「身体性のある未来」について考えてみた、という話
2月中に「〇〇せずに未来の兆しを示せ」というお題をいただきました。(〇〇はまた後日気が向いたら書こうと思います)
「夢は具体的に!」「明確なビジョンを!」とかよく言われますが、ついつい頭でっかちに、何か糸口はないかとIPPONグランプリの動画を見て、結局けらけら笑うだけになってしまいます。
企画者の方とお話している際に、ふと出て来たのは「身体性」という言葉。
アナログよりもデジタル。対面よりもオンライン。電話よりもチャット。
本とYouTubeがあれば十分満足な性格ですが、コロナで友達と交流できない学生や、好きなところに行けずテンションが下がっている知人のことを見ていると、やっぱりそれだけでは成り立たないですよねえ、と改めて。
ウィズコロナになって、いつの間にか1年経っちゃいましたが、身体性のある学びや交流や鍛錬など、すっぽり抜けてたように思います。
有り体にいうと、身体も直観も鈍っているでしょう。
その状態で、改めて自分がイメージする未来、そして肌で感じる兆しを形にするとなると、おそらくピントがずれてしまう…
自分の身体なのに、身体性を忘れてしまっている…
え、どうすんのこれ?
というわけで、「身体性」がきっとこれからの社会にもコミュニティーにも、自分自身にも必要になるはずだと思い、2週間くらいじっくり考えてみたいテーマとして「身体性のある未来」を設定しました。
「世界はこう変わる」という未来予測とはまた違う感じになるとは思いますが、概ね10年後(その時には40歳超えてる!)くらいのイメージで、働き方や暮らし方がどんな方向に向かおうとしているのか、しっぽだけでも掴めるといいなあと。
そうはいっても、「豊かさ」など普遍的な価値観は外せないと思うので、そちらも踏まえた上で。
「豊かさの基準」については、最近自分の中でしっくり来ている表現があって、「何に価値を求めるかを自分で決めることができる/選択することができる」というものです。
もしかすると、数年前から「現状満足階級が増えている」ということが言われ始めていることも、ある意味では当てはまるのかもしれません。
飽和した川が別の支流を生むように、飽和した豊かさはどこに向かうのか。
格差は完全に無くならないとしても、きちんと困っている人のもとにも届くのか。
その時、受け止められる仕組みや土台は整っているのか。
居場所や出番は確保されているか。
慣習や既存のルール・他人の批判を理由に初めの一歩を諦める人がいないか。
自分の住む町に「ずっと住み続けたい」と誇りを持てているか。
学校や会社だけで閉じずに、地域の中で、地域や世代を越えて、人が人で育つ場やきっかけが尊重される社会になっているか。
ここ2~3年ずっと似たようなことを考えているので、「身体性のある未来」というお題もプラスしてアップデートするいいチャンスだと捉え、とりあえずお散歩でもしながらぼちぼち考えてみますかね。
ではでは。
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