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それでも地球は回っている。故に全ての寿司は回転寿司である

指導者がよく口にするとされる言葉に「やる気がないなら帰れ」というものがあります。中高の部活動などでコーチが選手に発することが多いかもしれません。生徒がコーチに言っているのは見たことがありません。

こういう言葉が発せられた場合、たとえやる気がなかったとしても、帰るという判断は実際はできないことがほとんどです。中学校時代の部活動で、知人がこのフレーズを本気にとって家に帰ったことがあります。大したものです。彼は後々教師陣から呼び出されて猛烈に叱られていました。やはり言葉とは裏腹に帰ることは許されていないのです。

ではつまるところ、例えば部活動の練習などで発せられた「やる気がないなら帰れ」というのは「練習しろ」とイコールの意味である、ということでしょうか。「練習しろ」をちょっとお洒落に言い換えただけのフレーズなのではないか。

いや、もっと奥深い要素がある、という点に気が付きました。ただ「練習しろ」と言う場合と「やる気がないなら帰れ」という言葉には明確な差があります。
まず、文字数が違います。そして、それ以外にももう一つ、明確な差が存在しています。

暴力も辞さずに強制的に「練習しろ」と言って脅しつける場合、本人が嫌々練習をやっても自発的に練習しても指導者は満足します。「練習する」という行為が重要なのであり、それ以外はどうでもいいのです。
一方、「やる気がないなら帰れ」というのは、ただの「練習しろ」より実は要求が大きくなっています。ただ「練習する」という行為を要求するのに留まらず、その行為を「自らの意思で進んでやりなさい」という動機への要求も入っているのです。

相手の行為の動機までを既定したい、という欲求はどこから生じるのでしょうか。それは、ある種の責任逃れ的な思考からくると推察できるのです。

練習が辛く苦しいと感じられた時、生徒はどういう感情になるでしょうか。指導者が「練習しろ」と脅しつけていた場合、生徒の方は「この苦しみは指導者に責任がある」と感じることができます。自分は指導者に苦しめられていると錯覚できる。
それに対して、「練習は全て生徒本人の意思でしたこと」という建前がある場合、生徒は、うまくいなかないのも何もかも自分の責任であると結論付けなければなりません。全ては自分で選んだ道なのだから。
指導者が生徒の苦しみの責任を負おうとするか否かに、発言の違いがあるのだと言えそうです。

友人と一緒に遊んでいて、昼食でも食べようかとレストランを探している時、友人が行きたい場所を決定してくれる気分的に楽な時があります。友人が「今日は寿司しか喉を通らない!」と突然大声で叫びだし、有無を言わさず私を回転寿司に連れていきます。
友人に選択の自由があって、私はそれに強制されているわけです。だというのに私の方が気楽になる。これは、なにか責任がなくなったような気がする、というのが大きいのでしょう。
もしも、寿司があまりにまずかったりしたら、それはその店を選んだ友人に責任があるような気分になります。

私が店を選んだとして、そのチョイスが失敗だった場合、友人が「お前が選んだ回転寿司、寿司が回っていないじゃないか!」と文句を言ってくる可能性があります。地球が自転している以上、全ての寿司は回転寿司なのだから、実際のところこれはただの言いがかりです。ですが、なんとなく正当性があるように感じられる。

自由な選択というのは責任から逃れられなくなる、かくも辛いものなのです。