何をしに生まれてきたか。
この地球に、何をやりに生まれてきましたか。
私は割と修行ベースで生まれてきた感じがある。
なんでも修行にしてしまいがちで、やりたい、好きと思って始めたことは、大体修行っぽいものである。
我慢したり、自分を律するのが好きなんだよね。自己管理っていうか。
筋トレとか、体重コントロールとか、曼荼羅描くのもそうだな。
だから、このいまの自粛期間も、修行的な感じだから苦にならない。
修行が好きなんだと思う。
しかし、修行が楽しいかっていうと、正直微妙な気がする。
最近、ゆるしとは何かについて意識を向けることが多くて、過去の許せないことがたくさん出てきた。
相変わらず、ゆるせない人とか、出来事あるなー。
特に、ゆるせない自分がだめだとは思わないからいいのだけど。
その人たちに対する反省の意味も込めて修行的であるのかも。
だけど、愛し愛されること、楽しみに耽ること、喜びを味わうこと。
そういうのにほんまフォーカス向けられなくって、そういうのをしている人たちに対して、くっそーって思ってたって気づいたんだよね~。
でもそれって、愛し愛されたいし、楽しみに耽りたいし、喜びを味わいたいってことやん、爆笑。
って気づいたんだよね~!
でも、気づいた瞬間、あれ?意外と私今それ出来てるなーとも思ったの。
自分がしていることを楽しんでる!
だから、楽しめてない、苦しんでいるっていうのは、過去の私又はほかの誰かの幻想で、そちらの方を手放せばいいわけだな。
過去が繰り返されるんではないかと、危惧して不安に思ったり、イライラするのだけど、今は大丈夫って、つぎは大丈夫って感じることが、他者や自分、世界に対する信頼につながる。
だって、今は過去ではないもの!
今までの、どんなこともあることに意味があって、私の中の、どんな感情も持っていていいものだ。
意味はなく。因果はなく。現象があるだけ。
生命として表れているだけ。
生きることの喜び。
わたしにとっての喜びって、ずばり瞑想なんだよなー。
修行としても、快楽としても、とにかく瞑想はスルメ。
できることなら瞑想だけして生きていきたいなーって願ってたけど、生活そのもの、生きることそのものが瞑想だから。
掃除も、洗濯も、料理も、運転も、趣味も、仕事も、ぜーんぶ瞑想だ。
それでいえばだよ。
今のこの生活、それらの日常的な営みの中に、隙あらば座って目を閉じてジッとして、ガチの瞑想にも耽っている。
だから、ばっちり願いが叶っているわ。
これは、昨年の修行「できるだけ直感のとおりに行動する」の結果だわ。
その繰り返しによって、もはや直感の言うこと聞かないと違和感で何もできなくなるようになってきた。
やるぅ。どう転んでも愛だ。
あんまり隙あらば瞑想してるので、最近夫から「瞑想かーちゃん」と呼ばれた。
わたしと夫は表立った性質が全く相反しているのだけど、実は、物事の本質は瞑想であるってとらえているところが共通している。
瞑想の深さで言えば彼の方がはるかに深い。
だから、彼と話していて気づかせてくれることがたくさんあって、今朝にもその一つがあった。
それは、お金を稼ぐ生き方より、喜びを選択した結果にお金が発生する生き方を子どもたちが選べるようにしていけたらいいなってこと。
わたしよりうんと今の時代にフォーカスしている彼は、急に花壇を作って家庭菜園始めたり、そういうことをふいに言うので、やるなぁって思ってる。
だから、子どもたちが喜びに一生懸命でいられるようにサポートしていくことが、わたしたちにできることだなーって夫婦の認識。
そういう、何か過去に捉われている感情が見つかると、それがすぐに新しい気付きとなって入れ替わる出来事が、最近ひんぱんに起こっていて。
なんていうか、生きるのが楽しい。
うん、ハチャメチャに楽しんでる。
未来の展望も開けた、今も十分したいことができている。
愛だ。
深い愛。
なんで私はその愛に、いつの間に気づいていたんだろうか?
奥深く探っていけば、やはり、愛されてきたから。
出会う人たちと、生まれる前から。
生まれてからもずっと。
あらゆる側面、人と人。
分かり合おうとすること。すれ違うこと。
全部、楽しいし愉快だ。ゆるせることも、ゆるせないことも。
やっぱり、楽しむために生まれてきたのだよな。
遊びに来たよ。
これからもっともっと楽しみたいな。すごく楽しみ。
今まで真面目に修行してきた分、これからはっちゃけるぞー。
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