でして、大層目を掛けられていたんです。それで、何度も自宅へ呼ばれていたんですね。そこで、まだ小学生だった松本さんと遊んでいたと。彼女の前では、ナマハゲの面を外していたそうですよ。ナマさんは基本的に女性恐怖症ですし、松本さんはああいう性格ですから、爆発的に進展しているわけではないですが、お互い意識し合っていることは、野暮な自分でも感じます。この前なんて松本さん、『わたしのわたしの彼はぁ、ナマハゲよ♪』なんて、唄ってましたから。本人は意識してないと思いますけど」
「そりゃそうでしょ。あんな告白のされかたしたら、どんな女の子でも参っちゃうわよ」
「あの課長。そろそろ行きましょう」
「あら。そうね」
「ちょっと待ったぁ!」
 エレベーターに向かって歩き出した二人を大音声で呼ばわったのは、言わずと知れた袴田端整である。ついさっきまで、いつものウンコジャージ姿だったのに、今は小ざっぱりとした格好をしている。いつ着替えたのだろうか。
「その昼食とやら、是非ボキも同席させていただきたぁい!」
 城富美子は、あからさまに不快な表情を浮かべ、黙って剛の腕をつかみ、一直線に彼をエレベーターへ引きずっていこうとする。だが剛は立場上、袴田端整を無視することはできない。
「あの」
「剛君。相手にしなくていいわよ!」
「あ、相手にしなくていいだとおぅ!」
「あら。聞こえちゃったわ」
 当然だ。剛の耳元で呟いたならまだしも、富美子は大声で叫んだのだから。
「うぬれぇぇぇい!」
 袴田端整は、そう叫びながら脱兎の如く駆け出し、二人とエレベーターの間に移動して両手両足を広げ、鼻息荒く立ち塞がった。やることがまるで子供である。
「専属秘書といっても、彼女ではない恋人ではないセフレでもない。それなのに、ああそれなのに、着任早々二人きりで会食をぶちかますとはなにごとか! 羨ましい。まずは責任者であるこのボキにスジを通して当然だろう。お願いボキも一緒に連れてって」
「あら。ゼロ課の責任者は装社課長じゃありませんの?」
「ひどいじゃないですかぁ城課長。ほら、ボキですよぉ。六ヶ月と十八日、四時間と二十七分前にほら、本社でほら、経営戦略会議の席でほら、ご挨拶をほら、させていただいたほら、ゼロ課の課長代理のほら」
「え。じゃああなたが、鬼喪異臭漏(きもい・しゅうろう)さんなのね」
「ぶっ、ぶあははは」
 剛は思わず噴き出してしまった。城富美子は、松本瑠美衣が、袴田端正を鬼喪異臭漏と呼ぶという情報をどこからか入手していたのだ。本人から聞いたのかもしれない。
「違ぁうの。ボキは袴田たぁんせぃ」
 袴田端正は、すでに半泣きになっている。
「あら。松本さんからは、システムゼロ課の課長代理は、鬼喪異臭漏さんであるとお伺いしましたわよ。改名なさったの?」
 やはり、松本瑠美衣から直接申し送りされていた。
「改名なんかしてなぁい。ボキはこの世に生を受けてからずっと、袴田端正なのぉ」
「じゃあ前世で?」
「前世ってなんだょぉ、前世って!」
「名前なんてどうでもいいわ」
「どうでもよくなあぁい!」
「どうでもいいって言ってるでしょ。これから私は剛君、じゃなくてボスと今後の打ち合わせをするのです。その中には、ボスと私の間だけでシェアすべき機密情報が多くありますのよ。袴田胆石課長代理、でしたっけ。あなたはご遠慮いただけないかしら」
 平素より袴田端整を毛嫌いしている松本瑠美衣が聞いたら快哉を叫びそうな啖呵がポンポンと続いたが、結果的に彼の態度を硬化させただけだった。
「ボキは胆石じゃなあい。よおし、もう怒ったぞぉ。そんなに二人だけで食事に行きたいなら、ボキを打倒して、屍を超えてゆけえ!」
