馬鹿にされないような文章を書きたい

はじめに。高度情報社会について

「現代の高度な情報社会が実現したインターネットという空間においては誰もが発信者である」と言われることがある。これは別に否定されるほどの嘘ではないと私は思うが、ここで「発信」とされているものが具体的にどういったものなのかについては注意を払う必要があると考える。

「インターネットでの発信」というものにある最たる特徴はきっと、高い匿名性があることだろう。発信者の素性が知れないというのは冷静になってみると不気味にも感じるが、その強力さについてはいくら冷静になろうが疑いようがない。「どこかにこういう面白いことをしている人がいるんだ」とか「どこかにこういう悩みを抱える人がいるんだ」とか、その人がどこの誰かがわからないからこその魅力というものもあるのだ。

ではその匿名性は何によってもたらされているのだろうか。インターネットだから匿名、という簡単な図式では表せないだろう。これに関しては多くの要素があるだろうが、その中の一つとして「テキストベースのコミュニケーション」があると私は思う。自身が話している様子を映像として保存し公開する、「顔出し」を全員がしているわけではない。そもそもそのようなことは、スマホの普及と大容量なデータを気軽に送受信できる通信環境が実現してからできるようになった芸当だ。ではそれまではどうしてきたのか。当初の「テキストベースのコミュニケーション」とは、それ以外に選択肢がなかったために仕方なく生まれたものだと私は考える。そしてある程度の匿名性を伴ったそれが他の要素などとも合わさって、インターネットという空間に、高い匿名性をベースとしたコミュニケーションの様式が形作られたのだろうと。

だから、「インターネットでの発信」をうまく行うには、テキストベースでのコミュニケーションをうまく行える必要がある。ここで言う「うまい発信」とは、何もバズるとか炎上を回避するとかいう大仰なものではない。ただただ、テキストベースなコミュニケーションによってできた友達をその下手さで失うことがないようにする、というものだ。これはたしかに「バズるための文章の書き方」とか「炎上を回避するための文章の書き方」とかとある程度の類似点はある。しかし精神的なものに大きな違いがあるため、混同してはいけない。……とはいえ精神的ではないもの、外見的なうわべの部分に関しては類似点は少なくないから、この記事でもそれらを意識した書き方をすることにする。

読みにくい文章について

読みにくい文章というものがある。「なんとも言えないが読みにくい」。「なんとか言う前にブラウザバックして他の文章を読み始める。その方が読み手である自分も書き手である誰かもしあわせだから」。そういう文章が、この世の中にはたしかにある。そして、その文章への感想がただ読みにくいというだけのものに留まればいいが、そうではない場面もある。読みにくい文章から不快感を覚える場面、書き手の知性の低さを感じる場面、誤解してしまうことでまた別の感情が沸き立ってしまう場面……。そのような場面はないに越したことはない。

ではどうすれば読みやすい文章を書けるのか。不快感を与えず誤解も与えない文章を、読まれることで書き手である自身の名誉を下げないような文章を、どうすれば書けるのか。私はいくつかの「読みにくいとされる文章」を実際に読み、その特徴をまとめ、言葉に表せるまでに深く考えた。前述した「なんとか言う」を実践してみたのだ。そうして得たいくつかの知見をここに簡単にまとめる。これは書き手である誰かの「しあわせ」を邪魔したいという思惑での行動では決してない。私という書き手でもある存在のしあわせが邪魔されるような場面がないよう、友達を失うようなことがないよう、きちんと理解しておくために行うものだ。

適切に使われた約物によって「読める」文章

文中で使われる記号類のことは約物と呼ばれる。句読点や括弧を含むが、これらに限らない。これらを適切に使うことは文章の見栄えに大きな影響を与える。また構文を把握する上でも適切に使われた約物は役立つ。

読点が、過剰に、使われている、文章は、読んでいて、息苦しくなる。

句点に関しては読点と状況が違っていて、使うべきところで使われないことが多いかもしれない こうして全角空白で代替している場面もあるがそうでない場面もある 毎回使うのが鬱陶しいという気持ちはわからなくもないが、せめて文同士の区切りとしては使うべきだろう

そしてとても気になるのがこういう書き方(?だ。閉じ括弧の省略は見た目という段階ですでに違和感を与える。

人によっては感嘆符や疑問符などに全角空白を後置しない書き方に違和感を覚えるかもしれない…。しかし流石にそれは細かすぎると思わなくもないがどうだろう?あと、三点リーダやダッシュ—水平線では決してない—を倍角にしないことにも違和感を覚える人がいるかもしれない…。これらの記号をコンピュータで扱うときは、2つ連続させることが多いのだ。

