珈琲と煙草、4つの掌編④
新宿の古い喫茶店で、彼女と待ち合わせた。
入口から地下の客席へ続く階段を降りると、先に来ていた彼女の姿が見えた。テーブルで、煙草を吸っていた。
あれ、と思った。
会社では、休憩時間や飲み会で、彼女が煙草を吸うところなんて見たことがなかったし、イメージにそぐわないような気もしたから、少し驚いたのだ。
「あ、永瀬さん」
彼女が僕に気づいて、立ち上がった。
「や、いいよいいよ、座ってて」
僕はあわてて言いながら、早歩きでテーブルに向かう。
テーブルの上の白い小さな灰皿には、吸殻が2本載っていた。
「ごめんなさい。待ってる間に、煙草なんか吸っちゃって」
彼女は詫びた。僕は、ぶんぶんと右手を左右に振った。
「全然いいよ。そんな。気にしなくて。俺も吸うし。……何か注文した?」
「いえ、まだ」
「コーヒーでいい?」
彼女はうなずいた。
「でも意外だったな。高村さん、煙草吸うんだね」
コーヒーを注文してから、自分のメビウスを取り出して、僕は彼女に言った。
「たまに、ひとりでいるとき、吸うんです」
そう応じた彼女の手元にある箱を、僕は見た。ガラムスーリヤマイルド。銘柄自体は知っていたけど、これを吸う人間は、いままで身近で見たことはなかった。
「なんか渋いね。これが好きなの?」
何気なく訊ねたのだが、瞬間、彼女の表情がわずかに翳った。
「好きっていうか……ちょっと、思い出があって」
そんなことを言いながら、彼女はガラムの箱の表面を指でなぞるようにしてから、1本取り出して、くわえて火を点けた。
わずかに先端で火花が爆ぜる音。甘いスパイスのような煙の匂い。
僕は直感で、いまはその「思い出」には、触れないほうがいいなと思った。
いまは、まだ、そこまでの段階じゃない。少なくとも、いまは。
「ねえ、高村さん」
「はい」
「東京都美術館のモネ展。いつ行こうか?」
「あ、そうでしたね。ええと……」
予定が書いてあるらしい小さな手帳を取り出す彼女の表情から、先ほどの翳りが完全に消えているのを見て、僕は自分の直感は正しかった、と思った。
いつか、触れられるような関係になれればいい。その「思い出」について。彼女が、話したければ話してくれるような。話したくないと思えば「話すのは嫌」と気兼ねなく言ってもらえるような。そんな関係に、いつかなれればいい。
僕はそんなことを考えながら、運ばれてきたコーヒーを口に含んだ。コーヒーは少し、酸味が強かった。