純粋さの力

4月に入ってすぐから、体調をくずしていた。

自分のこれまでのバイオリズムから思い当たるところはあったものの、こういう時期ということで、しばらく自宅隔離をしていた。

今考えると、体調は少しずつ良くなっていたはずなのだけれど、心は完全に「分からない怖さ」に囚われてしまっていた。


横になってもスマホは使えてしまうので、なんとかこの漠然とした不安を解消したくて、際限なく調べ続けてしまう。

でも実際は、不安が解消されるどころか、情報の蟻地獄にどんどんはまり、出口が見えなくなっていった。

自分が無意識の加害者になってしまうことが、とにかく怖かったのだ。

身近な人から心配する声はもらっていたのに、その時の私はうまく受け取ることができなかった。


結局、丸一週間経っても体調が良くなりきらなかったので、かかりつけの病院に電話をして、診察をしてもらうことになった。

病院から指示をいただき、車で待機していると、看護師さんが車まで迎えに来てくださった。

そのまま病院の裏口へと案内をされたのだが、なにせ一週間ほとんど動いていなかったので、体が重く、歩くのも本当にゆっくり。

そんな私に、ベテランの看護師さんが、大丈夫?と声をかけてくださったとき、自分でも戸惑うほどにその言葉が直に心に響いて、思わず泣きそうになってしまった。

大丈夫です、と、なんとか声を絞り出して答えたけれど、油断したら感情が表に出てしまいそうになる。

体調をくずしてからずっと、下に振れ続けていた感情の針が、今度は上に振り切れんばかりに、大きな波を描いていた。


臨時に用意された診察室に入ると、病院の先生はいつもと変わらず丁寧に診察してくださり、看護師さんは明るい声で話しかけてくれつつ、テキパキと無駄のない動きで働かれていた。

「今自分がやるべきことを、やる」その姿を、とても美しいと感じた。


先生から最後に、大丈夫でしょう、と言われたとき、気持ちだけでなく、本当に何かが体から出て行ったように、軽くなった。



久しぶりに外に出ると、まだ固いつぼみだったはずのソメイヨシノが、満開になっていた。

今までは、満開の桜を見たら「綺麗だな」と思っていたはずだけれど、その時はなぜか、「応援されている」という不思議な感覚になった。

我に返って改めて桜をみると、桜はただただ、冬の間にためていたエネルギーを、外に向かってめいっぱい咲かせているだけ。

桜としての命を生きているだけだった。



特定の誰かの為ではなく、自分の役割を、ただひたむきに全うしようとする純粋さ。

それは、その姿を見た誰かが、自分の足で立ってまた前に踏み出せることを、思い出すきっかけになりうると思う。


「今自分がやるべきことを、やる」ことは、きっと知らないうちに、周りに力を与えている。





















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