正しく使われている言葉によって「意味が通った」文章

約物が文章の「見た目」に影響を与えるものなら、言葉の意味を間違うことなく使うことは文章の「意味」に影響を与えるものだろう。漢字の誤変換程度であれば許容される場面もあるが、意味を間違って使ってしまうと問題となり得る。「普段から読み書きを行う生活を長く送っていればそのようなことはそうそうない」と思われるかもしれないが、実際にはそう簡単な話ではないだろう。「意味の理解は完璧ではないが使い方であればなんとなく理解している言葉」というものは、私以外の人にもきっと少なからずあると思う。そしてそういう言葉は大抵、意味を間違って理解してしまっているものだ。特に、言い回しに関する言葉はその傾向が強いと感じる。

よく間違われるが、「すべからく」という言葉は「すべて」という言葉と等価でない。この言葉は下に「○○すべし」を伴う形で、「当然のこととして」という意味を持たせるときに使う。わざわざ「すべて」ではなくこの言葉を使おうと思う者は、すべからくその意味を理解すべきだ。もっとも、この勘違いはまったく理解できない類のものではないが。

「もっとも、○○とは××だが」というような前言を肯定しつつ注釈を加えるこの言い回しの「もっとも」は、「尤も」であり「最も」ではない。「ごもっとも」が「ご最も」ではないように。

「甲、もとい乙」という言い回しでは、甲については否定され、なかったことになっている。これを「甲、ひいては乙」というように使っている場面が、よりにもよって文章の書き方について解説した記事にあって、私は頭を抱えた。アマチュアによる記事とはいえ、このようなわかりやすい誤用は見るに堪えなかった。

甲とは乙であると私は考える。○○だったり××なもの。それが乙、もとい甲であると。

……上に示した例には他にも問題点がある。複数の事柄を並列させる「——たり」という言葉は、その複数の事柄すべてに付けるべきだ。「○○だったり××だったりするもの」としなければならないということだ。実はこの例は、説明用にわざと問題点を含ませたものではない。件の、文章の書き方について解説した記事でそう使われてしまっていたのだ。

適切に重み付けされた情報によって「理解しやすい」文章

文章の見た目と意味をしっかりさせた上で考えるべきは、文脈の整理だろう。引用箇所についてはしっかりと約物を使って文脈を分離させるなどの基本的なものから、読み手の関心のコントロールのために重要度を調整するといったものもある。

「本を書いてみないか」という依頼が来た。とはいえ、記事を書いたことはあっても、本を書いたことはない。もちろん不安はあったが、彼が背中を押してくれた。だから僕はその依頼を受けることにした。

この文章には、「とはいえ」という言葉を使った表現に違和感がある。この言葉は、あるものとそれとは別のものを理由を添えて繋げるものだ。「子供とはいえもう中学生になるのだから、そう過保護になるものでもない」という文章では、「保護の対象である子供である」という事実を、「もう中学生になる」という理由で、「過保護になる対象ではない」という意見に繋げている。これに照らしたとき、「とはいえ」が機能するだけの項がないことがその文章の問題だとわかる。少しばかり項が省略されること自体には問題はないが、ここでは問題があるほどに省略されてしまっている。

前者の項——依頼が来たことに対してどう感じたのか、についての描写がない。それゆえ、「とはいえ」という言葉が唐突なものに感じられてしまう。「これはとてもうれしいものだった」というような、なんらかのプラスの描写がくるべき場所だろう。

後者の項——本を書いたことがないことからどう感じたのか、についての描写に独立性が足りていない。「不安があった」というマイナスの描写に、より重みを持たせる必要があると思われる。今の書き方では、「不安があった」という描写は「彼が背中を押してくれたから、その不安が取り除かれた」という描写の餌であり、そちらに食われてしまっている。

「本を書いてみないか」という依頼が来た。記事とはいえ文章を書くことを生業としてきた僕にとって、このような依頼を頂けることはとても嬉しく、名誉あるものだった。しかしそうは言っても、記事であればたくさん書いたことがある僕だったが本を書いたことは一度もない。当然だが不安があった。僕なんかにそのようなことを成し遂げられるだろうか……。そんなとき、彼が僕の背中を押してくれた。だから僕はその依頼を受けることにした。

段階を踏んで話を進めることにより、読者にとってより読み進めやすい文章になったように感じる。文章の量こそ増えるが、これはもとより必要なもので削ってはいけないものだろう。

おわりに

適切に使われた約物によって「読める」文章、正しく使われている言葉によって「意味が通った」文章、適切に重み付けされた情報によって「理解しやすい」文章……。一般にどの程度の品質が求められるのかについてはわからないが、これら3つの段階に着目して文章を書くことで、ある程度の品質が得られるのではないかと考えている。

願わくは、私の文章力のなさによって誰かを不快にさせるようなことがないことを。


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