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自分にとって「いい文章」とは、まるでお守りのようなものだ、という話

noteを始めて早1ヶ月になります。

これまで色んな方のnoteを読ませていただきましたが、みなさんとても丁寧で想いが詰まっており、読書好きとしては読み応えのあるものばかりで、noteをおかずにごはん3杯いけるほど大満足です。

が、そもそも「質や密度の高い文章」ってなんだ?

と思ったので調べてみました。

密度の高い文章とは

ここでは、密度の高い文章の代表的な例として、夏目漱石さん・三島由紀夫さんの2名が比較されています。

両方とも好きです。

しかし、どうやら単純に「密度が高い=質が高い」というわけではなさそうですね。

『吾輩は猫である』も質が高い文章であることは誰もが認めるところだと思いますが、その質とはいったいどのようにして測られるものなのか。

こうした有名な作品に限らず、「この作品はなぜ国語の教科書に載っているんだろう?」と感じた人もいるかと思います。

少し脱線しますが、もともと国語は、一億総方言社会だった江戸時代から明治時代に変わる時に、お偉いさんたちが「てかさあ、みんなおんなじ言葉しゃべってた方が都合よくない?」と新しくつくられたそうで、それまでの二千数百年間そういうものは無かったみたいです。

ではそれまで質の高さを測る指標も無かったのかというと、古事記や日本書紀などずっと受け継がれている作品もあるためそうとも言い切れません。

「正岡子規の子供時代のメモ書き」など「残す価値がある=質が高い」というわけでもないと思うので、もう少し「質の高さ」について考えていきます。

質の高い文章とは

一般的に文章の「質の高さ」とは、読みやすく、話の筋が通っており、結論がはっきりしている、みたいなイメージかと思います。

そこで、「密度の高さ」「質の高さ」に加えて、もう1つ僕なりに評価軸を加えたいのは、「属人性の高さ」です。(残す価値のある文章についてはまたべつの機会に)

これはなぜかというと、本を読んだり講演を聞いたりした時に「この人ネットに載ってることつぎはぎしてるだけかも?」と思うことが少なからずあったためです。

それはそれで一定の価値はあるのですが、「この人のフィルターを通して見た世の中はどうなってるんだろう」という知的好奇心は満たされず、なんだかもやもやした気分になります。

人それぞれ考え方や物事の見方は違って当たり前で、それが面白いのに、「あのテンプレじゃん」「このパターンね」と感じてしまうと一気に興味が薄れてしまう、という自分のステレオタイプの裏返しでもあるのですが。

一方で、「いい文章」だなあと感じるのは、小説や評論など形式に関わらず、普遍的な内容であっても、やっぱりその人なりの文体や表現で個性があり、無意識にすっと引き込まれるものです。

適切な表現が見つかりませんが、文章の体幹がしっかりしているというか。

場合によっては、目から何かが落ちてしまうような衝撃を受けるものも。

例えば本なら何度も読みたいと思って家にとっておくし、noteならブックマークするし、お手紙なら棚の奥にそっとしまっておきます。

まとめ

文章を書くことを生業にされている方は、僕には想像できないような産みの苦しみや葛藤などあるんだろうと勝手に推測していますが、この1ヶ月間noteを続けてみた結果、少なくとも自分にとっては、なぜたくさん文章を読みたいと思うのかを改めて問い直すきっかけになりました。

「いい文章」を読むことで、知識が増えるだけではなく、まるでお守りのようにいつまでも自分の中で糧になっていることも多くて、ふとした会話の中で、「そういえばこんなこと書いてる人がいてね」と思わず人におすそ分けしたくなったり、「この人が書いてるからきっとそうなんだろう」と安心できたり。

来月もまた2ヶ月目の気づきなどまとめてみたいと思います。

ちなみに今年引いたおみくじは「小吉」でした。

幸多からんことを。

ではでは。

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