【シリーズ継往開来】堂本製菓株式会社

堂本親子③

堂本典希社長を支える息子の正也副社長(写真左)

〈どうもと・のりき〉1955年(昭和30年)川崎市で生まれる。麹町学園高校から聖徳女子短大へ。81年より家業に。三代目社長、父・清一さんの葬儀では僧侶不在のアクシデントの中、自ら読経供養したことは伝説エピソード。1月に改名して「典希」と名乗る。

〈どうもと・まさや〉1985年(昭和60年)生まれ。小学生の時、祖父で三代目の清一氏から「人は人。必要とされる動きこそが大事」との人生哲学を諭される。経営者としてその言葉が心に染み入る毎日。

 先人の事業を受け継いでそれを発展させながら未来をどう切り開くのか…。「シリーズ継往開来」の第2弾は1909年(明治42年)に創業、川崎を代表する煎餅老舗の堂本製菓(神奈川県川崎市)。その発展の軌跡を辿りながら、四代目の堂本典希社長と、その跡を継ぐ息子の副社長・正也氏による「物語」を紹介する。 

人を大事にするのは堂本製菓の心意気!

 本紙 手作り感たっぷりの高級米菓として知られる『大師巻』。その美味しさは、一年待たないと手に入らない「幻のお煎餅」とされるほど有名です。その堂本製菓さんは昨年創業110年を迎えられました。その堂本家のルーツはもともと福井県の武生、いまの越前市だそうですね。

 堂本典希社長(以下、社長) 堂本家は武生の地で約二百年続く家柄でした。創業者である曽祖父の初代・六左衛門が、訳あって奉公に出ることになり上京、煎餅づくりを学びました。やがて独立し、いまの東京・墨田区本所で米菓の製造販売を始めました。それが堂本製菓(当時は堂本商店)の創業です。その1年後に東京などで大きな水害に遭ったことで、当時の八王子町、いまの八王子市八日町甲州街道沿いに店を移しました。

 ――1929年(昭和4年)にいまの川崎に移られます。

 社長 川崎に移ったのには理由があります。年号が昭和に代わってからまもなくのこと。祖父の三郎(二代目六左衛門)の兄・敏雄が家を出てしまって、そのまま行方知れずになってしまったのです。兄のことを心の底から慕っていた祖父は、あちこちを探し回りましたが、結局分からずじまい。しかし、やがて敏雄がいまの都内大田区六郷あたりに住んでいることが分かると、曽祖父をはじめとする一族を説得して、八王子から新天地を川崎にすることを決めたのです。以来、三郎は兄のもとへ毎日のように自転車で通ったそうです。

 三代目の時代に飛躍的な発展へ

 ――その後、家督は煎餅屋では初代の六左衛門さんから、祖父の三郎さんへと代は移ります。

 社長 初代・六左衛門が33年に亡くなった後は三郎を中心に家族や職人たちが懸命に働きました。お陰さまで商売は順調に推移し、店構えも大きくなっていきました。

 父の清一はそうした中でコツコツと煎餅職人としての腕を磨きます。戦後の51年(昭和26年)、祖父の三郎、すなわち二代目六左衛門は父・清一に家督を譲ります。

 父には4人の弟(上から辰治、榮次、昭男、和男)と一人の妹(正子)がいましたが、祖父と同じように兄弟愛にあふれていました。兄妹は生涯仲違いすることなく、力を合わせて堂本製菓の発展を支えたのです。大阪万博が開かれた70年には「株式会社化」も果たします。

 ――堂本製菓さんはもともと製造卸でしたが、小売りに転換します。

 社長 先代の父・清一までは「堂本は絶対に小売りをしない」という不文律がありました。製造卸が小売りをすれば最も効率よく利益を上げられることは父も分かっていましたが「小売り業者さんが一生懸命にウチの製品を売ってくれているから堂本製菓は成り立っている」として頑としてその路線を変えようとはしませんでした。

