それだけで

 坂の途中に店があってパンを売っている。お金を払うとパンが買える。僕はそれを知っていて、少しばかりお金ができると、パンを買いに行く。いろいろなパンを売っていて、どれも美味しいけれど、僕が買うパンは決まっている。僕はパンを一つ買うと坂道を上りながら、そのパンの味を思い出して想像してみたり、袋の隙間から匂いを嗅いでみたりする。すると、体は疲れていても坂を上るのが少し嬉しくなり、どうして自分は坂を上っているのか、どうして疲れているのか、そういったことがよくわかるような気がする。坂道を上りきったところで、街を眺めながらパンを食べる。街は何も言わないし、働き詰めで疲れている僕のことなどお構いなしだが、それでも僕はいつも街に満足する。パンを食べ終わると、僕はまた坂を下っていく。僕はそんな風に生きている。それだけで生きている。

 店の軒下に鳥が巣を作っていて、親鳥が雛に餌を運んでいる。僕はその親子を眺めるのが楽しくて、時間が経つのも忘れて飽かず眺めている。雛は大きな口を開け、鳴きながら餌をねだっている。親鳥は餌を口移しで与え、満足げに誇らしげに雛を眺め、再び餌を探しに飛び去っていく。鳥の親子は、それぞれ自分の務めを果たすのに必死で、自分たちが生きていく上で、何がどれだけ必要なのか、何が本当に正しいことなのか、そんなことを考えたりはしない。僕はそれを知っていて、鳥の親子をとても尊敬している。彼らからもっと学びたいと思う。雛の鳴き声は完璧で、親鳥の誇りも完璧だ。人間ばかりがどうしてこんなにも不完全なのか、少し不思議な気がするけれど、でも、きっと僕のこの学びは、僕が生きていく上で必要で、僕にとって正しいことなのだろう。そう思って、時間の許す限り、また鳥の親子を眺めて過ごす。僕はそんな風に生きている。それだけで生きている。

 坂を上りきった高台に、古い教会がある。時折中から歌が聞こえてきて、僕はその歌声に耳を澄ませたりする。何を歌っているのか、言葉ははっきりとは聴き取れないけれど、上がり下がりする声の響きは僕のところまで届く。教会の中に、神様を信じる人達がいるのがわかる。僕には神様の姿は見えない。でも、神様は僕達のことを見てる。そして僕は、神様も僕達と同じだ、と思う。なぜなら、僕が街を見下ろしている時、街の人達は僕に気付かないから。僕達も、神様が僕達を見ていることに気付かない。僕はそれを知っていて、教会から歌声が聞こえると、とても嬉しくなる。それはつまり、歌は祈りで、祈りが僕のところまで届いているということだから。同じように、全ての祈りは、神様に届いている。祈りは最も無力で、最も大切な、人間の務めだ。そして全ての人が、パンを食べる時、坂を上り下りする時、街や鳥を眺め、歌を歌う時、その務めを果たしている。僕はそれを知っていて、全ての人と同じように、その務めを果たしている。僕はそんな風に生きている。それだけで生きている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?