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多次元が折り重なって受肉する。3

全ての時間軸で、あらゆる選択肢を生きている意識体としてのパラレルの私は、どこかに遠く彼方に存在するのではなくて、今ここに、わたしという存在の中に同一にあります。そしてそれらが重なってできたのが今この瞬間の肉体なのです。

そして、その肉体から思考や感情が浮かび上がるということは、その経験を持つ意識体が私の肉体から離れ分離することで、その結果、言語として認識されるのです。その分離は、肉体をつかって行動し再統合するのです。

だから、なにも浮かばない状態。無の状態の時、わたしたちは意識と肉体が一つになった生命そのものとなります。

どんな状態であっても、生命であることに変わりありませんが、意識を動かしたとき、ひとは分離し、人間の意識になるのです。

だから、瞑想をして、こころのおしゃべりを止めるのです。

または、意識として浮上するものを素早く掴み、三次元で叶えることです。

つまり直観に従うということです。

けれども、この直観に従い、浮上した意識を現実化させることで、この世界に変化を起こし、波を立てて世界を変えていくこと。

それは、思考する人間にしかできないことなのです。

それがこの世を進化させていくのです。

それこそが生命の望みなのです。

だから、はじめに言葉があり、わたしたちは存在するのです。

動植物たちは、考えることなく意識を生命と重ね合わせて生きているからです。己の在り方を疑うことがない、それが自然の在り方なのです。

自分が生命であることを思い出すことです。

生命は神であり、愛であり、自然そのものの在り方です。

生命であることを知りながら、言葉に身をゆだねて生きるのです。

ちなみに私、想うんですが、この浮かび上がる言葉達って割と、おちゃらけてませんかね。

わたし、直感のとおり生きるとすればだいぶちゃらんぽらんなんですよね。

こどもがすることや、周りに対して思うことは、実は大体面白くってさいこーって感じてるんですよね。

でもまぁ、長年積み重ねた真面目癖で怒っちゃったり、悲しい振りしちゃったりするのですけど。それすら、心の底では楽しんでるんですよね。

だから、こうやってつーらつーらと書いてきたけど、生命は割と不真面目だと思うんです。

今まで生きてきて、それを味わうために生まれてきたなんて、カッコよくてとても言えません。

だけどもし、心の底ではめっちゃ爆笑している自分がいるなら、それを出してもいいんじゃないかなと感じています。

つまり、浮かび上がる感情と表の感情を同じくすることだと感じます。

それが、無であること、生命への近道なのだと。

無になるというのは、無反応になることではありません。

反応に素直になるということです。

無理しないで生きようね。

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