私が救いたかったものの話
ただのおかかの昔話です。でも、どうしても、この話を今日、今、書きたいので、つらつら書くことにします。長いです。誰の目にも触れるところに出すような文章ではないと思い、有料にすることも考えましたが、それでは意味がないとも思ったので、誰でも見られるようにしています。では、はじめます。
私は2年に上がる時に、大学を中退している。専攻は心理学だった。
この世の中には、大小、深浅はあれど、取りこぼさずにいることが難しい人がたくさんいて。自分もその一人だと思っていたし、だからこそ、同じような誰かを助けてあげたいと思ったのが、心理学を専攻したキッカケだった。でも、当時の私の心は、誰かの話を客観的に、適切に受け止めるには、あまりにもボロボロだった。
私の育った家は、きっと普通だったのだと思うけれど、私にとっては、押し込められ、戦わねば心が押しつぶされてしまいそうな家だった。でも、押し潰されてしまう程弱くはない気性のせいで、日々戦っていた。
中学3年生の時、大好きだった祖父が亡くなった。祖父はお嫁さん(つまり私の母)をとても大切にしていて、一緒に住んでいたこともあり、良く気遣っていた。祖母も気は強いが、祖父にたしなめられると納得していた。私は”みんなのうた”に合わせて、変なダンスを楽しそうに踊る祖父が、怒られて外に出された私をそっと諭してくれる祖父が、グンナイ(Good night)と何故か英語で、おやすみの挨拶をする祖父が、本当に大好きだった。
祖父を亡くしたあの時から、少なくとも、祖母、母、私の3人は、心の拠り所を失い、家庭内の緩衝材がなくなった。嫁と姑の間に立つ者はおらず、母に矛先が向くのが嫌で、何かにつけて母を攻撃する父や祖母に楯突き、大ゲンカすることも多かった。少なくともそこから少しずつ心が過敏に、傷だらけになった。
大学生になる頃には、私はすっかり心の糸が切れていた。もう、家を出たくて仕方がなかった。親の加護のもとを去りたかったのだ。そして、言った。彼氏と同棲すると。
当然反対され、同棲するなら結婚しろ!という売り言葉に、じゃぁ、結婚したるわ!と買い言葉を放ち、めでたく結婚して、家を出ることになった。でも、呪縛はそう簡単には消えなかった。
私が縁を切った一番決定的な一言は、母が言った「子どもが出来たら、あんたも変わるやろ」だ。結局、私が大人になることでしか解決しない。子どもながらに、母と祖母の関係に悩み、それを助けもしない父に憤り、矢面に立ち続けた私が、大人になることでしか、丸く収まる道はないのだと。
母は悪くない。祖母に影で悪態をつきつつも、理解し、一緒に生きていく覚悟をしているし、父のことも大切に思っている。祖母も、何だかんだで、母も含め家族だと思っている。
大人になった私は、そのことをきちんと理解し、だからこそ、母を含めた実家と距離を置くことを決めた。とてもズルいのかもしれない。子どもっぽいのかもしれない。恩を仇で返したのかもしれない。
でも、私には今の、私が選び作った家族が大切なのだ。実家に帰る度、心が疲弊して、余裕をなくし誰かに当たるのは、不毛だと思えてしまったから。
昔話をし過ぎたので、話を戻すけれど。私は、そんな自分を救いたかったのだ。そして、そんな自分と同じように、もどかしく生きる人を救いたいと思ったのだ。
でも、今は知っている。私が誰かを救えるほど、心がしっかりしていないことを。誰かを救うには、まず自分がしっかり立っていなければいけないのだ。悲しいニュースを見る度に、心を伝染させ過ぎないようにするだけで、精一杯なのだ。
でも、最近の色々を見て、ずっと考えている。どうすれば、誰かを救えるのか。誰かが、ほんの少しだけ生きようと思えるような言葉は何なのかと。私に救ってあげられなくても、その延びた数分が、新たな救いへの道をつないであげられるかもしれないのに。
そして、この文章を書いて気が付いたこともある。私はやっぱり自分が育ってきた家の人間なのだと。愛という名のもとに、縛り付けてはならないと自戒しなければならない。
誰かを追い詰めたり、縛り付ける力が言葉にはある。ネガティブは簡単に伝染するのだ。言葉はそれほどに強い。でも、逆を返せば…と、延々廻る考えの中、今日も私は生きている。
高校生の頃、大人になっても、このジクジクした気持ちを忘れたくない。そんな大人になんてなりたくないと思っていた。でも今は、分かる。それだけでは、生きてはいけないのだ。
長く生きるためには、どうしても苦しさだけにとらわれてはいけない。世界の不条理に憤っているだけではいけない。その先の未来が、今信じられなくても、美味しいなぁとか、この曲好きだわとか、あのドラマ観たいとか、そんなことで少しでも存えて欲しい。そのジクジクを上手に出し入れして、少しずつ乾かして欲しい。
少なくとも、私はそうして生き存えて、幸せだと思える日々を送っている。もちろん、誰かに幸せを保証してあげることはできない。でも、誰にも救いあることを願っている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?