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違和感を表す。

これはあくまで、個人的なお話です。

わたしたちの外側には何も存在しない、すべてわたしたちの内側にあるという認識の上で書きます。

とても奥深い学びであったと思っています。

わたしは長女が幼稚園に入るまで、シュタイナー教育の子育てサークルに通っていました。

そこにいる間、ずっと違和感を抱いていました。シュタイナーの子育てはとてもいいものだし、素敵なことをしているこの人たちに対して違和感を覚える自分がおかしいのだろうと思っていました。

でも、一番最初、そのサークルが始まる前の説明会に参加した時、ピンクの長い布を基調とした、木のおもちゃ、草木染の羊毛、シルク、天然のもので満たされた世界がとても美しくて、その世界にすっかり魅了され「ここにいる自分をほめてあげたい」としきりに思ったものです。

あれから10年近くが過ぎて、今は思います。

「ここにいる自分をほめてあげたい」というのは、選民意識です。

なぜなら、そこにいない自分は認められないからです。同じように、そこにいない他人にその想いを投影し、他人を否定するようになります。

場所で人を仕分けるようになるのです。

シンプルな思考停止ですね。

その思考停止状態は、恐ろしいほど甘い蜜です。

陶酔してしまうのです。気を付けてね。

でも、人の根本というのは、学び続けるようにできているので、わたしはしばらくそこに通うようになって、どうしても違和感を覚えてきました。

シュタイナーが提唱するおもちゃ、シュタイナーが提唱する生活リズム、シュタイナーが提唱する食べ物、衣類、言葉遣い…。

自分の頭で考える必要がないのです。シュタイナーが言ってるんだからいいものなんです。それがどうしても私には理解できません。私は自分で考えて決めたいし、今までも決めてきたし、ここへ来るのも自分で決めたのに、ここにいる間はシュタイナーの言うことを聞かないといけない。

それをしないと間違っている気がしてくるし、そういう会話がなされます。現代社会の子育てが間違っている、と。

果たしてそうなのか?大事なのは自分の心の在り方じゃないのか?そう思いつつも、最初の衝撃、その場にいる陶酔感が忘れられず、ずるずると通い続けます。

この場からいつ離れるか?でも、そのタイミングがわからない。ここから離れて、私はちゃんとした子育てができるのか?

そうです。おそらく、こどもがいなかったら、そんな迷いも生まれなかったでしょう。わたしは、子どもを育てるのに、自分一人では責任が重すぎて、何か参考になるものが欲しかったのです。こどもちゃれんじにも手を出したけど、なんか違うなと感じて、やめてしまったし。

誰かに導いてほしかった。

だけど、それと、人生の主導権を誰かに明け渡しことは全く違います。

そこにいる間は、ここにいる安心感、外がいかに間違った場所なのか、会うたびに互いに確認しあいます。育児サークルで面倒を見てくれる先生も、それを助長します。現代社会の子育ては非常に危ない境地にある、と。

一言でいえばおどしだよ。どれくらい見た目が良くて素敵なものでも、言葉の端々に脅しを含めるもの、おどしてコントロールしようとするものに、ろくなものはないよ。気を付けてね!

しばらくしてから、ゾンビに追われる夢ばかり見るようになりました。

皆が話すことは真実かもしれない。でも、でも、でも…。

だからといって、誰かを敵とみなし、自分たちが正しいと思う、その心が一番危険なのではないか??

だって、誰かを敵だと思いたくないし思えない。それに、その感情が子どもに一番影響悪いんではないの??

物質に頼るのではなく、精神性こそが大事だというけど、自然なものばかり集めるこれも物質に頼ってるってことじゃないの??

精神性が大事だったら、どこで何しても大丈夫なんじゃないの??

そう思いながらも、違和感を唱える勇気がありませんでした。

私はずっと、そう思う自分が間違っているのでは、と思ってたから。

正しい皆の中の、自分はユダだと思ってました。

なんかそれはそれで、相当自己陶酔してるね。

結局、病気になってその場を離れた後、長女が私立幼稚園はいりーの、二人目妊娠しーの、で、徐々に我に返っていきました。

なんかあの頃は、そんなふうに離れることができるって発想もなかったな。

でも、そのあとも長いこと苦しんだなー。

シュタイナー教育はひらがなを覚えさせるのを7歳過ぎてからにするので、幼稚園でひらがなを覚えてきた娘がかわいそうで号泣してしまったんです。

その後、ひらがなを覚えて喜んでいる娘にともに喜んであげられなくて、本当にかわいそうなことをしたと気づいたとき、これはもはや呪いだ、自らの意思で解かないと、と感じました。

あるとき、シュタイナーさんが言うことは本当はどんなものなんだろう?と訳書を数冊読んでみました。訳書がこれまた「~しなければならない」「~すべき」の語尾ばかりで、読み終わった後はぐったりしましたけど、その訳書の奥、シュタイナーの伝えたいことは、私の解釈で言えば、彼の求めることは、この世に愛を広げること。そのための道しるべとして、わたしたちはどこからきて、どこへいくのかを示しているだけで、どこにいて何をしていても、根幹は同じ、ということです。

わたしは、わかる!わかるよシュタイナーさん!と思いました。

私の心の中で、彼は同志です。

だからやっぱり、ますます、その技法だけを追求するものは、ある意味で結果主義、物質にとらわれすぎて本末転倒だと感じました。


今では、シュタイナー教育そのものや、そこに携わる人すべてが間違っているとは全く思ってません。やはり、人それぞれだと感じてます。

要は、自分の頭を他人に明け渡しているかいないか、です。

自分の頭というのは、判断力とか、思考力とか、生きる力。

小さい子を育てて不安定な中で、「あなたには恐れがある」ってずびしっといわれるとね、自分の頭を相手に委ねてしまいそうになるんだよ。

そっか、わたしは子育てで不安なんだ、この人たち以外に理解者はいないんだ、そう思い込んでしまいそうになるから。

でも今はね、こう思いますね「そういうあなたこそ恐れている」と。

確かに、生活は不安定だけど、それはそれで楽しいし、不安と不安定は違うんだよねー。


えっとね、これは、誰かを責めたいという話ではありません。

むしろ逆で、誰もが間違える、だからこそどの人の間違いにも寛容でありましょう、というお話です。

あと、子育てでも教育でも、おどしがベースのものは碌なもんじゃないから離れた方がいいです。

なんか違うと感じたら、速やかに離れること、もし対話が可能だと思えたなら、相手に真意を尋ねることです。

相手にも心があるから。その想いを、勇気を出して知ろうとすることで、どんなことでも、驚くほど深い学びに変容します。

私はつい最近、それが本当に相手に寄り添うということなんだと知ることができました。

それが本当にうれしかったので、だから今回、これまでのことをきちんと書こうと、直感がおりてきました。

学びは尽きません。

でも、愛より大きなものはないから、結局は全て愛とは何かを知るためのレッスンなんですけどね。

間違えたと思えることでも、ドンピシャな感じに収まるんだよ。

安心していいし、心からゆだねられるようになるまで、繰り返したらいい。

今は、そんなふうに思います!

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