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【私のキャリア形成】大人になったときの夢は…

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 子どものころ、将来どんなことを夢見ていましたか? いつごろから職業について意識し始めましたか? 夢は叶いましたか?

 私の息子たちに聞いても、「AI時代の変化が大きすぎて、今ある仕事のほとんどが将来ないと言われるのに、そんなのあるわけないでしょ」と言われてしまいます😅

 古い人間ですみません。私は、小学生の卒業文集で「外交官になりたい」と書きました。父からも母からも「戦争で貧しくて好きな仕事につけなかった」「貧しくて進学できなかった」といった話をよく聞かされていたいた幼い私は、周りのみんなが幸せに、自己実現できる社会づくりに貢献したいと思い、その手段が外交官だと思うようになったからです。

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 さて、中学生になってすぐ、その夢は破れました😅 外交官になれるほどの頭脳は自分にはないと自覚したからでした。代替案を探していた私は、「ならば、ペンの力で世の中に貢献しよう」と考え、そこからジャーナリストを目指すようになりました。中学校の先生に作文をほめてもらったことも影響していたと思います。

 ジャーナリストになるためには、東京へ行って、政治や経済の知識を学ばないといけないと考えて、都内の大学へ進路することを決めました。大学に入学すると、「新聞社」(「社」は「集う仲間」という意味で使われていましたが、要は部活です)に所属し学生記者を全うしました。中学校の時に決めた目標があったからです。

 ちなみに、私は新聞社では初代の女性編集部長となりました。当時はきっとまだまだ男性社会だったのでしょうね。でも、その後、女性編集部長は何人も輩出され、「女性編集部長の方が優秀」と言われることもあるくらいになっているそうです。隔世の感がありますが、嬉しいことですね。下の写真は、当時の私の活動のことを掲載してくれた読売新聞の記事です。大学生の私、初々しいですね(手前味噌🤭)。

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 卒業後、女性向けの週刊新聞の編集部に就職し、その2年後、ロンドン在住の邦人向けの日本語月刊紙の編集部に転職が決まり渡英しました。

 英語が得意だったわけではないので、英国では言葉の面でもいろいろと苦労はあったのですが、結局、在英期間が長くなると、日本語の能力にも衰えを感じ始め、最終的には記者としてのキャリアを断念することにしました。

 「あいうえお」の順番がどうしても思い出せなくて、悔しい思いをしたのを今でも覚えています(今は、英語の単語がでてこなくて、悔しい思いをしています😅)。

そして、金融業界に転職を決意します(このことについては、また別の機会に詳しく書きますね)。

 実は、数年前に伯母(父の18歳年上の姉)から始めて聞いたお話なのですが、私の祖父(この記事のトップの写真)は、新聞記者だったらしいのです。そして、(業務でなのかどうかはわかりませんが)黒船に乗ってアメリカ大陸へ渡った経験があるらしいのです。帰国した後は、「日本もいずれアメリカのようになる。準備しなくてはいけない」とよく人に話していたそうです。

 「京子は『京都』or『東京』の子?」の記事にも書きましたが、祖父は父が幼いころになくなっています。父でさえ、あまり思い出がありませんので、私は祖父の逸話を聞いて育っていません。

 だから、この話を最近になって聞いて、私は鳥肌が立ちました。あまりにも私と祖父の行動が似ているからです。会ったこともない祖父の影響(DNA)? これまでの人生、自分で決断をしたと思っていたけれど、もしかしたら、DNAに選ばされていた、いえ、選ばざるを得ないDNAを持っていたのかもしれない。遺伝子のパワーおそるべし。

 祖父が生きていたら、私の状況をどう思うだろうか?・・・なんてことをときどき考えます。

 ちなみに、ジャーナリストになるという子どものころからの夢は破れてしましたが、記者という仕事を通して実現しようと思っていたコトは、創業・経営支援というカタチに変わって、いまも取り組んでいるように思います。

つたない文章を最後までお読みくださりありがとうございました。

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