 とはいえ、その頃から時代の変化を感じていた私は、川崎の街中でこのまま製造卸に固執していては「将来はない」との不安を持っていたので、何度も父を説得、最終的には折れてくれました。小売りを始めるにあたり多くの関係者から数えきれないご恩をいただきました。そのことはいくら感謝しても感謝しきれません。05年頃、当時の川崎駅ビルとのご縁で初めて直営店をオープンさせます。当初はさっぱりの売れ行きでしたが、徐々に認知度も上がり売れ始めていきます。やがて直営店だけでは注文が捌けなくなり、工場の一角にあった事務所に直売店を構えるようになりました。

予約しても1年待ち幻の銘菓『大師巻』

予約しても1年待ち。幻の煎餅『大師巻』

 何があっても原料と味の品質は下げない

 ――名跡「四代目六左衛門」を継ぐのは既定の事実だったのですか。

 社長 いいえ。父は生前「後継者は皆で協議して決めることだ」と言っていました。父の死後、叔母が「社長やるよね」と私に尋ねました。あまり深く考えないで首を縦に振った記憶があります。父とともに堂本製菓を支えてくれた叔父たちも周囲に異議のないことを確認してくれました。

 ――正式に就任された時はどのような思いが。

 社長 いまもそうですが、私は「いいとこ取りの四代目だな」と思っています。父も含めた先代たちが心血を注いで築いてくれた「大きな財産」の上に私がいる。その路線を真っ正直に歩むだけだからです。しかし社長に就任した当時の会社は大変な状況でした。というのも、70年代の初頭に同業者と協同組合形式で大規模な煎餅生地工場を作りましたが、ようやく稼働にこぎつけた矢先、その時の「実力ナンバーワンの会社」が突然手を引いてしまう事態に見舞われます。結果、負債だけが残り、そのまま重荷になっていたからです。まさに逆風状態でした。しかし、もともと自立心が旺盛だったので、逆に闘志がムクムク湧いてきて「なるようになる」との思いが立ちました。

 ――先代の清一社長はどのような方でしたか。

 社長 父は27歳で家督を継ぎ、三代目として60年以上もの間、会社経営の実務にあたってきましたが、根っこは「職人気質の塊」のような人でした。父からはたくさんのことを学びましたが、いまも一番印象に残っているのは「何があっても原料の質を落とさない」というこだわりです。

 歌舞伎の染五郎さんも愛する名作『大師巻』

 ――看板製品『大師巻』誕生に至るまでの経緯をお聞かせください。

 社長 『大師巻』は70年代半ばに誕生しました。父・清一が周囲の助言を受けながら完成させた手づくりの揚げ煎餅です。海苔を巻いた姿が僧侶の袈裟のようだったことと地元の川崎大師さまをかけて『大師巻』と名付けました。昔ながらの手づくり故に煎餅の大きさが違ってきます。そのため海苔は一つひとつ丁寧に手で巻いています。

 ――『大師巻』の商標登録にあたってはいろいろとご苦労があったと。

 社長 発売以来『大師巻』は商標登録をしていませんでした。やがて事の重大さに気づいた取引先のアドバイスもあり、父と私は大急ぎで商標登録の手続きを進めます。ところが当局からなかなか受理されず、私たちは焦りましたが、ようやく06年(平成18年)に認められました。8月18日です。当時、肺がんで入院していた父に登録証を見せたところ大変に喜びました。しかし、それを見届けたかのように翌月に父は他界します。その後『大師巻』は知名度も上がり売上を伸ばしていきます。13年に広島で開かれた全国菓子大博覧会では「全菓博会長賞」を受賞しました。

 ――その年にはテレビで大きく紹介されて『大師巻』の名は全国に知られることとなり、人気に拍車がかかります。

 社長 人気歌舞伎俳優の市川染五郎(当時、現十代目・松本幸四郎)さんが、在京キー局のTBSの人気番組「はなまるマーケット」でゲスト出演した際に「おめざ」として『大師巻』を紹介してくれたのです。その後も何度も取り上げてくれたことで、全国から注文が殺到するようになりました。当初はパンク寸前でしたが、ちょうどその頃、息子の正也(現副社長)が入社して「本気モード」で社内のあちこちを改善してくれていました。彼の手で通販サイトの使い勝手は格段に向上しており、お陰で何とか対応できました。正也が入社してから、どういうわけか会社が面白いように「どんどん回る」ようになりました。本当に不思議ですね。

