10年前の震災を僕を知らなかった 【前】
2011年3月11日。
東日本大震災が起きた日、僕は日本に居なかった。
大学生として最後の1か月。初めて海外へ一人旅をしている最中だった。
場所はニューヨーク。
学生最後の貧乏旅行。安い宿に泊まっていた。
6畳ほどの空間に、なぜか便器とベッドだけが置かれた部屋だった。
まるで刑務所。まだ寒さの残る3月だというのにヒーターは壊れ、薄い毎晩薄いシーツとコートを被りながら寝ていた。
部屋にはテレビもなかった。
情報をえられるのは、当時買ったばかりのスマホだけ。
慣れないポケットWi-Fiを使いながら、mixiを見て友達の卒業旅行の様子を眺めていた。
3月7日に飛び立ち、ようやく一人での海外に慣れてきた頃。
震災が起こったのは帰国予定の3日前だった。
mixiを見ていると画面上に「地震」という単語がたくさん出てきた。
なぜ地震でそんなに騒いでいるのだろう。
日本におらず、テレビも無い。情報の少ない僕にとっては、それが正直な思いだった。
次の日の朝ネットを繋ぐと、日本のニュースサイトには地震に関する話題しかなかった。僕はやっと、大変なことが起きたのだと知った。
「東北で大きな地震がありました。東京はなんとか。お父さんは歩いて帰ってきました。とりあえず家族は大丈夫」
当時はLINEもない。僕も常にWi-Fiを繋げているわけではない。
東京とニューヨークの距離を長い時間かけて渡ってきた母からのメールは、ほんの少しの安心感と多くの心配を僕に届けてきた。
その日から、街のあちこちで声をかけられた。
" (君の家族は大丈夫なのか) "
現地の人たちは、僕が日本人だと分かるととても心配してくれた。
お土産屋のおじちゃん。
レストランのおじちゃん。
チケット売場のおじちゃん。
考えてみたらおじちゃんばかりだ。
日本語も交えながら眉を潜めながら声をかけてれた。
その反応が、海外に伝わるほどの地震だったと教えてくれた。
しかしまだこの時の僕の認識は「地震」だった。
" OKOK!! Don't worry. "
そんな返事をしながら、学生最後の時間を過ごす。
ニューヨーク最後の夜は、エンパイアステートビルへ登った。
ニューヨークの街の灯りが眼下に広がる。足元こそ明るいが、遠くを見つめると暗い闇が続いていた。もしかしたら東京の方が明るいんじゃないか、そう思った。日本で停電が起こっていることはネットで知っていた。
旅行最後のイベントだというのに、なぜか心の底から感動できなかったことを覚えている。
最終日。空港へ向かう。
スラムを通過するバスの中で平気で寝るくらいニューヨーク慣れしていた。
前日までは欠航便がいくつかあったが、その日から運よく運転が再開されたていた。
チェックインを済ませ、残りの資金をどう使ってやろうか考えながら搭乗ゲートへ向かう。紙幣はほとんど使い切っていた。
腹ごしらえか、お土産を買うか。残りわずかの資金を確認しようと、ベンチへ座ったとき、頭上にモニターが置かれていた。
ニューヨークに来て初めてテレビの画面を見た。
そこには、東北の街を破壊する津波の映像が流れていた。
英語も分からない。初めは何かの映画かと思った。しかし、ずっと見ていると画面上に" TSUNAMI "の文字が何度も出てくる。そして、見たことのある国の風景も。
僕の中で地震が「震災」へと変わった。
大変なことが起きた。やっとスマホの画面の中でみんなが騒いでいる理由が分かった。
搭乗まで空港のあちこちを周ろうと思っていた。
だけど、ずっと画面を見ていた。
2ドルほど残っていた旅の資金は、ニューヨークタイムズに変わった。
新聞の一面は、自分の国の、これから帰る国の、東北の荒れ果てた地で膝を抱え泣きながら遠くを見る女の子の写真だった。
帰りの飛行機。
機体中央、5列シートのひと席だった。
しかし、その列には僕しかいなかった。
飛行機はほとんど空席。半分も乗っていなかった。
乗客の中にアメリカ人らしき人は少ない。
原発や放射線を理由に来日を避けているのだと後から知った。
誰もいない5列シート。
モニターのない飛行機で映画も見れない。
空いている5つの席を使って、完全に横になった。
室内に轟くエンジンの音。
おしゃべりをする人もいない。
ゴー ゴー ゴー ゴー
ゴー ゴー ゴー ゴー ゴー ゴー ゴー ゴー
ずっとずっと、エンジン音と翼が雲を切る音が人の少ない薄暗い室内に響いていた。
曖昧な眠りの中、キャビンアテンダントが通路を歩く音が聞こえて体を起こす。食事の時間だ。
ビーフもチキンも聞かれることなく、食事を二つ渡された。
アテンダントの外人女性は、目が合うと「サービスだぞ」と言わんばかりの笑みをくれた。
そんなに食べれないけど。
食事も余って当然。残すのも申し訳なくて、1時間近い時間をかけて食べ切った。
何度も飲み物を聞いてくれて、調子に乗ってビールを飲んだ。
気持ち悪くなり、また横になった。
気付けば眠りに落ち、真っ暗な騒音とともに、僕は日本へと向かった。
夜の11時。羽田空港に着いた。
両親にあらかじめ連絡をしていたので、浜松町まで車で迎えに来てくれた。
たった1週間の旅行だったのに、それ以上に久々に家族に会った気がした。
車に乗り、実家へ帰る。
東京は暗かった。
サラリーマンが酒に溺れ、騒いでいてもいい時間なのに。
街はとても静かだった。
次の日、母が録画していた震災直後のニュースを見た。
当時の混乱を初めて感じる。
同じ国で起こっていることだなんて思えなかった。
僕の住む街は計画停電の対象外だった。しかしスーパーからは物が減り、毎日の食事も今までとは変わっていた。
残りわずかだったアルバイトは、店も入っていた駅ビルも営業が不安定になり、ほとんどシフトが無くなった。
大学の卒業式も無くなった。
友達との別れの挨拶も大してできないまま、僕は社会人になった。
東日本大震災の1日を僕は経験していない。
そのことに少し後ろめたさや後悔のようなものを抱えながら、過ごしてきた。
あの揺れを避けられて運が良かったというのも違う。
経験できなくて歯痒いというのも違う。
みんなとは違う形で震災後の生活を過ごすことに、申し訳なさのような気持ちを抱えながら生きてきた。
それを変えたかった。
震災から5年後の2016年3月11日、僕は仙台へボランティアをしていた。
(ボランティアの様子を次回書きます。冒頭の写真はその時に撮影したもののです)
いただいたサポートは取材や今後の作品のために使いたいと思います。あと、フラペチーノが飲みたいです。