 袴田端整は泣きじゃくっている。これではまるで、修羅場化した浮気の現場だ。知らない人が見れば、富美子が袴田端整の若き妻で、剛が彼女を寝取った間男だと勘違いしそうである。同じフロアーに入居している会社がなかったのが不幸中の幸いであった。桃栗咲なら、ここでケンカキックを繰り出して、袴田端正を沈黙させるのだが、さすがに城富美子はそこまでやらない。剛としても、どうこの場を納めるか当惑しきっていたところ、まだ呼んでいないのに、エレベーターのドアがチーンと開いた。袴田端整の顔に緊張が走る。
「どうやってエレベーターを呼んだんだ薬師神氏! さすがはIT妖怪ハンターだな。怪しげな術を使いおって。そんな美人、ぜえったいに独り占めさせるもんかぁ! させるもんかあ! させるむぉうんくわぁぁぁぁ!」
 やはり結論はそこであったのか。それよりエレベーターが勝手に開けば、誰かが乗っていてこの階で降りようとしているとは考えないのだろうか。もし、お客さんだったらどうするつもりだ。あまりに恥ずかしすぎる。
「ねえ剛君。このビル、非常階段ないの?」
「ありますけど、エレベーターの向こう側なんです」
「いよいよ万事休すね。ねえ剛君、なにかあの袴田隕石を封印するコードはないの?」
「胆石の次は隕石! ボキは隕石怪獣ガラモンかぃ、ふざけやがって」
「ガラモン。ピッタリだわ」
「むむむむむむむむむむむむぉう許さんぞぉ!」
 袴田端整はさらにヒートアップする。二人が途方に暮れていると、涙と涎と鼻水を盛大に垂れ流しなから喚き散らしていた袴田端整が急に静かになった。エレベーターから降りてきた人物が、袴田端整の首にスルスルと太い腕を巻きつけ、チョークスリーパーで絞め落としてしまったのである。まさに一瞬の出来事。その人物こそ誰あろう、面を装着すれば身長二メートルを優に越す巨人、ナマハゲ・ナマちゃんだったのだ。
「ナマさん」
「ありがとうございますぅ、ナマハゲさん。助かりました」
 富美子が瞳をウルウルさせつつ礼を述べると、ナマちゃんの体は見る見る硬直する。彼は極度の対人恐怖症で、特に美しい女性が苦手なのだ。
「わわ私はただ、お二人の二人の二人の職務遂行の妨げになると判断したので、袴田端整を排除しししししただけだけだ。さ、ハンター薬師神、袴田が蘇生しないうちに、食事なとなんなと行きたまえ」
 ナマちゃんは、アサッテの方向を向きながらそう答えた。
「じゃあ行きましょうボス。ほら、エレベーターはまだ、この階にいるわよ。急いで」
「あ。はい」
 二人は大慌てでエレベーターに乗り込む。
「城課長。今日は自分が奢りますよ。なにが食べたいですか。和食、洋食?」
「課長はやめてくれませんかボス。城君とか、富美子君でいいです。私としては富美子って呼び捨てにしてもらうと嬉しいけど、ボスの性格からすると、ちょっと無理ね。ところでボス、羽振りがよくなっちゃったの?」
「山岡血清に出現したIT妖怪撃退の報酬として、四百万円も貰ったんですよ。吃驚しました。もし本体を捕獲していたら、軽く一千万円超えたんじゃないかな」
「よんひゃくまあん! すごいね。私、ゼロ課に移って、基本給が半分になっちゃったんだけど、臨時分配金があるから愉しみにしてなさいって言われたの。ホントかなあって疑ってたけど、ちょっと期待できそうね。でも、いっぱい貰ったからって、パーッと無駄遣いしちゃだめよ。所得税や住民税、ガッポリ獲られちゃうんだからね」
「はい。実は、IT妖怪ハンターの報酬って予想以上に高額で、既に二課にいたときの年収の四倍以上貰ってるんです。とりあえず今、会社を設立すべく独学で勉強中です。それと、株やFXなんかでの資産運用ですね。うちのナマさんはその方面に関してはプロなんですが、なにしろ話が億単位になっちゃうので、自分のような素人はちょっと」
「それがいいわ。で、話の続きなんだけど、そんなこんなで山岡血清のシステムが片付いたから、二課からこっちに移りたいと四方取締役に直訴したのよ」
「すみません。そこが分からないんです」
