出来ることは瞑想。

ここ最近、ほんまに書くことがなくて。

わたしにとって書くという行為には、①経験する⇒②その出来事を一度胸の中に留める⇒③客観視して言語化する、というざっくり三つのステップを踏むんですが、この②が最近ほんとにできなくて、つまりものっすごい忘れっぽくなってて、感情も思考もするすると流れていきます。

あんまり何にも気にならないんです。

人との違いが楽しいんです。

誰かと相対したり、SNS見たりしたら、みんな、立派に働いてるし、子育てしててすごいなぁ、とは思うんですが、目の前から消えたら忘れちゃうもんで。

やばい。なんか始まってるで。

今朝なんて、娘の髪の毛くくるゴムを探すのに、冷蔵庫開けて「ゴムどこやっけ?」ってやってたもんね。

今まではいろんなところに作っていたダムが、ただの自然な川になったみたいなもんで。ダムって人工物だもんね。

その理由は今までの全部といえばその通りなんだけど、心当たりが一つあって。

私は自問自答大好き人間なんで、自問自答って要するにかみさまとのやりとりなので、何でも自問自答で解決すると思ってるんですが、割と長い間、繰り返しているやりとりがあります。

「世の中が良くなるために、わたしのすることってなんだろう?」

「それは瞑想」

いや、なんか職業に就きたいと思っても「瞑想」、今年はなんか稼げる気がすると思っても「瞑想」、落ち込んでいても「瞑想」、お気楽な気分でも「瞑想」。

いっつも、ずっと前から、瞑想こそわたしのすることですと自答してきました。

その瞑想とは、常時瞑想。

もちろん座って目をつむってその時間を設ける特別なものも大事だけど、いつでも、どんなときでも、己を静観し、感情を受け取り、正直に生きるということです。

それは心の掃除です。

掃除しなければ埃がたまるというのは、その場のエネルギーが落ちるからです。掃除をして手入れし、チャージすることで気持ちの良い空間を作る。

瞑想も同じです。わたしの内側を掃除できるのは自分だけですから、とても責任のある行為だと思います。

そして料理と同じ、己と向き合い、自らを知り、味付けしていくものです。

わたしの生きる目的や意味は、外側に求めるものではなく、あくまで瞑想することによってえられるみたいです。

そのことに腹を括ってから、ほんとになんかぼけーっとした日常になってしまって、感情の起伏ももちろんありますが、とにかく出したら内省する。自分自身とずれていると思ったら反省する。正直にまっすぐ生きられているかか確認する、その作業ばかりです。

そうすると溜まらないので、書くことなくなったんですが、できることは瞑想であること自体を書こうかなって思ってそのままにしてきたんだけど、まずはちゃんと出します。

出したものが返るからね。ちゃんと宣言します。

わたしが、この世のあらゆる全てとかかわり、よくするためにできることは瞑想です。

出会いはすべて必然なので、特別な何かをする必要はありません。

すべて最初から、当たり前に、特別なんです。

わたしの身体はとても小さいけれど、私の行い、発する音の広がりは無限です。だから、わたしは全体をよくするために生まれてきたし生きています。

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