布団に溶けた私はどこの誰なのだろう

自分を見失うとか、みんなよく言っている。私はここ10年ほど、なにか自分にしっくりとした感覚がない。

本当の自分がわからないと嘆く人に、周りの人に明るく接するあなたも、家でしとしとと泣いているあなたも、あなた自身なんですよ。と言ってくれる人がいる。けれど、その言葉にいつも納得できないのは、「しっくりとした感覚の無さ」があるからだと思う。

私はこれでいいんだ。これが私だと力強く思い、それを心の底から肯定できる、そのしっくりとはまる感覚。なんだか昔は、自分自身にしっくりとした感覚があったと思う。嫌な奴にからかわれても、友達にバカにされても、友達が人をいじめていたらなぜいじめるかを問うていて、誰かが嫌なことを言われたらかばい、遊びたくないと思えばその場ですぐに断っていた。

自分の中の意思がはっきりしていて、その基準で生きていた。今はどうだろう。今はどうなんだろう。

今は自分を守るために自分を傷つける方法を学んで、それを実行している。

世の中は本当に、成長していくごとに複雑化しているのだろうか。小学生の人間関係は単純で、大人はいつも複雑なのだろうか。最近思い始めたけれど、人間関係のベースはただ、その人を好きと思うか、信用できると思うかそれだけなように思える。

私は、もう充分頑張ったと思う。みんなができることが出来ないのに、みんなができることを一生懸命できるようになろうとした。

頑張れば頑張るほど、みんなと同じことができるようになったけど、自分はどんどんつまらない人間になった。皆ができること頑張らずに自分のなりたいように頑張っていた時、自分のことは好きだったのに、もう今は自分のことですら「面白い人間」と思えなくなってしまった。

不自由な人間だと思う。もっと器用に何事もほどほどにできたらいいのにと思う。私は、心から望まないものも全力を尽くしそして燃え尽きる。

本当は消えてしまいたい。皆ができること、皆が普通にできることもできない自分なんか、バカにされるだけだと思うから。

でも、皆が普通にできることもできないことを批判する人も違うのだと頭ではわかっている。だってみんな同じなわけないのだから。人それぞれの長所を生かせばきっと居場所はあるはずだから。

見えない”大多数”に怯えながら、私は自分の望む価値ある自分になろうともがく。うねうねと、じたばたと、滑稽に、みすぼらしく。私の顔には砂がかぶり、手は砂に混じった小石で細かい傷がつく。皆は二本足で立ち、私を見下ろし少し笑い、その場を去っていく。私は立ち上がることもできず地面を這いずり回りながら、そこからの景色を眺める。そこには立っていた時には見えなかった世界が広がっていた。私は、その世界を美しいと思った。私はその世界が好きだった。私はうれしくなりまたじたばたと体を動かした。それを見た人々は私を鼻で笑い、私はこの幸せに心から笑った。

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