河川敷朝市のために川原に小道を作る

1960年代の加古川。今ある河川敷公園はまだ影も形もない。川と陸をへだてる無粋きわまるコンクリート岸もない。川を通っていた人がたくさんいたことが川原の道からうかがえる。

 21日土曜日に開催した朝市では、草むらを刈って道を作った。事前に現場視察をしていて突如思いついたである。
 この草むらは河川敷公園のサイクリングロードと川岸に挟まれた細長い区域だ。公園はキレイに草刈りされているが、サイクリングロードをはさんだこの場所は放置された背の高い草むらになってしまっている。

 なぜこんな草むらが河川敷公園に存在しているか推測してみる。

 加古川のような一級河川はそもそも国交省の管理だが、河川敷の公園は加古川市が国交省から管理を引き受けている。しかし加古川市にとって公園というのは芝生広場からサイクリングロード(舗装)までだ。それ以外を担当することもないし、手を出してはいけないという暗黙の了解がある。
 そのはざまで宙に浮いたところが草むらになるのである。川原を見ていると、人間の「意識」が河川という「無秩序」にたいしてどこまで及んでいるかがキレイに区分けされているのが見える。

 現代人はたんなる広い土地としてしか川原を考えていない。目の前に川があってもだれも川など見ようともしていないのである。川に沈む夕陽の写真を見ることがあっても、それは川ではない。たんなる水である。
 加古川市は「加古川河川敷を活かしたにぎわいづくり」と題してさまざまなイベントを誘致しているが、べつに川じゃなくてもいいものがほとんどだ。われわれが河川敷と呼んでいるのはたんに川のそばに造成した地面のことである。

あまりに放置されすぎたのか、草を刈ったら寝ていた地面の草が厚いシキワラみたいになった。

 おれは現代人だが川原と街を行き来して生きているノライヌ的な人間である。この草むらを勝手に草刈りしてワラ敷きの回廊に仕立てることにしたわけ。せっかくの川辺での朝市である。ここを通って川を眺めてから朝市の会場に入ってもらおうという算段である。
 折しもこの場所はヘアリーベッチという紫色のフジに似た草が花盛りだ。この花は良質の蜜を生産するので養蜂家があちこちに増やしているらしい。いまミツバチと養蜂家はこの花の蜜を集めるために奔走している。
 そんな季節感を乗せた朝市のひと工夫を提案してみたわけだ。
 実際に草刈りをしてみると、強烈なトルクを持った300ccエンジンのキャタピラ式草刈り機がしょっちゅう苦しがってとまってしまった。積年の枯れ草が厚く折り重なっていて、草刈り機のローターにからみついてとめてしまうのだ。
 いったいこの場所は何年放置されているのだろうか。

 そうして2─3時間かけて草刈りをし、コーステープを引いて導入路を工夫した川を眺めるための小道だったが、結果的にいえばあまり機能しなかった。歩いてくれた人は40─50人に1人もいただろうか。同日は2000人の来場があったから、50人くらいは歩いてくれたかもしれない。おもしろい結果だった。人々は川岸に来ているけれど、川になんか興味がない。草の中などまっぴらごめんということが可視化・数値化されたわけだ。

 こうして開催した21日の河川敷朝市。開場からしばらくするとパトカーが2台来ていた。警察官に「どうしました?」と聞くと、住民から通報があって川で泳いでいる人(子ども?)がいるのだという。
 川に入っている人がいるだけで、警官も5人もくりだしてきてたまったもんじゃないだろう。
 「自然をだいじに」「水辺に親しむ」などといいながら、この国でオカミやママたちがのぞむのは川岸で水を触るていどのことでしかない。
 水ともっと愛し合おうとして橋から飛び込むと通行人に通報され、泳いで川を渡ろうとすると学校の先生がやってくる。魚を釣ってくるとママに臭いと言われる。
 加古川市はその市章の真ん中に川がデザインされている。川をカッコでくくって「カッコガワ」というダジャレの効いた市章になっているのだ。しかしその実態はカッコでくくって意識から消去しているのに等しい。

 この現代に人と自然との豊かな接点を回復するためには、まだまだいろんなものをつながないといけない。長い旅だしおそろしいほどの労力を必要とする。やる気のない行政や市民のためにやることではない。
 この河川敷イベントをつうじて決めたことがある。今後協力的でなかったり、やる気が行動として感じられない人・企業・自治体とはいっしょにはやらないということだ。
 これまでさまざまな場所でたくさんのイベントや生活づくりのための朝市を開催してきたが、そのすべてを「成功」させてきた。これは誇りに思っている。失敗といえばたいてい「お客さんが来すぎた」という上振れパターンの失敗であった。
 岡田市長も当日会場にきて喜んでくれはしたが、たとえば加古川の駅前の朝市は、市もヤマトヤシキも「必死さ」は感じられない。頓挫中である。そういう人や団体とはもはや組みたくない。労力がどんどん吸い取られるのだ。

 ほんとうに街をなんとかしたいのか?おまえら。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?