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【コラム】あいつは本当にその“パイ”をもらうべき人物なのか(byモバイルプリンス)

私のアンセムに、毛皮のマリーズの「ビューティフル」という曲がある。
歌詞の全てを愛しているのだが、中でも

いつか来るこの日のために 私が大切にしてきたサムシング

毛皮のマリーズ「ビューティフル」

この一節を、タトゥーのように脳に刻み込んでいる。

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休日のショッピングセンターに家族で出かけた。
館内は買い物客で異様に賑わっていた。
外に出ると数秒で頭がクラクラするほどの熱波だ。
空調のきいた安全圏を探し、吸い寄せられるようにショッピングセンターに来るのだろう。

「この人たちは、休日イオンに来る以外の選択肢はないのか?」とTwitterに投稿したくなるが、そもそも私自身もイオンに来ているワン・オブ・ゼムだ。マヌケがすぎる。
偉そうな気持ちを殺し、なぜか店内でヘビロテ中のマツケンサンバを聴きつつ、フードコートの行列の最後尾を探す。

広い店内を動き回ると、さすがに休憩をしたくなる。
小さい子供も連れているし、もう中年の入り口に差し掛かっているからな。
しかし、来客者の規模から考えると休憩できるベンチは少ない。
ベンチが空くのを待つ人たちでうっすらと列ができている。
私もその列で待ちながら「あの人はもう少しで席を立つかな」と、次第に考えだす。

さらに、「あの若いグループはお年寄りに席を譲ればいいのに」といった思考が巡り出し、いかんいかんと自制する。
みんなで分け合う“パイ”が少ないと、人の言動が気になり、勝手に他人をジャッジする。
「あいつは本当にその“パイ”をもらうべき人物なのか」と考えてしまうのである。
こうした考えを私は好んでいない。
それにもかかわらず、気を抜くとすぐに自分の頭の中に浮かび上がり、視線や表情などで発露してしまう。そして時間差で「自己嫌悪」が込み上げてくる。マヌケがすぎる(2時間ぶりその日2回目)

こうした感情は、2022年に東京に出張に行った時にも感じたものだ。
コロナ禍の「ソーシャルディスタンス」に慣れ切った私は、座る場所もないほど溢れた人にクラクラとした。
慣れない移動と仕事でヘロヘロになっていると、少しでも自分の負担を減らすために、人の言動が異様に気になるようになっていた。

効率化と合理化が追求された社会においては、利益を生まない休憩スペースは排除される。
効率の悪い人間、合理的でない人間がその社会の足を引っ張っているような感覚に陥ることもある。
ものすごいスピードで客が出入りする飲食店では、その流れを止めかねない慣れていない人間には重圧がかかる。
運転免許を取得し、はじめて国道を運転した時の気持ちを思い出した。

急激な少子高齢化が進むこの国では、恐らくこれからずっと“パイ”の奪い合いが起きる。
労働力人口の減少により、2060年には総人口の約44%しか働く人がいなくなると予測されている。
このような状況下では、経済規模の縮小や「縮小スパイラル」に陥るリスクが高まる。さらに、基礎自治体の担い手の減少や東京圏の高齢化も深刻な問題となるだろう。高齢者に対する差別的な視座も膨れ上がるだろう。

これらの課題に直面する中で、我々は“パイ”を得る代わりに、人間として大切にすべきサムシングを捨てないといけないのだろうか。

少なくとも、2024年の日本の社会では、こうした“パイ”を得ている既得権益者が「人として必要な倫理観やモラルはどこに捨ててきたの?」と思わざるを得ないニュースが日々報じられ続けているからだ。
(また、私の周囲の“パイ”を分かりやすく享受している人たちの人権意識の低さ、そこからくるおぞましいほどの短絡的な弱者切り捨て論に戦々恐々としている)

その二者択一を社会が迫るのであれば、社会の仕組みを変える必要があるのではないか。その考えが、左翼っぽい(と思われる)のかな…などと休憩用のベンチ待ちの1分くらいの間で色々なことを考え込むのである。
息子からは、「どんな話でも、すぐに社会問題の話をはじめる、社会おじさん」と呼ばれている。まさに社会おじさんが脳内で発動し、ひとりしゃべり場(a.k.a反芻)が行われていた。

いつか来るその日のために、私が大切にすべきサムシングは何なのか。
みんなのサムシングが何で、それを大切にできる状況にあるのか。

こうしたそれぞれの美学を探す旅の道標として、今日も私は映画を見て、それについて語る。

沖縄出身の二人が、映画について社会的な側面から語るPodcastをやっております。「沖縄と映画と社会と」と言います。ぜひ、こちらも聞いてやってください。


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