昼過ぎにはいつも「売切御免」のアトレ川崎店

昼過ぎに「売切御免」となるアトレ川崎店

堂本製菓の包み紙@堂本のロゴ文字は祖母・歌子さんの揮毫

堂本のロゴ入り包み紙

 人さまへの感謝で気づく堂本の強み

 ――入社されるまではスノーボードに夢中になっていたそうですね。

 堂本正也副社長(以下副社長) 埼玉県代表になったこともあります。しかし、当時の私は確固たる人生目標もなくて、まるで浮世離れした「ふわふわ」した青春を送っていました。

 ――それがどのようなきっかけで会社の方に意識が向くように?

 副社長 2012年の工場火災ですね。復旧にあたっては多くの方が支えてくれました。特に地元のJリーグチーム、川崎フロンターレのサポーターが駆けつけて何度も助けてくれました。私は生まれて初めて人々の「情け」というものに心を打たれたと同時に「堂本製菓がいかに地元の人たちに愛されている会社なのか」を実感したのです。

 この気づきは私の人生を大きく変える決定的インパクトとなりました。そして「自由気ままな生き方はもう辞めよう」と一大決心します。そして母には「継ぐよ」とは言わず「仕事用のデスクを買って」とねだりました。それをオフィスの片隅に置き、その日から堂本製菓の「未来予想図」を描くことに没頭します。それから数年間は店舗設計から生産現場に至るすべてを経験しました。工場では朝から晩まで無我夢中に働きました。

 ――会社には可能性を感じていたようですね。

 副社長 そんなことはありません(笑)。とても不安でしたよ。その頃は会社の経営状況も健全ではなく、アルバイトした方が稼げるような状況下でしたので「将来結婚し子供を育てられるくらいにはしたい」と思っていたほどです。一方で「堂本製菓としても強みは何だろう」と考えてもいました。そこで「出来ること」を身の丈に合わせて細々と行うことにしたのです。新しいロゴなどのパッケージ変更もその延長線上です。その他にも気になったことを一つひとつ見つけては自分なりに改善していきました。

 ――そのロゴマークには特別な思いがあるそうですね。

 副社長 いま使っている「堂本」のロゴの文字は祖母・歌子による揮毫です。三代目の祖父、清一が作った『大師巻』を祖母の文字が書かれた包み紙でくるむ。夫婦仲がとても良かった祖父と祖母に思いを馳せたのです。

 ――社長からは経営者としての心構えなども貰うのですか。

 副社長 何もなくて 逆に「人さまに迷惑をかけなければ何でも挑め」と。社内構成をみると年齢的にもキャリア的にも「中堅」と呼ばれる層が薄いので、この解消が当面最大の課題です。堂本製菓はあくまで「小さな煎餅屋」です。時代感覚を研ぎ澄ましながら、身の丈に相応しい経営スタイルを貫かないと勘違いして方向性を見誤ってしまう。それだけは避けなくてはなりません。

 五代目として次の世代に引き継ぐためにも、より魅力にあふれた会社にしていきたいですね。私は「感覚派タイプ」の人間だと自負しています。普段は目立たないけど、ふと振り返ると「いぶし銀のようだね」と感じてもらえる会社にしたい。それが夢です。

 ――最後に今後の堂本製菓について、社長からお願いします。

 堂本典希社長 代々引き継がれてきた味を守り、美味しい煎餅を作り続けていくこと。これに尽きます。そして今も昔も同様に、皆が仲良く幸せに楽しく生活できるように「何が幸いするか分からない」毎日を丁寧に一つひとつ積み上げていくこと。不易流行です。そうした思いは副社長が妹の有貴と力を合わせてしっかり引き継いでくれることと信じています。

……「菓子食品新聞」No5455号からNo5457号まで3回連載


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