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ごめんなさいで終わらないように、大切な人の死を考える。

桜が咲くと思い出す。
祖母が亡くなった春のことを。

祖母とは呼びたくない。
ずっと「おばあちゃん」と呼んできたから。

葬式の日は桜が満開だった。4月のとてもよく晴れた日に、淡く澄んだ青の中に桜が咲き誇っていた。白と薄紅色が混ざった花びらが風に揺れ、何枚も、何十枚も僕たち家族の前を通り過ぎていった。

大切な家族が亡くなったとは思えないくらい、清々しく明るい日だった。

おばあちゃんが旅立つ直前。桜の柄をした手紙を棺の中に入れた。

「ありがとう。ごめんね。」
手紙でしか気持ちを伝えられなかった。話す機会は何度でも作れたはずなのに。たくさんの言い訳をつくって後回しにして、その時間を僕は自分から削ってしまった。


子どもの頃からずっと一緒に暮らしていた。二世帯住宅で住むスペースが少し分かれていたけれど、毎日顔は見たし、食事だってよく一緒に食べていた。おじいちゃんはずっと前に亡くなっていたから、それから余計一緒に過ごす時間が多くなった。

僕が大学生の頃から、おばあちゃんは少しずつボケていった。
物忘れは日常茶飯事。「やあねぇ」なんて言いながら初めは笑ってごまかしていた。

しかし、少しずつボケは本格的になっていく。テレビと現実が混ざってしまうこともあった。テレビの中のSMAPを見て「お腹が空いていると思って」と、出前寿司を5人前頼んだことがあった。断ることもできず、家族全員でたいらげた。

明らかに必要のない通販や訪問販売を買ってしまうこともあった。クーリングオフも経験した。訪問販売は一度目を付けられると大変だ。詐欺まがいのことは何度もあって、その度にキャンセルをしていた。

でも、まだそこまではなんとか笑い話だった。

笑い話にできなくなったのは、徘徊がきっかけだった。
ある日の早朝。まだ誰も起きていない時間に家のチャイムが鳴った。突然の訪問に慌てて父が出ると、門の前には制服を来た男性が立っていた。

「お宅のおばあちゃんが財布を取りに家に入ったまま車に戻らなくて」
どうやらタクシーの運転手のようだった。

訳が分からず話を聞くと、おばあちゃんを上野から乗せてきたという。家から上野まで、成人でも徒歩30分以上はかかる。80歳を超えたおばあちゃんが、いつ、どうやってそこまで行ったのか、誰も知らないし分からない。少なくとも家族がみんな寝てから。つまり深夜に家を出ていったことになる。

ゾッとした。
今回は帰ってこれたが、次に何が起こるか分からない。おばあちゃんに聞いても真相は分からなかった。そして本人も何が起きているのかまるで分かっていなかった。知らないうちにいなくなってしまうかもしれなかった。

僕が社会人になった頃。デイサービスの回数が少しずつ増えていった。徘徊の一件があってから寝るときはもちろん、日中でも家族が定期的に確認するようになった。寝室には鍵がついた。

家族の負担が少しずつ増えていった。立てないわけじゃない。歩けないわけじゃない。しかし気を付けて見ていないといけない。どこかへ消えてしまわないように。

両親はしんどかったはずだ。介護をすることも、母親が衰えていくのを見ることも。しかし、それを僕には全く見せなかった。

やがて、おばあちゃんは介護施設で暮らすことになっていた。僕が聞いた時にはすでに決まっていた。気付けば、おばあちゃんが同じ家から居なくなっていた。

これまで何度も両親はおばあちゃんの今後の人生について話し合っていたのだろう。しかし、そこに僕の存在はなかった。自然と決まっていくものだと勝手に思っていた。

都合の良い場所が見つからなかったようで、介護施設は車で1時間弱の場所だった。施設は入ったが、ボケていても身体は健康。むしろ24時間専門家にケアしてもらえるようになったことで、見た目には髪も増え元気になっていた。

「お遊戯とか工作とか上手いみたいなんだよ」
定期的に紙おむつや洋服を届けていた父が、照れながらも嬉しそうに話してくれたことがある。おばあちゃんは昔から手先が器用だった。少しずつ変わっていってしまう自分の母親の姿に哀しさを覚えながらも、変わらない部分を見つけられて嬉しかったのだろう。

父は月に数回、車で施設に向かった。自分の母親に会いに行くために。会って短い時間でも目を見て話すために。
僕はといえば、実家を離れたこともあり、年に3〜4回ほど施設に行くくらいだった。

施設に入ってから体調は良いものの、やはり老化は進んでいく。少しずつできることが減っていった。会話をし、笑いながら頷くものの、言葉を発することは少なくなっていった。

ある時から僕の名前もきっと分かっていなかった。名前を言っても笑って頷くだけ。話しかけても聞こえているか分からない。写真を見せても見えているか分からない。見えていても、それが自分の孫だとわかっていないかもしれなかった。

しかしあまり悲しさは無かった。もう仕方がない。自然に諦める癖がついてしまっていた。
自分はそれでよかった。実の息子である父のことさえ認識していて欲しい思っていた。

僕が施設に行くと、父は度々「また一緒に行こう」と言った。祖母に家族の顔を見せたかったのだと思う。

「また行こう」という気持ちをずっと持っていた。しかし、なかなか自分から言い出せなかった。他のことを優先して、「また行こう」は「また行かなきゃ」に変わっていった。

施設に入って数年が経った春。
僕は職場異動で本社勤務になった。それまでのシフト勤務から土日休みへ働き方が変わった。父との予定も合わせやすくなり、これからは施設にも行きやすくなる。今まで以上におばあちゃんに会いに行ける。

