決断には悩むことに費やした労力だけの信頼が生まれる

#大切にしている教え

「大切にしている教え」としてこのような話をするのは場違いで、ともすれば馬鹿げていることでしょう。しかし何度考え直してみてもそれは私が大切にしている教えであり、私をこれまで何度も救ってきた考え方なのでした。それこそ、誰かに馬鹿にされたとしても胸を張っていられるくらいには揺るぎない重みを持つ、私の価値観の要なのでした。……しかし、この重みを伝えるにはどうしても私の半生について語らなければなりません。つまらない話となることでしょうが、よければ読んでいってください。

典型的な「ガリ勉眼鏡くん」だった小学生の頃の私が中高一貫の進学校への受験に臨んだのは、今思い返しても自然なことです。高校受験がないことでノンストップで勉強を続けられるその学校は、元々科学教育に力を入れていたのもあって、当時の私を、そして今の私をも惹き付けます。楽しく勉強を頑張っていればいつの日か……という、風船のように心を膨らませる期待。その風船に針が刺されたのは中学1年生の冬でした。

中学1年生の冬に発症した病が「特定疾患」というなんとも立派な肩書を持つものだと判明したのは、中学3年生の冬のこと。その間に私からは「ガリ勉眼鏡くん」という肩書が消え、その代わりに「不登校生徒」という肩書が与えられていました。不登校になるのも無理はありませんでした。頻発する発作の痛みは全身を針で刺されるかのようで、日常生活も送れないほど。学校側が対応するにしてもどうしても無理があるものでした。

私の心が割れずに済んだのは、幼いがゆえに期待を捨て切れなかったためでしょう。不登校とはいえ成績は平均を軽く超えていました。生物のテストではクラストップでした。あの英語の先生だって、クラスの平均点を上げるのに寄与していると褒めてくれました。きっといつか状況はよくなるでしょう。そこからが私の人生です。……しぼんだ風船に僅かに残っていたその期待を完全に抜いたのは、中学3年生の冬にした三者面談でした。

三者どころではないかもしれません。その場には、私と両親、学級担任の先生と学年主任の先生、保健の先生までいました。狭い面談室で大人達は自身の役目を果たします。それぞれの立場で、私へ現実を突き付けるという役目です。最大限の配慮とともに告げられる苦言は、まるであやされているかのようで、私は自身の幼さに吐き気を催しました。私は過去の私の期待を裏切り、通信制高校への進学を決断しました。悩む暇などありませんでした。すべては大人になるためでした。

通信制高校での生活は心をすり減らすものでした。通信制と言いつつ登校しなければならない日はあって、最大限の配慮はされても発作は起きるもので。ある日の登校中、私は普段より酷い発作に襲われて地面に倒れました。自分のペースでゆっくりと登校できるその道に、人目はありません。意識を失うのではないかという痛みの中で、私の心はついに割れました。

望んでいたものとはかけ離れた高校生活。決して非現実的な高望みをしていたわけではないでしょう。私はただ静かに勉強をしていたかっただけ。学生としての本分を全うしたかっただけ。大人達に望まれるような、私が望むような、ガリ勉眼鏡くんとして生きたかっただけ。だというのに大人達は私に、将来を悩む余裕さえも与えてくれませんでした。悩む余地なんてものはないと大人達は判断したのかもしれませんが、こうも一方的に押し付けられては恨むことしかできません。

本来であればちょうど高校2年生という多感な時期。私は独りで物思いに耽っていました。私の人生に意味はあるのか。私の半生はどのようなものだったか。私が反省すべき点はあるのか。今の私が過去に戻れたら何をすべきか。過去の私と今の私の相違点はどこか。……私は、私という存在を時間軸を基準に切り刻み、それぞれを評価しました。そのように悩むことで、私はひとつの教訓を得ました。悩むことに意味がある、というものです。

問題の答えを探すために悩むというのが本来の悩みのあり方ではありますが、答えが求められない問題というのも世の中には存在します。人生の岐路に立たされたとき、どちらの道がよりよいものかなんてこと、実際に歩んでみないことにはわかりません。

悩むという行為は一種の作業であり、悩んだ末の決断には、それだけの労力が込められています。悩んだ末の決断とは、悩むことに費やした労力の証明であるのです。それゆえ、「あれだけ悩んで決めた道だから」というような信頼が生まれます。

私の半生にはこれが足りていませんでした。悩むだけの余裕が十分に与えられないまま重要な決断を迫られ、一方的に結果を押し付けられ、それを受け入れざるを得ない状況に置かれ、私はその結果の大部分を他人のせいにしました。

過去の私を今の私と切り離して見たことによって、私は、過去の私が決断に際し悩むことに費やした労力を把握できました。そしてその労力が信頼に足るものかどうか、今の私が悩むことで決断が揺らぐことがあるか、把握できました。結局のところ、答えが求められない問題に対しては、最も信頼できるものが答えの最有力候補として君臨するのです。

決断には悩むことに費やした労力だけの信頼が生まれる。それゆえ後の自分が信頼できる決断をするには、今の自分が心の底から悩むことで、それ相応の労力を費やさなければならない。もしかするとこれは、一種のProof of Workシステムと言えるかもしれません。

今年度で私は高校を卒業します。時間はかかりましたが、これに関してはどうしようもありませんでした。これからの身の振り方について、存分に悩むことにします。未来の私が悩まないように、今の私が目一杯悩んでおくのです。

これが私の、大切にしている教えです。他人から受け取った助言などではないため、きっと場違いなものでしょう。馬鹿げていると思われるかもしれません。しかし何度考え直してみても、これは私が大切にしている過去の私からの教えであり、私をこれまで何度も救ってきた考え方で、そしてこれから何度も救っていくだろう考え方なのです。

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