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エブリデイ大原美術館 5日目〜ぼんやりを描く

さぁ、今日は風景画を描いてみよう!
あなたならどんな景色をキャンバスに描くだろうか。

緑の鮮やかな季節。高台にあがり、海を眺める。
水面は暖かい太陽を浴びて、キラキラと光る。
世界中にあふれる命の生き生きした様子をキャンバスに写しとる。

街には、赤や黄色、緑など色に溢れている。
行き交う人たちは何かを会話している。
乾いた洗濯物はヒラヒラと揺らめき、日陰で酒を飲む初老の男。
音や風、何より人を感じる風景を残したい。

とは、全く違う作品に足が止まった。

今日の作品は、ポール・セザンヌの「風景」

全くもって不可解な絵だ。
大原美術館に訪れて、
「この絵が1番印象的だった」という人に会ってみたい。
と思うほど、何を描きたかったのかが、理解できない。

「風景」とは、ぼんやりしているもの

何の理解も進まない私は、メガネを外してみてみた。
絵は輪郭を曖昧にして、ぼんやりして見える。
そこで合点がいった。
風景を見ている私は、何かを見ているのではなく、見えている世界。
風景とは、ぼんやりしているものなのだ。

どこの街?

どこの街を描いたのか、Googleストリートビューで探してやろうと思った。
特徴がなさすぎて、探せない。
おそらくここは、谷間にできた街。
山が半円を描き、山の上には白い建物があるように見えるが、
あれが修道院なのかパンテオンなのか、定かではない。
家々が40~50棟描かれているが、規則正しい感じではなく、
遠くなればなるほど輪郭さえ判然としない。
おそらく3階建てくらいだろうか。
屋根の色が、鮮やかな朱のものもあるが、呼応するような色は他にない。

ぼんやり感は、こうやって作られる

この絵は、ぼんやりしている。
空も中央部の一部しか塗られていない。
しかも、どんよりしたグレーだ。

遠くの山は、緑が濃く、多少の陰影はあるが、特に際立った表情はない。
同じ緑が画面左側の木々にも使われている。
「もうここは描くのやめた」と塗り潰したかのような印象さえある。
家々の間には、木々があるが、これさえも細かく描くのを避けて、
緑で埋めただけのように感じてきた。

手前にある二つの家。
輪郭も窓などのディテールも描かれている。
この家の屋根もきっと鮮やかな朱色だったと思われる。
上から地味な焦げ茶色、紫のような色を重ねている。
目だ立たせないようにしている。

極め付けは、中央の木

絵の中央に二股に別れた細い樹がある。
こんなところに描かれる樹であれば、1番最初に目に飛び込んでくるはず。
が、飛び込んでこない。印象の薄い樹。
後から描かれたように気がしてきた。
この樹がなければ、街の様子がバッと広がる景色だった。
この樹があるおかげで、街の様子が遮断され、インパクトが薄れる。
ぼんやり効果を上げるために描かれた樹。

額も白くてぼんやり

額装はクラシックでゴツゴツした感じの模様が入っているが、
白いためその印象は低く、揺らめいた光を発している。
絵に近い部分には、幅の薄い金色の額装があり、
太陽光のやんわりした光の中にも
目を細めないと眩しい強さを演出されている。

描くぼんやり、描かないぼんやり

ぼんやり景色を眺めている。
私の目に飛び込んでくる情報量は少ない。
この絵画の中に人は一人も描かれていないし、
生活している雰囲気は全くない。
音も聞こえないし、風も感じない。静かだ。

最後に一つ、理解不能なこと

この絵を見初めて20分くらい経った頃、
私はぼんやり感に包まれすぎて、眠くなった。
経ったまま少し寝てやろうと思った。

その時ふと思ったのだが、1番手前に描かれている床。
おそらく自分のいる家の屋上だか、バルコニーだろう。
平でウツラウツラしやすい場所だ。

でもこの街を見渡しても、屋上がフラットな家など一つもない。
バルコニーすら描かれていない。
どういうことだ?

景色と自分の世界を隔てるバルコニー。夢と現実。
眠りに落ちるか落ちないかの瀬戸際のような絵画を見ながら、
私も、寝落ちしそうになった。

エブリデイ大原美術館 4日目はこちら

毎日、大原美術館に通うことになったきっかけ



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