【俳句鑑賞】一週一句鑑賞 24.03.17
みづからのさへづりを追ひかけてゆく
作者:田中木江
出典:愛媛新聞 青嵐俳談 22.03.25
季語は「さへづり」で、春。鳥の鳴き声のこと。主に、小型・中型の鳥たちの求愛の声を指します。「春の鳥」「百千鳥」とは異なり、あくまでも“声”を指す聴覚の季語で、その背景に鳥たちの映像を持つという感じですね。また、漢字の「囀」、現かなの「さえずり」、旧かなの「さへづり」で字面の印象がずいぶん異なるので、表記の選択も楽しめる季語と言えるでしょう。
掲句、一読して分かるように、季語「さへづり」の一物仕立ての句なんですね。一物仕立てというのは、季語のことだけを述べて一句を構成するやり方を言うのですが、説明的あるいは凡庸に終わってしまうことも多く、観察力・根気・言葉選びや叙述の高い能力も求められる上級テクニックなのです。しかも、それを聴覚の季語で成し遂げているのは驚きです。
これが「鶯」「雲雀」などの具体的な鳥の季語であれば、じっくり観察して描写することも可能ですが、「さへづり」はあくまでも“声”ですから、観察も描写も難しい。自分の耳に届いたその声を、どう感じたか。どう把握し直すか。どう表現するか。そこを深めていくしかないわけです。作者の感性の鋭さ、高い言語化能力がうかがえます。
句の内容を見ていきましょう。自分で発した鳴き声を、自分で追いかけていく。これは、物理学的にはまさしくその通りで、声というのは発した瞬間からどんどん自分を離れていくものですから、鳥が飛び立てば必然的にそれを追う形になりますね。ここの確かさは重要なところで、どんな読者にも一定の納得感を与えるための、一句の柱として機能しています。
一方で、生物学的あるいは文学的には、解釈の幅を残す表現であるとも言えるでしょう。鳥が自分の鳴き声を「追う」というのは、人間側の勝手な把握であって、鳥の意志がどうであるかは分からないからです。生物学的には、自分の声を追いかけることにおそらく意味はないでしょうから、完全に人間の思い込みということになりそうです。もちろん、声を追うことが鳥の意志に基づいて行われたという文学的な解釈をしてもよく、個人的にはそう読んでみたい気がしますね。
鳥が自分の声を追う意志とは何か。掲句が俳句作品であり、「さへづり」を季語として読むという前提があれば、求愛の声を自ら追うという切ない物語が見えてきます(ひらがなの多さ、それも旧かな遣いの柔らかさが、また切ない)。「さへづり」というのは喧しいもの。一体どれだけの愛を叫んでいることか。応えてくれる相手が現れるまで、ひたすらに愛を叫ぶ。ついには飛び立って、自らの愛のメッセージを追いかけていくのです。誰も振り向いてくれないのではないかという不安、誰かにこの愛が届いてくれという願い。あの小さな身体のなかに、そんな魂の叫びがあったとしたら。
よき相手が見つかりますようにと、ささやかなエールを送りつつ空を仰ぎます。同時に、人間である自分も、鳥の健気な姿に励まされているのです。「さへづり」は人間へ向けたものではないし、人間の想像力は鳥に伝わるものではないけれど、なにか豊かで平和な交信を見たかのような、そんな読後感を抱く一句でした。
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