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#ジオパークで生きる人02 |真っ直ぐな思いと確かな技術があるからこそ、"海士"を繋げる。

#「#ジオパークで生きる人」
「ジオパークの実践者」として主に第一次産業と食に関わる島民を主に取り上げる本特集。彼らが語る言葉にある今の隠岐そして彼らから見るジオパークを実直に、映し出します。

今回お話を伺ったのは中之島・海士町の農事組合法人サンライズうづかの代表、向山剛之(むこやま たかゆき)さん。戦後間もない1947年に海士町で生まれ、そこからずっと島で育ち暮らしてきました。食べ物も十分になかった青年時代から離島ブームの高度成長期そして人口減少・高齢化に悩まされる今。その80年近い人生で見てきた海士町と米作りの変遷。向山さんから、私達は何を学べるでしょうか。

向山剛之さん。

戦後の島前地域で暮らす。
 "ここらへんの風景も随分変わった。今は牛の放牧地帯になっとるけど昔はだんだん畑がいっぱいだったんだ。戦中から戦後にかけて山林を伐採して開墾しよっただわ。俺が子供の頃は養蚕が盛んだったから見渡すと一面に桑畑が広がってた。海士は半農半漁の町だと言われることもあるけど、ここの百姓っていうのはほんとに暮らしが大変だっただけん。みんな勤めながら百姓して、漁しながら百姓して、そうしてようやく生活する程度のお金は稼いでた。百姓だけで食っとる人はほとんどおらんかったと思うよ。”

今は森林になっているところも昔は開拓してだんだん畑が一面に広がっていたといいます。
向山さんにとって山もよく行く遊び場で、草履で駆け回っていたそうです。

 ”島前地域は中ノ島、西ノ島、知夫里島の3つの島に分かれようけど、島が違えば生活も違うんだ。西ノ島は漁師の町で有名だったけん、昔はまき網船団っていう役割が違う船が数隻で漁をする船団があったんだ。網船と火船と運搬船、最低でも3種の船がいるような船団にいっぱい乗組員がいる、それが10団体くらいあったかな。それに個人の船もあわせて浦郷港は船でひしめき合っとったわい。知夫村も今は牛飼いっていうイメージがあるかもしれんけど、昔は百姓がおったんだ。でも昭和58年にすごい災害があって、泥やら石やら流れ込んで田んぼがダメになった。それでもうやめちまって、知夫は農地が少ないから荒れた田んぼは整地して少しは牧草でも作ってるんじゃないか。知夫村は漁師もおったけどやっぱり西ノ島ほど船団持つような大きな漁師はおらんかったな。”

昭和期の海士町、桑畑が広がっている様子です。
向山さんが子供の頃はみんな蚕を家で飼っていて、養蚕業が盛んでした。 
出典:「桑畑 昭和期」海士町史近現代編

 ”あと変わったって言ったら山の中だろうな。昔は島中とにかく黒松ばっかり植林して植えてあったんだ。松って言うのは根をしっかり張るから少々風が吹いてもひっくり返らん。だけど杉や檜っていうのは上の根だけ張るから風が吹いたらひっくり返るんだ。だから家を建てるっていったらみんな自分の山から松を運んで製材所に持っていくんだ。そっから足りないところだけ買って、大工さんや親戚のもんが手伝いに来てそうやって家を建てよったんだ。でも昭和60年くらいからぽつぽつと松くい虫が出てきてあっという間に枯れたよ。神社やお寺にあった何百年の名木はみんなやられた。その時期は冬場に松くい虫でやられた木を山の中で焼却するっていう仕事があった。おじいさんおばあさんみんな結構その仕事に行きよったよ。”

「ここら辺も黒松がいっぱい生えてたんだ」と語る向山さん。

生活するために、なんでもした。
 ”食べるのも十分じゃなかったからほとんどの仕事はしてきた。物価が安いっちゅうのもあるけど日当200円の土方仕事、安いやろ?それでも金がないだけん行くんだ。みんな貧乏しとったからパッチ当てたズボンと草履で山入って学校行きよっただけん。田んぼ入るにも裸足でやっとった。海士の田んぼっていうのは条件がすごい悪かっただわ。大人でも胸元まで浸かるくらいはまるから這うような姿勢で田植えしとるところもあった。昔は機械がなくて牛で引いてやるから時間がかかる。それで春先の早い頃からやるんだけどな、田んぼには氷が張っとった。足は真っ赤だ。それでも百姓は、やるしかないんだ。”

