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1人でやるべしと思われていることを、あえて他人とする意味

今日は片付け祭りを開催した。


会場は我が家の押し入れ、クローゼット。開催時間は約3時間。もう何年も停滞していた空気が動き始めた。不思議なもので、クローゼットの扉を閉めればその外観は全く同じはずなのに、なぜかスッキリして見える。

私は片付けが苦手だ。
苦手だけど、片づけの資格を持っている。10年ほど前、今の家に引っ越しが決まった時「このままでは新居がヤバい!」と思った私は片づけの勉強を始めた。


そしてその勉強が楽しくて、片づけの資格をとった。だが残念ながら、資格をとっても片付け上手にはならなかった。これは自分の実感なので、おそらく片付けができないわけではないと思う。


我が家はそれほどものが多くはないし、床にものが散乱しているわけでもない。だけなんだか、スッキリした感じがないのが悩みだった。


この悩みを一緒に解消して、毎回片付け祭りの段取りをしてくれるのが、友人の佳世ちゃんだ。


今日の片付け祭りもノープランだった。佳世ちゃんは我が家にやってきて「どこが気になる?」と私に聞く。

「布団の行き場と定位置がない」

そうなのだ。夏場の片付けは、かさばる冬布団と(まだ出てるんかい!というツッコミはなしでお願いしたい)かさばる衣類で、収納スペースにゆとりがない。


そんなところから寝室のクローゼット、階段の収納スペース、息子のクローゼットを見渡してまず全部出し。そこから不要なものを出して、スペース確保。あっという間に、布団収納スペースを確保した。


その後は私のクローゼットの間引き開始。一定全部出して要不要判断をした後なので、残っているのは必要な衣服と「もう着ない気もするけれど、捨てる勇気がないもの」だ。


これも佳世ちゃんと話しながらだど、どんどん手放す判断ができる。これは生地が傷んでいる、これは着られなくはないけどときめかない、これはこんな場面で活用できるから残してもいい。自分1人では判断しきれなかったものが、どんどん分別できる。

おかげさまで約3時間の作業でかなりスッキリした。



この3時間の作業でここまで進むのは、片づけの知識があることと、何度も要不要の判断をして、物が少ないという下地があるから。だけど「普通なら自分1人でやることと思われていることを、他人と一緒にする」ということに、大きな大きな意味があるのだと思う。


まず単純に時間だ。2人で3時間の作業なら、1人だと6時間。まてまて、佳世ちゃんは片づけのプロだ。素人の私1人なら9時間かかっても同じレベルで片付けることは不可能だろう。(資格持ってるんとちゃうんかい!というツッコミはなさらぬように)

あとは「俯瞰力」

自分で自分のことを俯瞰することは難しい。他人のことだから俯瞰して、次の行動アドバイスができるのだ。私1人で片付けたのなら、扇風機の位置を変えることもなかっただろうし、兜やお雛様の位置を変えることもしなかった。



「普通なら自分1人でやることと思われていることを、他人と一緒にする」ということに、大きな大きな意味がある。


私は手帳講師として活動を始めて5年が経つ。
手帳なんて1人で書いて使うもの。その書き方を教わる必要がある?と思うのが普通だろう。だけどそれをわざわざ習い、誰かとやることに意味がある。


手帳を買う人は何らかの形で「今よりも暮らしをより良くしたい」そう思っているはずだ。じゃあ、1人でそれが実現できないのなら、誰かに教わり誰かと一緒にやればいいと思うのだ。


1人でできる人はもちろんそのままでいい。


だけどうまくいかなくてもやっとする人と、私は共に歩みたいと思う。私にあったからといって、全てがうまくいくとは言わない。でも一緒にもやっとしながら、あなたの思う意を俯瞰して、整理整頓する。そして一緒に歩んでいくことはできると思っている。


私が佳世ちゃんに片付けをお願いして、短時間で空間をスッキリできたように、私と話すこととで、短時間でスッキリ手帳思考を手に入れる。


もう一度いう。


「普通なら自分1人でやることと思われていることを、他人と一緒にする」ということに、大きな大きな意味があるのだ。






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