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緑のキッチン

数年前、家を購入しようと思いたち、夫と私はあちこち物件を見てまわっていた。

大阪から異動してきて6年住みつづけた東京のかたすみの街に愛着ひとかたならぬ夫。ヒナが最初にみたものを親だと思うあの現象さながら、そこに住み続けたいという。
対する妻(私)は断固反対。ゼロメートル地帯と言われるその土地に建つ物件に、なけなしのお金を投じるのはリスキーすぎる。

物件探しは難航した。

出会い

お互いがすすめる物件をつきあいで見学してみるが、どうにもよいとは思えない。平行線がつづく中、唯一心が動いた夫プレゼンツの物件があった。

なぜなら、そこには憧れの「緑のキッチン」があったからだ。

「緑の」といってもキッチン扉の色が緑だというわけではない。
よくある木目調のナチュラルなデザインだ。
しかし、レイアウトが変わっていた。
コの字型で、ガスコンロは壁にむき、シンクはリビングにむかい対面になっている。両辺をつなぐ1辺の壁には大きなピクチャーウィンドウ。その先には広葉樹の青葉が揺れていた。

「窓いっぱいの緑をのぞむキッチン」

なつー。
おおきな 木の うえの かおるの こやは、さぞ すずしいでしょう。
もしかすると、こやの なかで、せみが なくかもしれません。
とんぼも あそびに くるかもしれません。

なつが すぎれば、あきに なります。
まわりの 木は、はっぱが きいろくなって おちてしまうでしょう。

出典:おおきな きが ほしい さとうさとる

山をのぞむ大きな窓があるキッチンで、主人公のかおるがホットケーキを焼いている。幼い頃くりかえし読んだ絵本のシーンが、大人になってもずっと心のかたすみにあったのだ。

そして、インテリアの世界に足をふみいれた頃、海外の雑誌で、大きな窓にむかって設置されたキッチンをみつけた。それはすごく素敵で、特別な空間にみえた。こんなキッチンだったら、毎日の料理もクリエイティブに感じるだろう。

おしゃれなキッチン=対面キッチンの方程式が定着する画一的な日本のインテリアに、一石を投じられた気分だった。
さらにその後、有元葉子さんの著書「私の住まい考 家と暮らしのこと」の中で緑をのぞむ別荘のキッチンに出会い、憧れを育んできた。

あんなキッチンがあったらいいなあ。
いやいや自分で建てないかぎりはムリでしょう。

けれどもまさか東京都内、しかもマンションで、出会うことになろうとは。

一般人の手が届くマンションの間取りなど、だいたい似たり寄ったりだ。
リビングにむかうI型の対面キッチンがあって、背面は収納。リビングの先にテラス窓。
多くの人が暮らしやすい定石の間取りは、コストを抑えられるし無難に売れる。=正義というわけなのだろう。だが、このキッチンは……。

私は、会ったこともないこの空間の設計者に思いを馳せた。

キッチンメーカーに勤めていたのでわかるのだが、天板をコの字型にするだけで、製造費も工事費もはねあがる。
そのこと一つをとっても、上層部を説得するのは大変だったのではないだろうか。

同じ入口がずらっと並ぶマンションの、扉をあけた瞬間にそこは「わが家」になる。これは、オーナーになったその人が心から愛着をもてる間取りだ。
大きな窓に臨みながらも、コの字型にすることで、対面キッチンの機能と実用性を両立している。
緑の深いこの土地を生かす最高のインテリア。
ドキドキした。

この間取りをプレゼンし見事実現した設計者は、情熱を失わないロマンティストに違いない。にもかかわらず、現実的な地図を描けるクレバーで素敵な人だ。
ジェラシーに似た感情を抱きながら私は、見知らぬ設計者に恋をしてしまった。ビジュアルは少女漫画のS系ヒーローをあてこみ、女性かもしれない可能性については目をつぶった。夫よ、ごめん。

その後

ドラマや漫画ならそこから様々なストーリーに発展していくのだろうが、当然ながら、そのような展開はない。
あれだけ心をうばわれた空間だったが、ときに海水面より低くなるゼロメートル地帯への恐怖には勝てず、購入を思いとどまったリアリストである。

けれども、あのとき感じた高揚感だけは残っている。
素敵な空間があたえてくれるトキメキは、私を動かす原動力だ。
そんな「ワクワク」を書くことで少しだけでもお裾分けできたら、こんなに嬉しいことはない。

※noteほぼ毎日投稿2日めでした。また明日!

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