空気を読む子供

私は、昔から絵を書くのが好きだった。

幼稚園と小学校の時は、親に見られる場面で絵を書くとき、
いつもいきものは笑顔にさせていた。

それは、小学校低学年か、幼稚園の頃母が「なっちゃんはみんなが笑っている絵をかくね」と喜んでいた姿を見てからだ。

私は、それまで自分の絵の登場人物が、笑顔であるという事を考えたことが無かったし、笑顔の絵を書くという事に少し誇らしさを感じている母を見て、これが正解なのかと思った。当時の私はきっと笑顔以外の顔の書き方を知らなかったほど、絵の技術はつたなかったのだけれど、母が求めている物を考えられないほど幼くなかった。

それからは母の目に留まる絵は必ず、笑顔にすることにしていた。
笑顔の絵を書くことで、母親は満足して私を見捨てることはないだろうと思った。
母親は、私たち姉妹を自分の親や親族、周りの人にとって評価される「いい子」であること強く望んでいるような気がした。そして、家ではどうしようもない父を家庭から仲間外れにしていた。まるで、母の望む周りに評価される「いい子」でなければ、お前らはあちら側になるぞと脅されているみたいに。

だから私は、この家では「この家に生まれてよかった」という顔をすることにしていた。母と同じように父を嫌い、母を妄信的に肯定する。それは、絵だって同じことだった。

表現が制限されることの苦しさは年を重ねるごとに強くなり、隠れて絵を書くようになった。隠れて描く絵のほとんどはもう笑っていない。私は一生分の「笑顔」を書き終わったのかもしれない。私の絵はいつも無表情で、気持ちわるい虫やロボットを好きで書く。母親の望むような明るくて優しい私ではないことがどうしてもわかってしまう。
それ以降も、母親の望むような行動をしないと見捨てられてしまうような恐怖感に、私は静かに苦しんでいた。

私は笑顔の絵を書き始めた当時、いつも黄色の服を着て、毎年夏休みには母方のおじいさんの畑に向かった。
黄色の服を着るとなぜか母は喜んだ。「なっちゃんはきいろが似合う」とか「なっちゃんはきいろがすきだね」という声に私は素直に従って、好きでも嫌いでもない黄色の服を、喜んだふりして着ていた。

母方の祖父母の家にはお盆休みに一週間ほど母と姉と共に滞在し、はじめはとても楽しかった。昔ながらの日本家屋で私が好きな虫取りやセミとりがとても簡単にできる。けれど、何となく感じていたのは、おじいちゃんの意向を孫として聞き入れることを母から望まれているという感覚だ。おじいちゃんは畑が好きだ。けれど、私は年を重ねるごとに畑や虫取りに興味を失って、姉と一緒におじいちゃん家でゲームがしたかった。けれど、おじいちゃんが畑に私達を誘うと、姉は素直に断り、母に行ってほしいというような目をされるのだ。私は、畑に渋々行くけれど、おじいちゃんを傷つけたくもないので無理していきたいふりをする。
私はこれを接待畑と呼んでいるのだけれど、小学校高学年になると接待畑をして、祖父母の顔を伺い、母が「なっちゃんはいい子に育ったね」と子育てを褒められるように全身全霊で「いい子」を頑張るおじいちゃんの家も息苦しい場所になっていった。

もう二十歳を超えて母方の祖父母はまだ健在であるけれど、もう祖父母に会いたくないと思ってしまう自分がいる。祖父母も、私のことを妄信的に認めてくれるような人たちではないと思ってしまう。祖父母は二人でご近所の娘や孫の職業や生き方について文句を言いあっている。例えば、就職して一人ぐらしをして、1人暮らしに耐えられなくなって、実家に帰ってくる孫、とか。そんな話はいくらでもあるけれど、厳しい時代を生き抜いた祖父母からしたら考えられないようで、とても酷くその人のことを批判していた。

そう思うと私は、祖父母の理解できない状態にあるのだと思う。もう、母の望む”娘”や祖父母の望む”孫”になれなくなってしまった私は、どこに楽に生きられる自分があるかもわからなくなって、どうにもこうにも、おかしくなっていく。

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