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どうせ2日で終わる日記【25日目】

気がついたら日付が変わっていた。

めちゃくちゃ寝てた

これは僕が悪いのだが今日は朝8時くらいまで起きていた。
別段何か締め切りに追われているとかそういうのではなく、単純に友達と会話していたらつい話が弾んでしまってその弾んだ勢いで朝日が顔を出したのだ。
そんな訳で僕は今日結局そこからぐっすり八時間程度寝て、16時前後に起床した。もう少し早かったかもしれないが、おおまかそのくらいの時間だ。

そしてつい先ほど。
僕は寝ていた。
これも別段これと言って疲れるようなことがあった訳ではなく、単純に少し横になろうと布団の上で寝転がりながらボーっとしていたら寝ていた。
正直今もまだ寝起きということもあって眠く、この勢いで寝たら一周回って早寝早起きとなって健康的な時間に明日目が覚めそうなので適当にこの日記を切り上げたいと心の中で実は思っているが、僕は大人なのでそういったそぶりは一切見せずにこの日記を書いている。

急募:宇宙人の存在確率

別にドレイク方程式の話ではない。
じゃあ何の話だと思うだろうが、これは僕の夕方のツイートの話だ。

一連の話はスレッド形式でツイートにまとめているのでここでは特にそれ以上のことは書かないが、このことについて実際のところどう考えられているのかが気になっている。
実際もクソも地球外生命体が確認されていないから現時点での事実はないのかもしれないが、僕自身が化学に深い造詣があるわけでもなく、また天体についても同様なため、言ってしまえば素人考えなのだ。まあそれもスレッドの最後に付け加えているが。

個人的にはまあ上記の理由で酸素が宇宙人が来ない理由にはなりそうにないと思っている。
というか、他惑星にまですっ飛んできて生命体を探索するくらいの技術力がある生命体なら別に地球に有毒の酸素が充満していようが関係ない気がするのだがどうだろう?

個人的にはネットで蔓延っている「酸素って言うのは実は猛毒で~」みたいな言説、まあインパクトが大きいから流行っているのだろうがあまり好かない。
この言説はちゃんとその意味を理解して、というか冗談らしく運用するのが正解だと思っているのだが、どうにもこの字面で完結した知識で運用しようとしている人をちらほら見かける。
言葉を使う時にはそこに含まれるイメージをちゃんと認識しなきゃいけない。これは別に国語の話だからとか理科の話だからとか関係なく、我々が言語を用いて感覚的に思考する生物である以上そこに対する配慮は必要不可欠だ。
別に活性酸素の話だとか食品の酸化の話だとかそういう文脈で話す分には猛毒だ、なんて言ってもまあ過言ではないが、日常生活において常に酸素って実は猛毒ででも生物はそれが必要なヤベーやつなんだよwwみたいなことを言っているのは正直過言だと思う。
多分これはその事実がどうかというよりも「猛毒」って単語がよくない気がしてならない。これが「実は酸素って反応性がめちゃ高くて~」みたいな感じだったら多分全員納得するだろう。
「猛毒」という単語は一般的に幅広く用いられ同じ系列として青酸カリだとかテトロドトキシンだとか果てはpHの極端な硫酸や塩酸などにまで使われる。毒であるかどうかは我々人体に影響があるかどうかというものが意味合いとして大切なわけだが、この言説ではその意味合いを曖昧にしている、ということが違和感の根源なのではないかと考えている。

そして何より、こういった文面で完結されると「こいつ随分曖昧なこと言ってるけどちゃんと何故酸素がそうだって言われているのか理解しているのか……?」という気持ちになる。

最近気が付いたのだが、僕はどうも科学に関しては厄介オタクの気質があるように思える。
僕自身別に完璧な訳ではないのに、科学的な話をあやふやに――特にネットで流布しているような偏った言説や注目度に基づいて話されるとどうももやもやした気持ちになる。
特に僕はこじらせているため、アニメを見ても似たような気持になってしまう。アニメの中で何か一つの科学的な現象などからそれを説明しようとしたり、悪の科学者がそれを使って何かしようとする、みたいな描写があるとき、どうしても「お前それ本当にその現象の適切な運用をしているのか??」という気持ちが抑えきれず、一気に集中が途切れてしまうことがある。
自分でこうして文章にしてみるとかなり終わっているとは思うが、正直僕も困っている。一番困るのはこれがいつか自分に返ってくるのではないかということだ。それが一番怖い。

今解決策としては二つあって、一つが僕が変わること。そしてもう一つが僕以外の世界が変わることだ。
恐らく僕が変わることは不可能だ。ええ、不可能ですとも。
という訳で、僕は一人でも多くの人間が正しい科学的知識と思考を身に着けてくれることを切に願っている。じゃないと僕が厄介オタクだということが露呈してしまうので。


それでは。


(追記 2021/12/08)

ちょっと読み返してこれは良くないなと思ったので、日記の理念に反してはいるが追記。
「言葉を使う時にはそこに含まれるイメージをちゃんと認識しなきゃいけない。これは別に国語の話だからとか理科の話だからとか関係なく、我々が言語を用いて感覚的に思考する生物である以上そこに対する配慮は必要不可欠だ。」
という文を書いたのだが、これはどうにも誤解が生まれそうだということで少しだけ補足しておく。

言葉の意味を考え、さらにそこに付随する今現在の社会における言葉の意味の認識、というものは非常に大切だ。これは円滑なコミュニケーションの上で必要不可欠だ。そこには異論は無い。
ただ、言葉そのものと現象そのものに関しては切り離して考えるべきだと思っている。つまり、言葉自体が何らかの因果関係に大きく作用する訳ではなく、ある事物や意識などから生成されたものが言葉であると考えている。
だから例えば、僕は「そういう言葉を言うから○○が起こるんだ」みたいな言説には一つも賛同できない。因果が全くの逆だからだ。

確かに言葉遣いは大事で、それに含まれている意味を考えなければいけないことは上述した通りだ。
だが、この「大事」というものが何にとってか、という話になれば、それは例えば議論を円滑に行う上において互いに同じ語に対して同じ定義を共有しているか、とか○○という言葉には悪い印象が持たれている(印象――というかそこから想起される感情は可逆的なので因果とは関係が無い)から、そういう言葉を使われると良い気分がしないから、もし相手方を慮るのならばそういう言葉を使わない、といったような基本的にはコミュニケーション上における障害の除去にとって大事である、ということだ。
だから、例えば○○という言葉があるせいで××という事象が発生している、だとか、(社会への伝搬に言語というものがその意識の拡散スピードを向上させるということに対しては異論無いが、その上で)△△という言葉を無くせば□□という意識はなくなるといったことを主張する気は全くない。むしろこうした言説は本質的な問題を感情的かつ一時的で表面的な問題で塗りつぶして見えなくしてしまうとさえ考えている。
という訳で上記の二つは全く無関係に扱うことが可能であり、僕はそれらを切り離して扱っている、ということは主張しておきたい。

何故ここまで予防線を張るかといえば、僕は不本意ながらインターネット物申しおじさん(ニコ生でそんな風に呼ばれた)なので、Twitterで万が一炎上したときにこの記事と言っていることが違うねぇニチャニチャと言われるが嫌だからだ。まあそもそも炎上する気も毛頭ないし、さらに言うなら人間の考えなんて一日もあれば180°変わるものである――少なくとも僕はしょっちゅうそう――ため、過去の発言と現在の発言に矛盾が生じていることが何ら問題となるわけではないのだが、そうやってニヤニヤされると腹が立つので予めそれも予防線を張っておく。

人生予防線だらけだ。

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