「だって、約束したじゃない」
「約束?」
「嫌だァ。忘れちゃったの。去年の夏に渋谷のバーでさ、私、『IT妖怪の実在を証明できたら、薬師神君の部下になって、下足番でも使い走りでも、タイムカード刻印代行でも、なんでもやってあげる』って宣言したでしょ。だからその約束を果たしに来たのに」
「ああ」
 あのときは、剛自身かなり興奮状態にあり、会話の内容をほとんど覚えていないのだ。しかし、彼女が去り際に、そんなことを言っていた記憶はおぼろげにある。だが、その時点で剛はIT妖怪が現実に存在することを知っていたのだから、そもそも賭けにならない。そのことも彼女に告げたはずだ。だから記憶の外へ追いやられていたのかもしれない。
「ああ、じゃないわよホント。でも私、人生観が百八十度変わっちゃったなあ。IT妖怪を見たときはね、今まで築いてきたものっていうのか、信じてきたものっていうのが、ガラガラ音を立てて崩壊してしまったのよ。剛君、じゃなくてボスはどうだったの?」
「自分はそうでもないです。IT妖怪の存在を素直に受け入れられたっていうか、腑に落ちたっていうか、気持ちの中で整合性が取れたっていうか、そんな感じです」
「ふうん。やっぱりボスには適性があったのね」
「あの課長、そんなことよりですね。課長が抜けたら、二課はどうなるんですか? 課長の跡目を継げる人材なんて、残念ながら二課にはいなかったような」
「外部から新課長を招へいしたのよ」
「外部から?」
「ボスもよくご存じでしょ。アイ・ピー・システムの佐山雅(さやま・みやび)部長。最初は固辞されたんだけど、装社課長のたっての頼みということで、ツサ内部で後継者が育つまでの期間限定という条件で引き受けていただいたの」
 やはり、城富美子ゼロ課移籍の裏で、装社実の暗躍があったのだ。
「安心しましたか? システム二課の課長職なんて、代わりは見つかるのよ。でも、IT妖怪ハンター薬師神剛の専属秘書は、私にしか務まらないの。私ね、ボスに気に入ってもらうために、一所懸命おシャレしてきたのよ。ゼロ課はドレスコードがなくて、服装が自由だって聞いたから。本当はちょっと恥ずかしいの。やっぱりいつもと違うから変?」
「ええっとぉ」
 どう評してよいか、野暮な剛には言葉が見つけられなかった。素敵とか可愛いという言葉はいかにも安っぽい。似合っていると言えば、以前のスタイルは似合っていなかったということになるが、絶対にそんなことはないのだ。彼女の飾らないキャリアウーマンスタイルに、心ときめかせていた男は山ほどいたのだから。剛も含めて。
「じゃあこの口紅は? 私って、顔のパーツが全部大きめでしょ。特に濃い赤系の口紅なんか塗ると、口裂け女みたくなるのよね。怖くない?」
 富美子が化粧をしなかったのには、そんな理由があったのかと剛は納得した。彼女は今、薄いピンク色の口紅を塗っている。確かに若干口は大きく見えるが、それ以上に、女性としての魅力が段違いにアップしている。
「あの。すごく綺麗です」
 そうなのである。城富美子は、どんな格好をしていようが“すごく綺麗な女性”だったのだ。
「嬉しい。じゃあボスのほっぺに、口紅の跡をつけちゃおうかな」
「冗談はやめてくださいよ」
「あら。冗談じゃないわよ。松本さんにキスされたときは、まんざらじゃなかったくせに。彼女あけすけだから、全部話してくれたわ」
「申し訳ありません」
「あら。一応申し訳ないと思ってくれるんだ。ねえボス。私って、“仕事”か“女の幸せ”か、どちらか一つを選べって言われたら、どっちを選ぶタイプだと思われますか? えっと、ボスのことだから『仕事に一生を捧げることも、女性の幸せであると考えられるのではないでしょうか』とかなんとか、分かったようなこと言いそうね。だから先に定義しておくわ。“女の幸せ”とは、好きな男の人といっしょになって、いい奥さんになって、子供を生んで、いいお母さんになるっていう、普遍的なことだからね」
