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レトリック

『運転手が速度違反をしたら、速く走れる車をつくった開発者も罰しなければならない。そんな理屈が通らないのは常識だと思っていたが、ソフトウェアの開発をめぐってはそうではなかった。』

朝日新聞2006年12月14日社説:Winny裁判の有罪判決に関して

私は、この手のレトリックが嫌いだ。

そんな理屈が通らないのは常識だと思っていたが、』という言い方によって、そう思わない者は常識を持たない人間であるという雰囲気を醸し出すことをよしとする考え方が嫌いなのだ。

いまとなってはずいぶんと前の判決ではある。判決の内容についてもいろいろな意見があるだろう。この社説もそのひとつだと言うこともできる。

しかし、私自身は、科学者・技術者は自己の開発するものに対する影響について考慮する倫理的な責任があると思う。決して通らない理屈ではないと思っている。

科学者・技術者の倫理的責任の範囲について、そしてその責任が取れるか否かについて、簡単には言えないことは承知している。しかし、その上で、プロとしてのdisciplineという視点から、今回の件では、disciplineの基本的な欠落があるのではないかと感じるのだ。

発明されたり、開発されたものがどう利用されるのか、その影響を自分はどう考えるのか、開発者は考えることを怠けてはいけない。

日ごろ、たびたび立ち戻って考えている本に、リチャード・ローズの「原子爆弾の誕生」がある。読むたびに、科学にたずさわるものの責任という簡単には解けない問題を考えずにはいられない。

『ソフトの開発では、まず無料で公開し、意見を寄せてもらって改良するのが一般的な手法だ。しかし、今回の判決では、公開した時点で、悪用されるという認識があれば有罪になるというのだ。』

朝日新聞2006年12月14日社説:Winny裁判の有罪判決に関して

このレトリックにも疑問だ。犯罪計画を立てるのに使った紙の販売者も罪に問われるのか?というロジックと同様の、極端な一般化が滑り込まされている。

そして、文末近く。

『ソフトの開発の芽をつまずに、著作権を守ることを考えねばならない。それには認証をとった人だけが使える管理機能を設け、利用者に課金するようなシステムをつくる必要があるだろう』

朝日新聞2006年12月14日社説:Winny裁判の有罪判決に関して

課題の本質は何かということを考えたとき、今後100年を見据るといった類の見識を、私はこの社説から感じることができない。

それは、正しそうな意見によって歪められ、行われたことも、多々あると思うからだ。そして、そういう議論に警戒感を抱いてしまうからだ。




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