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能登半島と和倉温泉(1)

 能登半島は日本最大の半島だ──と先日さる会合で口走ってしまった。これはどうも正しくなかったようで、たとえば紀伊半島や房総半島などの巨大半島をふくめれば、能登は大きいとはいえ5番目くらいになってしまうらしい。
 しかしそもそも紀伊半島のように桁違いに大きいものは、半島というよりはもはや陸塊と呼んだほうがいいのではないか。半島というよりは、本州のちょっとした出っ張りでしかない。三方が水に囲まれている陸地のことを半島というそうだが、それなら大阪は紀伊半島の一部ということになってしまいそうだ。
 どうも半島というのは、大きな陸地にたいしてある程度鋭利に細く突き出ていてほしいという先入感のようなものがある。その点、能登半島は誰もが認める典型的な半島といってよい。わたしは子どものころに家族旅行で連れてきてもらい、片山津温泉に入湯した記憶がある。また最近では2010年に友人との旅行で訪問し、輪島を中心に能登の街をめぐった。
 地学的に見てみる。右方向に湾曲した能登半島の日本海側、つまり北・西側のことを外浦といい、富山湾側のことを内浦という。基本的に外浦は断崖絶壁が多く、内浦はなだらかになっている。とはいえこの半島の脊梁をなす山の高さはそれほどではない。主峰となる山以外はせいぜい200─300メートルにおさえられていて、かつ対馬暖流という暖かい海水が流れる海に突き出しているせいもあって、能登半島は日本海側としてはめずらしく比較的に雪が少ないという定評がある。
 かつて輪島を訪ねた時は、そこから山形県にサクランボ農家の取材をするため移動する必要があった。このため輪島までは足を伸ばしたが珠洲まで訪ねる時間を取ることができずじまい。
 心残りになっていた場所を再訪するきっかけが大地震とは、数奇なものである。
 元日に大地震にみまわれた石川県は、旧国制でいうと加賀国と能登国の2カ国からなっている。加賀は「加賀百万石」というフレーズで知られる大国で、かつては「大石川県」として富山・福井両県をふくめて日本一の大県だったことがある。
 この金沢市は年間降水量が2600ミリもあって、これはわたしの住む兵庫県加古川市の倍に相当する。それほどの雨──というよりこの地においてはもちろん雪とそれが生む雪解けや地下水であるが──が潤す平野が加賀国の豊さを作ったことはまちがいない。いっぽうで半島国である能登は付け根付近を北東・南西方向に横切る邑知潟(おうちがた)平野以外は丘陵が続き水の少ない土地である。この差が現在の加賀の隆盛と能登の過疎の遠因になっている。
 一方で、国として古いのは意外にも能登のほうである。現代に生きるわれわれの空間認識は機械文明に大きな影響を受けていて、平野部はかんたんに開墾して水田にでも畑にでもできると考えがちだ。しかしわたしたちの古い古い祖先にとっては、川の下流部というのは背の高いアシが一面に繁茂して分け入ることもままならず、水辺に近づくと泥に足を取られて歩くどころではない。かつしょっちゅう洪水に見舞われる使い道のない土地だったはずだ。関東平野が江戸時代まで開拓されなかったのもそういう理由があったはずで、同じようなことが水の豊富な加賀の国にもいえただろう。
 そういった時代には、使いみちのない平野より、能登のように峻険すぎない山に囲まれ目の前が海であるような土地は、山海両方のめぐみを活用できる絶好のすみかになったにちがいない。
 ましてや日本列島に文明をもたらした大陸との交通の弁を考えれば、能登というのは日本列島のなかでも有数の豊かな国だったのである。
 わたしがいま逗留している七尾市は、その能登の首府である。

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