出典:「役牛を使った代掻き風景」海士町史近現代編

 ”でも俺が本腰入れて田んぼをやるまでは幾らか時間はかかった。タクシーや観光バスの運転手をやっとった時もあったんだ。昭和45年くらいから5年間くらいか。その頃は離島ブームで特に夏場は帰省民も観光客もすごかったけど、まだ乗用車が広まってないけん移動手段がタクシーとバスしかないんだ。昼に船がついても晩までタクシー待っとる光景も普通だったし、俺も1日300kmくらい走りよったんだ。そういう時代もあったよ。そっからしばらくして29歳の時か、役所に入って土木関係の仕事を始めた。今は港も埋め立てて前に前に出て来とるけど昔はなかっただけん、ちょっと潮が上がってきたら家が浸ってた。だから公共工事の需要はすごくて仕事は忙しかったな。”

この写真は海士町(中之島)のお隣、西ノ島の浦郷港。人でひしめき合っていますね。
出典:「離島ブームの昭和40年代の浦郷港」海士町史近現代編

島の農地を守るために、始めた。
 ”それまでも田んぼはやっとったけど、個人として本格的にやり始めたのは平成3年だ。役場は土日と祝日に長期休みもついてくるから結構休みがあるんだ。作業場の建物建てて、トラクター・コンバイン…一式全部機械も買って1000万投資した。なんで始めたかってよく聞かれるが、「島の農地を守るために、始めた。」ってのが一番だ。休みの日は朝5時に起きて田植えして、帰るのは晩の5時。平日は仕事終わってから田んぼ行って稲刈り。そだけん休みなんてなかったよ。ずーっとそうやってやってきた。”

宇受賀命神社の昔の様子を移住間もない若い世代に教えている様子。
こうした継承にも力を貸しています。

 ”もう田んぼもやる人がおらんのだ。年寄りだから儲けんでもいい、多少小遣いがありゃいいって人らがここ10数年は田んぼの風景を支えとった。でももういないだら。もう年取ってよう出来んって人がほとんどだ。これから作る人がもっと少なくなっていくだろうな。それでも地域を守るために、次の世代に繋がないといけない。平成12年に営農組合サンライズうづかを立ち上げて、国や県の補助金もあるから何とか儲けはあるけど自分らだけでなかなか儲けは出せない。でも借金ばっかだったら、「あそこは借金ばっかだから行きたくないわ」って若いもんはなるだろ。だから少しでいいから残そうと。何があっても耐えられるような基盤を作って、次の人が来ても大丈夫なような体制を作るために色んなことをしてるんだ。あそこは余裕があるから働いてもいいかなって思う人が出てくるまでは頑張らないかんわな。”

はれ干しの風景。ガードレールに干すのも見慣れた光景です。

 ”百姓を続けるために大事なのは設備投資だ。結局余裕のある人は強いんだ。昭和40年代になって牛で田んぼを耕す代わりに耕運機になっていった。そっから色んな機械が出てきたけど、自分で直接管理と流通させた米で稼いだお金は全部設備投資に回して。どんどん新しい機械をいれたら規模も大きく出来る。それをやっていかないと百姓が日の目を見るのはなかなか難しいんだ。”

稲の種まきは年一回、野菜は季節ごと。
 ”野菜の方が金にならんけど、それでもボランティアだと思ってやってんだ。稲は年に一回種まきゃいいけど野菜はそうもいかんからな。種まいて毎日水やって肥料やって収穫するまでに長けりゃ100日かかる。そうして商品に出しても1袋150円、10袋1500円だ。そんなんわしらの時給払われへんじゃん。昔は家におる人がやってたけどもうそういう働き方じゃなくなってきてる中で、商売としてやろうと思ったら「安く多く作ろう」って話になるんだわな。でもこの島で1回の生産で1000個同じ野菜を作ろうったって到底無理がある。だけどハウス利用してやったら年に3・4回収穫がある。野菜作る人のローテーション組むか、人で年間区切って専門的にやってもらうか、、そんなことを考えながら何とか良い銭になるもんがないかなと思って探しながらやっとるよ。”

