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役人がベンチを分断して国を滅ぼす

 20年前くらいから駅周辺や公園で激増したのが「仕切り付きベンチ」である。ホームレスはもとより、ちょっと休みたいヨッパライにも母親の赤ちゃんオムツ替えにも厳しいベンチである。

 「仕切り付きベンチ」とあくまでカギカッコに入れたのは、仕切ってしまうともはやベンチとはいえないからである。ベンチに似た何か別のものになってしまっているとすら思う。イスが並んでいるのと同じだ。

 イスもベンチも座るための道具なのはおなじだが、イスはベンチに比べると人々を分断する装置という側面がおおきい。

 新幹線の座席にすわったときを想像してみればよくわかるだろう。ひょっとしたらすごく話が合うかもしれず素敵な出会いになるかもしれない数センチ隣にいる人間を「わかり合えない他者」と決めつけて心を閉じさせ、肘掛けの取り合いという異様にチンケなゼロサムゲームを勃発させる。そういう力をあの仕切られた座席と空間レイアウトは持っている。

 公園や駅や交通機関はパブリックスペースである。他者と共有し交わる場だ。そこにせっかくベンチがあったのにイスという分断装置を持ちこんで人を引き裂いているのだ。

 ムサシオープンデパート朝市は世を覆う「孤人化」にたいするアンチテーゼとしてお客さんの座席はベンチをずっと採用している。隣にだれがくるか分からないのを楽しんでもらう。朝市は楽しい人が集まるように雰囲気を設計してあるので、「ここ空いてますか?」と隣に誰か座ったなら、それは高確率で楽しい何かが起きる。

2018年5月の日岡山朝市。コロナウイルス対策でいまはテーブルがなくなったが、そのおかげでお客さん同士の交流はさらに起きやすくなったように思う。瓢箪から駒だ。

 公園や駅のベンチが仕切られてイス化していくのは、おそらく「ホームレスが邪魔です」という電話なりなんなりが役所にあったのだろう。そう、役人はいつも言う。「市民からのクレーム電話には対応せざるをえない」。

 しかしだまされてはいけない。これはじつは、

「みんながなぜか信じている都市伝説レベルの大ウソ」

である。いくら言っても役人が対応しないことなんて山ほどあるではないか。「市民からの通報」という誰も否定できない必殺ワードを隠れみのに、役人は自分の都合のいいクレームだけ選別しているのである。よく覚えておいてほしい。

「役人は自分に好都合な情報を選択して作為的に利用する」

が正しいのである。つまり反対にいえば、役人がどういうクレームを喜んで活用しているかを見れば、役人の本質が見えるということだ。

 考えてみてももらいたい、予算がないないと言うくせに、ベンチより高価な連続
イス式ベンチ(←めんどくせえな)がなぜ全国どこでも増えていくのか。なんらかの作為があると考えた方が自然ではないか。

 その作為とは「市民の自由を奪いコントロール下に置くこと」である。

 公園や河川敷に「ラジコン禁止」「スケボー禁止」「ボール遊び禁止」「自転車乗り入れ禁止」とやたらに看板を立てる。国民・市民から自由を奪い、分断して反目させ、社会性を失わせる。分断反目させて統治しやすくするのは権力の常套手段だ。暴力装置である国家の「クセ」であり「習性」だ。高度な忖度マシーンである役人はそれを体現しているわけである。

 しかしシステムはあまりに定向進化すると自壊を早める。横暴な権力にたいしては、国民・市民がデモや訴訟、ジャーナリズムによる監視をつうじて過度な理不尽を修正していく必要がある。そうでないとかえって国家の寿命を早めてしまうからだ。こういう思考を支えるのがその国民の民度だが、この国ではこのことが理解されない。

 このため「ルールに従っただけです」というアイヒマンが役所や企業に大量出現し、「世の中変わらない」「しかたない」と行動をあきらめる。分断はあまりに進むと国民の力を削ぎすぎて国家そのものの破滅を早める。

 たとえば役人は「みなさんからの要望にしたがって公園のベンチは撤去しました」「ボール遊び禁止の看板を立てました」と熱心に仕事をする。そのせいで赤ん坊や子どもを連れた母親は公園に行けなくなる。つまり子育てがしにくくなっていく。結果として日本の出生率が低下し、コミュニティが崩壊していく。国を支える若者も税金を納める者もいなくなる。

 崩壊のあとに役人は言うだろう「決められた仕事を指示どおりにやっていただけです」。

 そういう負のスパイラルが進行していくのをわれわれは現在進行形で見ているわけだ。観察者という傍観を続けるのか、なんらかの行動を起こすのか。あと10年でこの国の老害たちは社会的に退場となる。(肉体はまだかろうじて生きているかもしれないが)

 そのときのために行動を着々と起こしておくのがおれの仕事である。

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