レトリック
私は、この手のレトリックが嫌いだ。
『そんな理屈が通らないのは常識だと思っていたが、』という言い方によって、そう思わない者は常識を持たない人間であるという雰囲気を醸し出すことをよしとする考え方が嫌いなのだ。
いまとなってはずいぶんと前の判決ではある。判決の内容についてもいろいろな意見があるだろう。この社説もそのひとつだと言うこともできる。
しかし、私自身は、科学者・技術者は自己の開発するものに対する影響について考慮する倫理的な責任があると思う。決して通らない理屈ではないと思っている。
科学者・技術者の倫理的責任の範囲について、そしてその責任が取れるか否かについて、簡単には言えないことは承知している。しかし、その上で、プロとしてのdisciplineという視点から、今回の件では、disciplineの基本的な欠落があるのではないかと感じるのだ。
発明されたり、開発されたものがどう利用されるのか、その影響を自分はどう考えるのか、開発者は考えることを怠けてはいけない。
日ごろ、たびたび立ち戻って考えている本に、リチャード・ローズの「原子爆弾の誕生」がある。読むたびに、科学にたずさわるものの責任という簡単には解けない問題を考えずにはいられない。
このレトリックにも疑問だ。犯罪計画を立てるのに使った紙の販売者も罪に問われるのか?というロジックと同様の、極端な一般化が滑り込まされている。
そして、文末近く。
課題の本質は何かということを考えたとき、今後100年を見据るといった類の見識を、私はこの社説から感じることができない。
それは、正しそうな意見によって歪められ、行われたことも、多々あると思うからだ。そして、そういう議論に警戒感を抱いてしまうからだ。
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