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ハートネットTV「たけし、自立生活はじめました」〜重い知的障害のある人の新しい暮らし〜を見て

最近、本を読んだり、映画を見たりしても「面白かった」「かっこいいな」「なるほどな」「たしかに」という感想しかでてこない。

感情や思考が枯渇しているように感じる。

もちろん仕事のときに無感情、無思考ではお話にならないから「仕事」となると、しっかり頭と心は動いてくれる。

でも、よりプライベートな領域で感情や思考が枯渇しているような気がするのだ。必要性に駆られないと、感情も思考も動いてくれないのは、とてもむなしい。

そう考えていたときに、あかしゆかさんがこんなツイートをしているのを見かけた。

そういえば、最近プライベートで感じたことや考えたことを書くことがほとんどなくなっていることに気づいた。こうやって書いていても、あれ、こんなにプライベートなことをつらつら書いていていいんだっけ、とちょっと恥ずかしい気持ちになってくる。

「何かがひっかかる。けど、自分が何にひっかかっているかわからない」

そんな感じのことは、生活のなかに意外といっぱいあるはずだ。

でも、それをしっかり捕まえて書こうとしないから、何を感じて何を考えたかに気づくことができない。だから「面白かった」「かっこいいな」「なるほどな」「たしかに」という一言で終わってしまっているのかもしれないな。

そう思うと、誰かに何らかの情報を伝えるためでもなく、誰かに自分を知ってもらうためでもなく、自分が何を考えて何を感じているのかを自分で気づくために書くということをしておいたほうがいいんじゃないかと思いはじめた。

ハートネットTV「たけし、自立生活はじめました」

前置きが長くなってしまったけど、そんな感じでつらつらと感じたことや考えたことを書いていきたいと思う。

先日、NHKのハートネットTVでこの番組を見た。

久保田壮さん、24才。重い知的障害のある壮さんは、去年10月から親元を離れ、ヘルパーの介助を受けて自立生活を始めた。住まいは、障害のある人とない人が一緒に暮らすシェアハウス。大学院生とアーティストという、ヘルパーではない“同居人”もいる共同生活だ。思いを言葉で伝えられない壮さんにとって、介助をする・される関係だけでない、多様な人との関わりはどんな意味をもつのか。新しい自立の形を模索した日々の記録。

実は、このシェアハウスを運営する「特定非営利法人 クリエイティブサポートレッツ」は、友人のお母さんである久保田翠さんが代表をしている。そのため、友人に誘われて、私は以前レッツが運営する障害福祉サービス事業所「アルス・ノヴァ」に少し滞在させてもらったことがあった。

ここでの経験が私にとっては、とても衝撃的で、その後福祉系の仕事を選択することにもつながった。

だから「障害のある人とない人が一緒に暮らすシェアハウス」という新たな取り組みが始まったと聞いて、どんな感じなのだろうと気になっていた。そして今回番組を放送すると聞いて、すぐに録画をとって見た。

とても興味深かったのは、ヘルパーではない“同居人”の二人と、壮さんの関係だ。

大学院生とアーティストのお二人と壮さんが一緒に住む。二人はあくまで”同居人”だから壮さんの「ケア」を主な役割とはしない。でも、無視をするでもない。巻き込まれたり、でも自分の心地よい程度の距離感と関わりを維持したりする。お互いによい関係性を都度考えながらつくりだしているのが興味深かった。

ちなみに、こちらの報告書にこの同居の様子がより詳しく書かれているので、ぜひ読んでみてほしい。

タカハシさん(アーティスト):ここはシェアハウスだと聞いているから、壮くんだけの家じゃない。壮くんのペース、ヘルパーさんのテンションしかないと居にくい。短期的に我慢して乗り越えることはできるけど、我慢することがあまり必要に思えなかった。

人はただ「居る」ということが苦手だから、なんとかして役割を見つけ出そうとしてしまう。でも、お二人が”ケアを担う”という役割(だけを担うこと)を意図的におりて、”同居人”あるいは"友人"として関わろうとしていることが(また環境的にそれをやりやすくしていることが)、逆にその場に、そして壮さんにもプラスの影響を生み出しているのかもしれないと感じた。

壮さん金髪事件

実は、この番組では放送されていなかったけれど、ヘルパーでもなく家族でもない友人と壮さんの関わりのなかで、先日ある事件が起こったという。

それが「金髪事件」だ。

ある日、母親である翠さんが知らないうちに、壮さんがの髪の毛が金髪になっているという出来事があった。話を聞くと、たけし文化センター連尺町に滞在している壮さんの友人テンギョウ・クラさんとスタッフの尾張さんたちが相談して決めたのだという。

翠さんは、金髪になった壮さんの姿を見て、こう思ったそうだ。

何だからわからないけれど、悲しい気持ちになった。

それは、「本人の意思が確認できていない」と思えてしまうからだと思う。
なんかもやもや。

しかし、そこから少したって、翠さんはある発見をしたという。それはたけしさんが、金髪にしてからとても調子がいいということだ。好きではないショートステイでいつもは嫌がるはずのご飯もしっかり食べる。金髪に注目されるのもとてもうれしそうで、きげんがいい。

そして、この「金髪事件」をきっかけに翠さんはこう考えるようになったという。

多少ぶっ飛んでいる母親である私でも自ら「たけしを金髪にする」という発想はなかった。

それは私が初期に感じた たけしの意思はどう確認するればいいか という、自己決定権みたいなものにとらわれていたから。

しかし、たけしをよく知るスタッフと友人たちは、そこを軽々と越えていくのだ。

「合理的配慮」とか「自己決定」なんてことではなく、人として、友人として、「合意形成」されていく彼のクオリテーオブライフ。

それは、安全で、無難なことだけではなく、ちょっと冒険的で、刺激的で、でも確実にたけしの新しい人間関係や社会を開くきっかっけになるかもしれない可能性も含んでいる。

これは決して「親」ではできないことだとつくづく思う。

と同時彼は、回りの人たちと あーだ こーだ と議論を促しながら、自分の生活を成立させたり、流れを変えたりできるのだと思う。これこそが「自立」。

私は最近、「親なき後をぶっ壊せ」と叫んでいる。それは重度の障害者の親であっても自分の人生を生きたい。そのためにはいつまでも、子どもと手をつないでいてはいけない。それは、知らないうちに、子どもの人生を限定させていしまうという罪も犯してしまうのだ

少々過激な言葉を使って叫んでいるのだが、たけしの金髪は私が考えている以上に、たけしの自立はもう始まっていることを実感する。つまり、手を放す、放さないと考えていうるのは親(私)ばかりで、たけしはとっくに自ら手を放しているのだ。

これはシェアハウスでの生活を記録している「たけしと生活研究会」のnoteに去年の7月に掲載されたエピソードであり、最近はコロナウイルスの影響だったり、シェアハウス生活を支えるさまざまな仕組みの課題があったりで、壮さんは一度家に戻っているという。

でも、シェアハウスで「自立」して暮らすという挑戦は続いていく。

この取り組みを傍から覗き見させてもらい、自立って何だろう、役割とはなんだろう、対等とは、といろいろなことを考えさせてもらった。誰かのために、は、逆にその誰かの人生を限定してしまうことにもつながるという久保田さんの言葉をもう少しゆっくり考えてみたいと思う。そして、まだ固まりきってはいないけれど、感じたことを少しずつ言葉にしてみたい。

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