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【俳句鑑賞】青嵐俳談23.04.28

愛媛新聞の俳句投稿欄「青嵐俳談」に掲載された句を鑑賞していきます。
作品の出典は、すべてこちらのページから。

弟のショパン明るし巣箱置く

作者:磐田小

季語は「巣箱(すばこ)」で、春。小鳥のために人間が作ったお家です。

「巣箱置く」ということは、作中主体である兄または姉は屋外にいますね。「弟のショパン」が漏れ聞こえているという状況です。ショパンなら、おそらくピアノでしょう。
「ショパン」という固有名詞や「置く」というさり気ない動作によって、ピアノ・屋外という言外の情報を伝えるところ、とても言葉選びが上手いと思いました。

そして、ピアノの音色を「明るし」と感知するのも素敵ですね。いかにも春らしく、小鳥たちの囀りの明るさも想起されます。
一方で、「弟のショパン「は」明るいけど……」と深読みすれば、弟への羨望・嫉妬の感情を微量読み取ることもできますね。そうなると、眼前の「巣箱」は心のもやもやを映す空虚な器に様変わりします。でも、きっと小鳥が来てくれるはずだという、希望もあるんですね。
あくまでも深読みですが、深読みができるほど奥行のある一句ということで、素晴らしい作品だと思います。

アルビノの星ありにけり半仙戯

作者:光峯霏々

季語は「半仙戯(はんせんぎ)」で、春。ぶらんこのこと。「半」ば「仙」人になったような気分になれる遊「戯」、というネーミングらしいです。面白いですね。

「アルビノ」は、先天的な色素の欠乏により肌や髪が白くなる症状のことで、この句においては星の色の比喩として使われています。
つまり白い星ということなのですが、白い星を見て「ああアルビノだなあ」なんて思うのは、ちょっと鬱屈を抱えた詩人ではないかという印象を受けます。
そもそも星の見える時間帯(=夜)にぶらんこに乗っていたり、「ありにけり」という大仰な文語体や「半仙戯」という難解な漢語を使っていたりするのも、等身大の自分からちょっとはみ出している、あるいははみ出したいという感じがするのです。
ぶらんこに揺られながら、自分をちょっとはみ出して“詩人”になってみる。そんな夜がこの作中主体には必要なのではないか、そんな風に思ったんですね。
もちろん勝手な読みに過ぎませんが、作中主体の抱えるものをあれこれ想像したくなるのは、やはりこの作品がそれだけの魅力を持っているということに他ならないでしょう。

駘蕩としてえひのゆく汽水域

作者:横縞

季語は「駘蕩(たいとう)」で、春。「春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)」なんて四字熟語もありますが、「駘」も「蕩」も「広々とのびやか」という意味の漢字で、春の光景がのどかである様子を言う言葉です。

「えひ」は魚のエイのことで、実はこれは夏の季語だったりするのですが、季節感は「駘蕩」のほうが強いので、こちらが主たる季語という理解で良いでしょう。
「汽水域」は、河と海の境目の、淡水と海水が混ざる水域のこと。エイは基本的には海の魚ですが、淡水への適応能力が高く、よく河川に進出してくるんですね。汽水域をゆくエイという光景はよく見られるものです。

この句は、なによりエイを「えひ」と表記したのが素晴らしいと思いました。歴史的仮名遣いというやつですね。これによりエイの印象が非常に柔らかくなり、そのフォルムやゆらゆらとした泳ぎ方と相まって、まさに「駘蕩」とした気分が表現されています。
また、平仮名の続くなかにエイが紛れて溶け込んでいる点、それから河とも海ともつかない「汽水域」の曖昧さも、「駘蕩」の気分につながっていますね。こういう表現もあったかと、膝を打つ作品でした。

春の夢覚めて文字化けした世界

作者:吉行直人

季語は「春の夢(はるのゆめ)」で、春。文字通り、春に眠りによって見る夢のこと。春は暖かくて眠たい季節ですからね。どこか艶っぽさも感じる季語です。

夢から覚めてみると、なんと世界が「文字化け」していた!デジタルの文字が正しく表示されないことを指す言葉ですが、こう言われてみると、世界が一気にデジタルなものに見えてきます。実際、世界はデジタルなもので溢れかえっていて、それを自覚した途端に、「春の夢」のアナログさ、すなわち柔らかくてゆったりとして心地よい眠りのほうが恋しくなるのです。

でも、作中主体の意識はあっという間に切り替えられ、「春の夢」は忘れられ、デジタルな世界にピントが合っていくのでしょうね。なんとも哀し。
そうなる前のごく僅かな時間、デジタルな現実に戻ってきたことは認識できるものの、まだ寝ぼけ眼で世界が正しく見えず「文字化け」している、そんな微妙な瞬間を切り取った意欲作ではないかと思いました。面白い作品です。

鳥雲に入る言葉では多すぎる

作者:里山子

季語は「鳥雲に入る(とりくもにいる)」で、仲春。越冬のために日本に南下して来ていた鳥たちが、三月ごろ、北の地へ一斉に帰ってゆく。その様子を映像的に表現した季語です。

この季語、けっこうクセモノで、上手く詠むのって難しいんですよね。どうしても言いすぎてしまうというか。なので、「言葉では多すぎる」というのは、本当にそうだと思いました。
俳句の基本は、描写。言葉によって、映像を再生させる。ここには過不足のない言葉というのが必要で、特に“言いすぎない”ことは非常に重要なんですね。
そうすると、「鳥雲に入る」という季語は、もうこれ単体で十分なんです。もう映像になっているし、季節感も詩情もあるのです。
だから難しい季語なんですが、この季語らしさというのを「言葉では多すぎる」とストレートに言ってのけてしまうというのは、まさにコロンブスの卵ですね。やられた、という感じです。

一方で、季語と「言葉では多すぎる」をもう少し切り離して読むこともできます。
例えば、物を贈ることで愛情を表現するとか、キャッチボールで親子の絆が深まるとか、楽器を演奏することで嬉しさや寂しさを表現するとか、悲しい出来事があった日に愛犬が寄り添ってきてくれるとか、「言葉では多すぎる」場面ってたくさんありますよね。そういった場面を何かひとつ思い浮かべて、それと「鳥雲に入る」という遠景との取り合わせを味わうこともできます。それもまた、しみじみと佳し。
映像的な季語だからこそ、ここまでの余白を許すのかなと思います。これもまた意欲作でした。

以上になります。長文お読みいただきありがとうございました!

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