 ”「買ったほうが安い」ってみんな言うだわい。でもそれを言いかけたら終わりだ。毎日生育状況を見ながら、虫がおったらつまんで取るくらいの気概でおれば農薬も使わないきれいなもんも出来る。「ああ、これが一つ出来たなあ」「世話をやいたかいがあったなあ」そう思わないと。出来た時の感慨が作り手にしか分からん喜びなんだ。でもそれはやっぱり自分でやってみんと分からんだけん、なあ。”

作業場横にあるスペースで野菜を育てている様子です。
後ろのハウスからも青々とした葉っぱが見えますね。

水と稲、雨と温暖化。
 ”野菜でも米でも作るってなったらどんだけ雨が降るか、も大事なところや。今年なんて特にようやく水が持ったんだ。1週間も稲刈りが後だったら水がなくなってお手上げ万歳の状態やったけどなんとか持った。雨が降るのは一緒だ、でも雨の降り方はだんだんと変わってきとる。多くなくてもしとしとと10日に1回でも降ればいい。でも最近は1ヶ月降らないと思えばスコールみたいな雨が降る。それがいけない。雨がばーっと降ったらその時はいいよ。でもそういう雨は全部海へと流れてしまう。じっくり降った雨って言うのは地面にしっかり染み込んで、そこからため池に行ったり川に流れたりゆっくり動く。でも今はそういう降り方をしない。温暖化は日々感じるよ。”

お米作りに欠かせない水。
離島にしては珍しく湧き水が多くでることも海士町のお米作りを支えてきました。

 ”それでも何とかやれてるのは溜め池がいっぱいあるからだ。それも昔の人が考えて作ったんだ。今の田んぼは排水路があって一つの田んぼにつきそれぞれ水が川に落ちるようになっとる。だから無駄な水は全部川へ海へと流してしまうんだ。それで余計水不足になりやすいんだわな。昔は上の田んぼから下の田んぼへ水が伝わって落ちるような仕組みになっとった。これだと田んぼにハマりやすいから今のやり方になったけど、結局ハマるってことは水持ちがいいってことだからな。両方上手いこと出来ればいいけど、なかなか難しいんだ。”

 ”米の種類でもそうだ。今はとにかく短期間で収量の多く取れる品種っていうのが人気だけど、そうだなしに余計とらんでもいいから少量でも美味しいような、寒くても育つような品種が出てくるかもしらん。連休から5月くらいに田植えするけど下手したら6月・7月に田植えして12月に稲刈りするような品種が出てくることを真剣に考えるくらいのところまできてると思うよ。”

機械が導入されてからも海士の田んぼに合う機械を探すのに苦労したと言います。

変わらぬ百姓根性で。
 ”「他の田んぼは枯れてもいいから自分の田んぼには水引く」って言葉、聞いたことがあるか?昔から「百姓根性、漁師根性」っていってみんな「俺が一番」っていうからな。あの人に負けてたまるかって根性でやっとるから百姓には絶対プライドがあるんだ。田んぼも上のもんが切らんと下の田んぼに水が落ちない。だからいじわるな百姓は分からんように穴開けて上の水抜くんだ。それくらい、根性が汚いって言われるくらい自分の田んぼにかける思いは強い。百姓は難しいんだ。”

 ”俺も自分で作った米は本土の人やら地元でも自分でお客さんに売っとった。個人でやってた時の最高は4.5ヘクタールくらいか。役場で稼いだ給料は家に入れて、百姓で稼いだ金は自分で持って機械に投資して。そうでもしないと生活できないんだ。島で生きるっていうのはそういうことだ。”

おわりに
 
実はこのnoteを始めるにあたって一次産業の特集を組みたいと思ったきっかけが向山さんとの出会いでした。農事組合法人は地域の風景を守るために作られる組織なので儲けが第一、ということではありません。自分が住む場所を守り、引き継ぐために。百姓根性を語る力強い言葉に耳を傾けるインタビューでした。