横山博ピアノリサイタル2022/03/27に行ってきた
かつてギリシア哲学は現代で言うところの広範囲にわたる学問を包括していた。音楽もギリシア哲学の一つであった。
かたや現代は音楽は学校などの教科に於いて独立した形をとっている。しかしながら、これは音楽に限らなず、深く勉強していくに連れて他分野と密接に関係を持ってくる。
それこそ自分は和楽器に携わるので歴史的なお話をする必要が出てくるし、音については物理学的な知識が大事になる。
一方、音楽を音楽たらしめる要素として日本の教育では西洋音楽を基準としたものを中心に据えている。ドレミファソラシドという長音階をスタートとして長調、短調、ハーモニーや、4/4、3/4などリズムの概念。
音楽も人類が扱う音声を用いた情報伝達手段の一つでありルールを必要としている。詩歌、言語コミュニケーションを伴う事もあるが、非言語コミュニケーションとしての音を用いた情報伝達をする上でルール、共通理解が必要となるのだ。その点において西洋音楽を基準とした上でやりとりされているのが今日の日本の実情である。日本に限らず世界的な基準で、英語が共通言語としての地位を確立しているようなものである。
例えば短3度の和音を聴いた時に何をイメージするか。音楽的な知識の習熟度によって変わっていくのではなかろうか。コードネームのCとCmの違いなどわかっていくと聴こえてくる音楽の情報量が増えていくもので、それはまた大変に面白い事でもある。
少し横道に逸れるが、コードネームCとCmを出したついでにC7とCM7という表記について生徒に楽典のお話をしている際に質問をされた事があった。
「どうしてCとCmの場合はマイナーにmがつくのに7thコードの場合はC7とCM7という形でメジャーを示さないとならないのか。ややこしい。」
正直、ごもっともですね。ややこしい。7度を示す表記については短7度が優先され、短7度の方が無印の7となる。表記的な意味だけでCm7となるとCmなのかCにm7なのかわからない、とか言えなくもないけど、それならC7mにすればイイじゃん!という論も通ってしまう…
こう言う時に役に立つのが歴史ですね。参考文献ですが伊藤友計著「西洋音楽の正体」
和音の勉強をした方なら見た事があるであろう「属7の和音」の登場。7thコードについては短7度を導入した和音の方が登場が早かったし、重要な役割を担ったので短7度が無印、デフォルトの7thコードとしての地位を確立した、と言うところでしょうか。
気になる方はぜひ参考文献を読んでみてくださいね。属7の和音を巡る闘いがかつてはあったのだ…!
自分なんかはすんなりG7→Cというコード進行として機能の面から短7度なのをスルッとそういうもんかと覚えてしまったが、コレも音楽の習熟度によっては引っかかるお話にもなるかと思います。
今書いてる話も「何をそんな初歩的な!」という人から「何それ気になる!」、「まったくわからん」まで、様々な受け取られ方がされる可能性はあるが、要は巷で流れてる音楽も同様に各人の習熟度で解釈は変わっていく。音の組み合わせによる情報伝達ツールであり、発信側と受信側それぞれの知識経験に由来して伝わるものが変化していくのだ。
横道に逸れると言いながら、情報伝達のツールとしての性質は今日聴いていた演奏の自分が感じた本題に関わるお話というか前提のお話でもある。西洋音楽の辿ってきた歴史の先としてジョン・ケージの表現があり、モートン・フェルドマンの表現がある。そしてそれを2022年に演奏をする横山博くんがいる。
それにしてもジョン・ケージにしてもモートン・フェルドマンにしても、「音」とは何か、「音楽」とは何か、というプリミティブでありピュアな、哲学的な問いかけを感じる。そしてそこに至る時代性。
産業革命以後の技術革新からの世界の情報伝達の速度上昇により、世界各地の文化はそれぞれ互いに影響を受けあってきた、もちろん「音楽」も例外ではない───言語が違えば文法が違う。当然、音楽も各国で様々な文法を持っている。その中で西洋音楽が英語のような役割となってはいるのだが、それを超えた「音楽」の、「音」の表現があるのではないか、そういう挑戦心があったのではなかろうか?
人類にとって「音楽」は何なのか。哲学への回帰である。
殊更、西洋音楽は宗教との結びつきがある、あるというかそれが普通だった。ここでいう宗教は言わずもがなキリスト教である。ところが世界はそれだけではなかった。
政教分離という言葉があるが、音教分離も可能なのだろうか?純粋に、「音楽」を、「音」を見つめ直す、大きなパラダイムシフトなのではなかろうか。
21世紀現在の我々も、大きなパラダイムシフトに直面している。AIが生み出す芸術をどのように我々は価値づけるのであろうか。これについて語るとまた長くなるので今回はここまで!
というわけで演奏会の感想を書くのに半年もかけてしまった。半年かかってもこうして文を書かなくては、と思ったのは横山君の真摯な「音楽」、「音」への姿勢の為せる技なわけであり、少なくとも自分にとっては大変に価値のある演奏を聴けたと思っている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?