そう思っていた矢先だった。

本社への出勤4日目が終わり、初めての華金へ向けてあと1日。
もう寝ようかと思っていた時だった。

午前1時45分。父からL I N Eでメッセージが届いた。こんな時間に父が起きているなんて珍しいと思ったけれど。メッセージを見て上手く返事が見つからなかった。

おばあちゃんが急逝した。

次の日、仕事を休み実家に戻ってから経緯を聞いた。急に体調が悪化し病院へ運ばれた。一度は回復したようで僕以外の実家に住む家族は病院へ集まったが、回復を伝えられ家に戻ったという。しかし、それからまた悪化し、父と母、それから連絡を受けたおばさんに見守られながら、亡くなったという。

全てが終わってから知ったのは、家族の中で僕だけだった。
何も知らないまま、何もできないまま。知った時には、もう終わってしまっていた。
早く知りたかったとか、教えて欲しかったとか、そういうわけではないけれど、何もできずに終わってしまったことが悲しい。悔しい。辛かった。


これまで父は変わっていく祖母のことをたくさん考えただろう。そして、祖母の今後の人生についてたくさん話し合っただろう。
信じたいことも、信じたくないこともたくさんあっただろう。嬉しいことよりも、辛く、悲しく、虚しいことも多く巡り合ってきただろう。

弱っていく祖母の姿を見つめながら、いつか訪れてしまう母の死についてどれだけ考えたのだろうか。母親の死を考えるとは、どんな気持ちだっただろう。空想でなく現実に起こりうるものとして、死と向き合うことは。

大切な親の最期なんて本当は考えたくもない。死、別れを考えて嬉しいことなんてあるはずがない。しかし、大切な人だからこそ最期に後悔をしないように、その悲しみに向き合っておくべきなのだろう。

僕は、おばあちゃんの最期をずっと避けてしまっていた。ゆっくりでもいつまでも生きていると勘違いをしていた。だから、ずっと会いに行かなかったのだ。きっと、まだ大丈夫だろうと命の期限を勝手に決めつけていた。


葬式の前日。自然と手紙を書いていた。
家族のいない一人暮らしの小さな部屋で、静かにボールペンを握った。自然とおばあちゃんとの思い出や感謝を綴っていた。

習字を教えてくれてありがとう。
月下美人が咲いた姿を見せてくれてありがとう。
家で一人の時に声をかけてくれてありがとう。

記憶が自然と溢れていた。
そして思う。もっと早く伝えておけばよかった。

反抗しちゃってごめんなさい。
ちゃんと伝えられなくてごめんなさい。
会いに行けなくてごめんなさい。

「ありがとう」と同じくらい今までの「ごめんなさい」が重なっていく。後悔ばかりだった。情けなかった。悔しかった。申し訳なかった。

手紙で伝えることが、せめてもの気持ちだった。
涙が止まらなかった。一人部屋で嗚咽を漏らしながら、せめて手紙の最後を「ありがとう」で終わらせたくて。

次の日、手紙をそっと棺の中に入れ、その上にたくさんの花を詰めた。花が好きなおばあちゃんだった。

最後まで泣かないつもりだった。最後くらい笑顔で見送ろうと思った。
でも、ダメだった。涙が止まらなかった。本当は笑ってさよならを伝えたかった。

父を見ると、じっと前を見つめていた。家族の先頭に立って、下を見ることなく母親の旅立ちを見送っていた。とても立派だった。
家族へ悲しい姿を見せず、しっかりと立っている父の姿をいつまで見ていられるだろうか。

いつか両親は死ぬ。

おばあちゃんの死に後悔を残してから、今まで避けていた両親の死を見つめるようになった。自分はどんな気持ちでその瞬間を迎えるだろう。

「ありがとう」と言えるだろうか。
それとも「ごめんなさい」か、また違う言葉になるのか。

人の死を今まで考えたことも、家族と話したことはなかった。
「人生会議」という言葉を聞いた時、会議は一人ではできないと思った。一人で決めるのではなく、誰かと話し合うから会議だ。一人で抱えず誰かと話して良い。

両親と最期について話してみよう。自分の両親をすでに亡くしている父は何を考えるのだろう。それを母はどう思うのだろう。そして、自分は何を考えるだろう。

2020年は人の死が身近になってしまった。明日いきなり死が訪れる可能性だってある。寿命ではなくウィルスによって。突然の別れが来た時、何もできる自信がない。今までにない後悔を抱えてしまうだろう。

少しでも後悔をなくすために、死と向かい合う。後悔をなくすためというのは間違いかもしれない。生きているうちの感謝をできる限り伝えられるように。

理想の死に方なんて、人によって違うだろう。自分の大事な人にとって、生きる上で大切なことはなんだろう。両親の死を考え、二人の生き方を考えることは、同時に自分自身の死に方と生き方に向き合うことになる。

自分にとって生きることとは。
大袈裟だけれど一度向き合わないといけない。それが、おばあちゃんが最後に教えてくれたことなのかもしれない。

家族それぞれの死について話し合い、生を捉える。
両親だけでなく兄弟とも。そして、大事な相手とも。

人生会議なんて考えたこともなかった。
大切な人と、お互いの生き方と死に方に向き合う時間を作らないといけない。

後悔せず、ありがとうで終われるように。

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