人は地元の魅力を構造的に見落とす

 兵庫県の魅力発信に加古川のツーリングカヌー(競技カヌーにあらず)が入ってくるって、歴史上初だと思う。たいへん嬉しい。
 加古川の持っている魅力に、加古川市に長く住んでいる人は気づいていない。いわゆる「なにもない街」などということになっている。
 これまで国内国外あちこち旅してわかったことがある。それは、地元民は地元の魅力を構造的に見落としてしまうということだ。

【サンプル1】大学時代の親友
この友人は東大寺まで歩いて10分の場所に住んでいながら、大仏を見たことが一度もなかった。奈良を訪問したときに嫌がる彼を連れて見せてやったことがある。「わりといいものだ」などと言っていた。
 
【サンプル2】米子市の知人たち
鳥取県にある日本有数の汽水湖である中海(なかうみ・ちゅうかい)。ここに大量に生息しているゴズ(ハゼ)を現地の知人たちはバカにしている。どこにでもいるオタマジャクシくらいの扱い。ちなみにハゼは街中の海や水路でかんたんに釣れ、個体数がたいへん多く、さらに食べてもひじょうにうまい。冷静に考えてかなりレアな資源だ。ちなみにズワイガニもかなり扱いが雑(笑)
 
【サンプル3】ニセコと日本人
ニセコはオーストラリア人が有名にした。世界一の雪質だそうだ。これを発見・発信したのがなぜニセコの人や北海道の人、また日本人ではなく、アメリカ大陸みたいに白人に「発見」されなければならなかったのか。
 
【サンプル4】姫路城とおれ
加古川出身のわたしは、日本じゅうどこを旅してもショボイ城や城趾しか残ってないのが不満だった。しかし大人になってから気づいた。子どものころから行きなれた姫路城がスゴすぎただけのである。
 
 井の中の蛙、井の水の清きを知らず。つまり地元に住んでいる人は地元の魅力を構造的に見落とす。そういう「はなし」を地元でさかんに語る。自分の目であらためて確認しない。
 「こんな田舎によく来たねぇ」と田舎の人によく言われる。しかし「こんな(自分にとってつまらない)田舎」が「どんな(他人にとってすばらしい)田舎」なのか、地元の人はぜんぜんわかっていない。そこを目的に人が訪ねてきているのに。
 地元の魅力に気づくべきタイミングがある。地元から出戻ってきた人の目線が入ったときだ。この時、ふとした指摘に気づければ上々だ。深掘りしていけばよい。しかし「いやいや、こんななにもない街」といって、謙遜なのか鈍感なのか、だいたい見過ごしてしまう。
 ほらまた目の前から女神が逃げた。
 欧米崇拝の日本人にとってより決定的なのは、白人旅行者が来はじめたときだ。しかしそのころにはすでに時は遅い。あとはマーケティング業者によって世界の観光業の食い物にされるだけ。出遅れた者は道端で土産物を売るくらいが関の山である。



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