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愛すること、癒すこと。

HITキャラクトロジー心理学主催のプロセスグループに参加してきたのでそのこと書きます。
プロセスグループっていうのが何なのか、ちゃんとわからんまま参加しましたが、めーっちゃめちゃよかったです。
わたしの中の個人的な体験で、今わかっている分ですけども。

プロセスグループとは自分なりの解釈でいうと、愛すること癒すことのプロ集団が、日常生活では解消できない心の傷を存分に出し合って、愛してもらい癒してもらうことで自己成長を促す自立訓練ワークです。
そのワークの中で、わたしはかまってちゃんの自分がめちゃくちゃ出て、それを参加者さんたちの愛するという行動と視線で癒してもらいました。
わたしのかまちょは「自分がここにいることをわかってほしい」「自分の寂しさに気づいてほしい」という気持ちが原動力になってました。
察して欲しくてかまちょが出るんですね。
先生に母親転移して、ほかの参加者さんに母親を取られるようで嫉妬していました。
これは、この場だけのことではなくて、集団の中にいたら毎回出てくる傷なんだけど、普段はそれがあかんってわかってるから隠して取り繕ってるんです。
でも、プロセスグループの中では察してかまちょが、めーっちゃくちゃ出ました。
出すことを許してもらえる場所でした。
具体的に書くとバッキバキに泣きました。たくさんの参加者さんに慰めてもらえるまでずっと号泣してました。
泣いたら注目してもらえるって経験で思い出すのは、小学5,6年生の時に叔父を苦手に感じて泣いてしまったことがあって、そんな私に気づいた母が抱きしめてくれたことがあったから。
その成功体験をしてしまったので、苦しくなると泣いて誰かに気づいてもらえるのを待つようになったんです。
もう一度あのぬくもりが欲しかった。「もう一度傷ついている自分に気づいて抱きしめてほしい」が根源でした。

しかし、しかし、プロセスグループを経験した今わかるのですが、母親もその時たまたま気づいただけで、愛すること癒すことのプロではない人にそれを求めるのは土台見当違いなんです。
髪の毛のカットはプロの美容師に頼むように、傷ついた心は愛すること癒すことのプロに頼まないと、自分が望むような結果は得られないのです。
だから、わたしはいつも欲求不満で、気づいてもらって満たされるまで、察して欲しいかまちょを繰り返していました。
それは、母親を愛するプロだと勘違いした子どもの自分が、プロの癖に何でしてくれやんねん!って駄々をこねていただけ。
美容雑誌を母に見せて、こんな髪型にして欲しいのに何でできへんのって怒っても、母はプロではないし、わからないわけです。
むしろ、母は母なりの愛し方で愛してくれていました。
わたしは、振り返って寄り添う愛がほしかったけど、母はいつも励ますことが愛だと思っていたから、互いにすれ違っていたんです。
わたしはずっと愛されていたんだなぁとわかると、また涙が出ました。

専門家ではない日常で会う人たちに、私の欲しいを愛を強請ることは単なるハラスメントで、わたしがすべきことは、自分の傷を愛すること癒すことのプロに癒してもらいながら、愛するとはどういうものか体験して、自分を愛していく方法を覚えていくことです。
勿論わたしもプロではないから、自分以外の愛のニーズを満たすことはできないし、気づくこともできない。
だから、自分のことを愛することから始まるんです。
そうして、人との適切なかかわりを結んでいく。
わたしには、たくさん誤解があるけど、愛し方は一通りという誤解があったし、癒されたらその傷は繰り返さないという誤解もありました。
完璧な人がいつも笑顔で輝いている、それが理想像でもありました。
でもそれは見事な見当違いー。みんな学びの途中で、繰り返して繰り返して、それでもあきらめずに自分と向き合って、傷を見つけて癒していくこと、自分より癒しを進めた専門家に頼りながら、自分を愛するを学んでいくことなんですなー。
それがわかったのは、やっぱりプロセスグループで、思う存分満たしてもらえたからです。
また傷からかまちょを繰り返すこともあるだろうけど、そのときは、察してよって泣いてるこどものわたしと、察して欲しいんやなぁって気づいてる大人のわたしとがいるから、わたしの中でかまちょを解消してあげるんだよね。かまちょはあかんやろってジャッジしてる、大人のふりしたわたしもいるけど、そこはいりません。それくらいたくさんのわたしがいるんだけど。
本当に本当に、世界の平和を望むなら、自分のこころの葛藤に取り組んで、癒すこと愛することなんよなぁ。
参加したみなさん、本当にありがうございました!

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