「やはり“仕事”かな」
 チーン。
「正解ですか?」
「違うでしょ。エレベーターが一階に着いたんじゃない。ボス、柄に似合わず小ボケをかますのね。私の場合、できれば両方がいいけど、どちらか一つを選ぶとなったら、絶対“女の幸せ”よ。あのねえ。そもそも、私がゼロ課に転属してきたって事実から推論できないんですか、あなたは?」
 エレベーターから降り、剛の腕を引っ張ってホールの隅に剛を誘導しながら、富美子は喋り続けている。
「あの。早く店に入らないと、どこへ行っても満席になってしまいますよ。続きは落ち着いてからでいいんじゃないかな」
「だめよ! これはすごく重要なことなんですからね」
「えっ、んぐぐ」
 富美子は、剛の首に腕を絡めて体を密着させ、慌てふためく彼の頬。ではなく、大胆にも唇を重ねてきた。ちょうど昼時になって、エレベータから何組か人が吐き出されてきても、まったくお構いなしだ。中には、「おおっ」と驚きの声を上げる者もいる。実際の時間にすれば、一分間もキスし続けということはないだろうが、硬派の剛にとっては永劫にも思える時間であった。
「ねえ剛君、携帯電話貸して」
 ようやく剛を解放した城富美子が、よく分からない申し出をしてきた。
「携帯電話? どうするんですか」
「装社課長の番号登録してるでしょ。電話するのよ。今日はこのまま、二人きりでいたいから」
「はあ」
 場所は変わってゼロ課の事務所。厳密に言えば、袴田端正が寝泊まりしているゼロ課の倉庫だ。ちょうどナマちゃんが、締め落とされた袴田端正の体を引きずり入れたところである。
「お疲れさまでした。私もお手伝いできればよかったのですがね」
 装社実は、脚が悪いので力仕事ができない。
「ううむ。無駄に重いなこ奴。なまじ生きているから、ここまで運ばなければならぬのだ。こ奴が四方システム本部長の甥御殿でなければ、いっそ頸椎をへし折り、永遠の眠りにつかせてやったものを。しかし。すさまじい悪臭が立ち込めておるな、この部屋は」
「まあまあ。あっ、ちょっと待ってください。電話のようなので。どうやら薬師神さんですね。はいもしもし。はい、装社ですが。え? あなるほど、あなるほど。もひとつオマケに、あなるほど。分かりました。はい、まったく問題ないです。ノープロブレムです。では」
「どうしたのだ?」
「いえね、城富美子女史が、薬師神さんの携帯を借りて連絡してきたのです。なんでも、打合せに時間が掛かりそうなので、本日は二人とも直帰とのことです。なにしろ、世界屈指のエース級IT妖怪ハンターと、その専属秘書ですから。打合せする事項が多岐に渡っているに相違ありません。さぞかし、最高に息の合ったコンビが誕生することでしょう」
「うむ。実に素晴らしいことだ。ゼロ課の未来は明るい」
「明るくねえよぅそんなの。昼ごはん食べにいって直帰するなんて、ボキは聞いたことありまっしぇん! 打合せなら、さっさとメシ食って、事務所に帰ってきてからやれっつうの。どうせ、出会茶屋かなんかにしけ込むつもりなんだ。嗚呼、ボキの富美子ちゃんが、ボキの富美子ちゃんが、薬師神氏の腐れチ〇コの餌食になっちゃうぅぅぅぅぅぅ」
 袴田端正が絶妙のタイミングで蘇生し、泣き喚き始めた。
「ちょっと待ってよ。二人ともどうして、ボキを無視してプイって行っちゃうわけ? なんで『いつ貴様の富美子ちゃんになったのだ』とか、突っ込んでくれないのさ? なんなんだよこの大団円系な空気。どういう終わりかたなのこれ? IT妖怪サマナーの件なんてさ、こっから先も片付いてないじゃないかぁ。そもそもボキが大トリ取っていいの? ねえってば」

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