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人生という舞台。

うちの父は、母にだけ暴力的支配的にふるまい、その姿を絶対に母以外の前では見せずに生きてきた。何度、母からその話を聴いても、いまいちピンとこなかったのが、今日は母と話していたらバーンといろんな点と点がつながった。要するに母は父から長らくDVを受け支配されていたことがわかり、受け身な父に攻撃的な母という姿は見せかけのもので、実際の力関係はその逆であったと理解すれば、あれもこれも繋がり、そのことについて母と語り合う。父をどうこうするつもりは互いになく、今後、母は母の幸せだけを考えて生きていくこうと誓い合う。人はみな多面的で、その触れ合う面の組み合わせて短所と長所が決まるのだろう。しかしだからといって、支配と被支配は両成敗とはいかない。わかった側から離脱するしかそのゲームは終わらない。これは父憎しという感情的なお話では全然なくて、結局、この夫婦の課題をどこで終わらせるか、母は私に引き継ぐつもりはなく、私も娘たちに残すつもりはないので、何をもって決着とするのか。ひと時で決まることではない。取り組んでいこうと思う。

その後、スーパーで長女より学年は一つ下だけど、幼稚園も小学校も同じで仲の良かったお母さんと久しぶりに再会して、世間話をしていく中で、互いに娘が不登校気味と分かり、意気投合する。母子のやり取りを互いに話し合っていく中で、「わかるー!」「そうそうー!」と盛り上がって、最後はスーパーの玄関で固く握手してお別れ。不登校って不がつくからなんかよくない感じになるかもしれないけど、簡単に書けば選択の一つだし、誰でも彼でもこの四角いコンクリートに囲まれた集団生活が問題なく営めるわけではないから、無理するぐらいなら登校してくれなくていいし、基本わたしは娘たちの人間性を最高だなと思っているので問題ないんだけど、同じ境遇の人がいるとこんなに心強いものなんだなぁ。

ことばが与える印象。それに感情が支配されていることは大いにある。

私は弱い立場にいる人に、寄り添えているだろうか。その気持ちを理解できているだろうか。自分というものを押し付けたら、それは暴力だと思う。でも、時には戦うことも必要なのだ。笑ってごまかすなんて、いっそ害悪だ。

明日何があるか、本当にわからない中で、己の真実は何かを見極め続け、嘘偽りなく生きていくんだと改めて思うと、むしろ今まで気づかなかった、偽りの仮面がどんどん剥がれていく。そうすると反省も多く、いろんなことに気づかず生きてきたなと感じるけど、今が最終地点ではないので、絶対に正しいものなどないと、チェック&修正の繰り返し。

自分が幸せになるってどういう状態だろうと考えたら、それは人と分かりあえたと思える瞬間だと感じたから。

何かを作ること、演じる事、産み出すことは、全部そのためのツールじゃないのかな。

それが人生っていう舞台。

というわけで、3月21日は、和歌浦アートキューブD1で「親子で描いた曼荼羅展」を行いますよー。ぜひ来てね!

8月31日は、和歌浦アートキューブで親子えんげき塾の第二回公演「古事記の傳へ」を上演しますよー。こちらもぜひ!



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