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美しい場所では悪事ははたらかれへんのよ

 いきなりやけどこのエントリは地元の言葉で書いてみるわな。加古川の朝市やねんから、言葉もたまには地元密着型でいかしてもらうことにする。関西弁ちゃうで。日本でいちばんガラ悪いと評判の播州弁やで。読みにくいかもしれへんけどがまんしいや。

 きょうは出店料の話。けっこうおもろいで。

 ムサシオープンデパート朝市が出店者からもらうのは、売上連動式の出店料だけやねんね。つまり売れても売れなんでも一律で売上の10─15%だけ。ほかの青空市場やマルシェみたいに固定で1日20000円とか、最低保障で3000円は申し受けますとかいう方式にはしてへんねん。出店者がよう売らなんだら丸損ちゅうこと。

 しかも自己申告制や。つまりごまかしほうだい。ウソの申告をしても、そこからしか徴収せえへんちゅうことね。

 ゆるすぎるやろ?でもこれでうまく回っとうからそれでええのよ。

 ちょっと考えてみたんよ。なんでこんなテキトーな方式でちゃんとお金がまわるか。

 ひょっとするとテキトーやないんかもしらんのよ。人が持っとう良心をフルに発揮させる高度な作戦なのかもしらんと最近は思い始めとんのよな。

 まずこの方式の発端はたいした話やないねん。朝市をはじめた当初は正確に売上を管理して徴収することなんかでけへんかったんよ。前のエントリにも書いたように、朝市はできるだけ出店者がトライするハードルを下げたいというもくろみがあるわけ。地元を盛り上げるためにやってるからね。そこははずせへん。

 すると「最低保証でナンボもらいます」というのはあまりやりたくないわけ。失敗のダメージがすくない売上連動方式でいきたい。でもそうすると、出店者がそれぞれ今日いくら売ったか売上を集中管理せなあかんやろ。レジを何十台も導入して通信して集中管理して、A店はきょうの売上が2万3680円、B店は1万5120円──というふうになる。つまり百貨店とおなじね。

 そんな大層なことできんかったんよ。成功するかせんかわからんものに。

 いまはスマホをレジにできるようになって、設備投資の金額が圧倒的にさがったからやれんことはなくなった。でも、そういうことをする必要すらないんやないかと思うようになった。

 理由を書くで。ここからが佳境。よう読みや。

 たとえば誰か出店者が売上をごまかすとするやん。するとその事実はこのゆるいシステムではバレへんわけ。自分には数千円の利益が残ることになる。

 しかしそういうチョロマカシをムサシの朝市でやるということはどういうことかと。みんな献身的に運営に協力してテントの撤収やゴミ拾いをして、ボランティアで活動している人すらたくさんおる、なんとか地元に貢献したいというどえらい美しい志のあつまる場所やということよ。

 つまりひじょうに美しい志で運営されてる朝市のなかで、自分だけたった数千円をごまかすわけね。これはひじょうに勇気が要る。

 たとえばうつくしい花畑に腐った生ゴミ捨てるのは人間の心理的にかなりむずかしいわけ。インチキやチョロマカシをするのは、場が美しく、雰囲気が良好であればあるほどやりにくい。他人はごまかせても自分はごまかせへんわけね。嘘つきのゼニの亡者みたいな人間であることを思い知らされるわけやから。汚い性根が、特大ブーメランになって自分に突き刺さってくる。

 しらんで。あくまでたぶんの話よ。

 これまでぎょうさん災害の被災地に行ったけど、みんな一生懸命働いているボランティアと被災者のグループってじつはこんな感じやねん。被災直後ってどこでも一瞬やけどめっちゃ美しい場所ができるんよな。日本のあちこちから駆けつけて、必死になってあかるい未来にむかって汗をながす。

 被災者は困ってる。それを助けようとボランティアも時間と費用を捻出してみんながんばる。そのなかで自分だけウソをついたりゴマカシをはたらいたりするわけにはいかへんやん。

 おれはあの空気が好きなんよな。そして、いつのまにか朝市はそういう好循環の場所になってきとんのよ。善意が善意を呼んどるわけ。それが被災地の一瞬やなくて、日常的に毎週のこととして続いとるっちゅうのは、けっこうな奇跡やとおもうんよな。

 すごい実験やとおもわへん?

 せやから、いまのところ性善説にもとづいた自己申告制で回しとんねん。ひょっとしたらずっとこのままでいけるかもしれへんし、いけたらすごい。

 そういうところも観察しといてもろうたら、朝市もまた違って見えるとおもうで。

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