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写像としての薫

ここのところずっと薫について考えている。性獣・匂宮に比べて、おっと失礼、自分の感情と愛に正直な匂宮に比べ、何故、薫は「気持ち悪い」と言われるのかについて。

もちろん、薫というのは、『源氏物語』宇治十帖で、ウジウジと煮え切らない態度のあの薫だ。匂宮の方が人気があって、どちらかというと薫はキモいという風に受け取られてしまっているらしい。そこに納得がいかない。

そもそも匂宮は変な奴なのだ。望まないのになんとも言えぬ良い香りをただよわせ、100歩さきまで香しく、逆に体裁が悪いくらいで、人目を忍んで立ち寄る物陰にもすぐに彼だとわかってしまう、そんな薫に嫉妬し、匂宮は、ありとあらゆるすぐれた香を薫きしめ、朝夕の仕事として調合に励んでいる。私からみれば、匂宮の方がよっぽどオタク気質でキモい。

思い返せば、あの光源氏(光君)は「オマエ、人生何周目?」というほどのチート属性だった。聖なる光といえば聞こえがいいが、まったくそんなことはない。

では、匂宮と薫のどちらに聖性(チート属性)があるかといえば、人のあやしむ香りが生まれながらに染みついてしまっている薫なのだ。それに比べて、匂宮はあまりに人間的な俗人だ。

本来であれば、寿がれてもよい薫のチート属性は、しかし、キャラ付けとして祝福と呪いとして働く。薫はどこに言っても身バレしてしまうし、その出生については、公には身バレせずとも、薫自身、常に「自分とは本当は何者なのか」と問うような鬱屈した若者だったことだろう。

だから、薫は若いのに仏教に帰依したいと宇治くんだりまで足繁く通ってしまい、いまいちな八の宮と意気投合してしまうのだ。それは、彼の聖性と世俗性との相克であり、祝福と呪いだ。

そんな具合に、私は圧倒的に薫派なのだが、なにしろ薫は分が悪い。宇治川に船を浮かべ、愛欲に目覚める浮舟と一緒にいる美しい擬似ヒーロー、匂宮の方に分があるのだ。

これには何か理由があるはずだ。私が理解していないだけで、きっと薫が嫌われる理由があるのだ。そう思ってそのことをずっと考えている。

まぁ確かに、薫には永遠の厨二病的なものがあるとは思う。

そういえば、先週、ドストエフスキーの『地下室の手記』を読んだのだが、『地下室の手記』の主人公も厨二病的にはかなりだ。ちなみに私は光文社古典新訳で読んだ。

はっきりいって、『地下室の手記』の主人公は、筆舌に尽くしがたい「うげっ」というほどのスーパー厨二病型個性の《人形(ひとがた)》だ。

訳者である安岡氏はこう言っています。

今、「おぞましい」という単語を思わず使ってしまったが、地下室の住人の言葉には、「おぞましい、嫌らしい、ぞっとする、呪わしい、忌々しい」と言った形容詞がいかに豊富に多彩に使われていたかを思い出した。
語り手自身が、「わざとアンチヒーローのあらゆる特性が集まられている」と言うだけあって、自意識過剰で猜疑心が強く、嫉妬深くて気も弱いくせにプライドだけは人一倍たかく、人とつき合うにしても、相手を愛することができずただ独占欲が強くて暴君のように振る舞うだけという、どこから見ても人好きのしないまぎれもないアンチヒーローとつき合うのは、訳者としても本当にしんどかった。

ああ、これかぁ~と思う。薫は『地下室の手記』の《俺》に似ているのだ。もちろん、薫は『地下室の手記』の《俺》よりも身分があり、もっとずっと普通に振る舞えてはいる。しかし、確かに薫は『地下室の手記』の《俺》の映し鏡のような存在なのだ。

『地下室の手記』の《俺》や薫の気持ち悪さは、グループ魂の『君にジュースを買ってあげる』の《僕》にも似ている。

『君にジュースを買ってあげる』は、紅白で《魂》と書かれた便所スリッパを会場に向かって投げつけた、あの”グループ魂”が歌ったケロロ軍曹のop曲であり、大学時代、友達もなくずっと地下の図書館に籠もっていたと自称するうちの子どもの愛唱歌だ。そんな子どもを私は愛しているが、まったくもって愛とは複雑な感情だといえる。

下記の映像は、《不適切にもほどがある》という内容ですが、参考資料として提示しよう。『地下室の手記』のバリエーションであれば、本当はグループ魂ではなく、格好をつけて、ウディ・アレンの『ボギー!俺も男だ』か、テリー・ギリアムの『未来世紀ブラジル』なのだが、より直裁なグループ魂のYoutube MVが(不)適切だろうと思う。

そうこうするうちに、少しずつ私の中で、薫が嫌われる理由が明らかになってきたような気がする。

実は私は、薫が大君の《人形(ひとがた)》として、中の君や浮舟を好きになってしまうことの一体どこが気持ちが悪いかを理解できていなかった。

「んなこと云えばだよ。そもそも光君は桐壺の面影を追うマザコン野郎だし、あげく藤壺に手を出し、その延長線に位置する若紫をいいなぁ~って思ったわけじゃない。藤壺だと、あんまり言うことを聞いてくれないし、立場的にもやっぱりまずいなってことで。まぁ、若い子に手を出すことはそれぞれがお互いに幸せなら特に違和感はないけど、人形(ひとがた)オタクっていうなら、光君、こいつでしょう」 そう思っていたのです。

だから、薫が少し歪んでいるのは本人の咎ではなく、もしかしたら桐壺・桐壺帝の呪いに支配されているからかもしれないとまで思っていた。

桐壺帝の偏愛が原因で、桐壺は「身分違いだ、頭が高い」とウンコをばら撒かれるほどに虐められて、でも帝の偏愛は収まらず、そんなこんなでやがて死んでしまった桐壺は、可哀想な子だ。父親は大納言レベルで、しかも亡くなっており、後ろ盾もないまま病気で弱っていく。本当は生きたいと願っていたのに。

限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり

定められたお別れの道を悲しく思います、私の行きたいのはこの道ではなく、生きていく道ですのに

もちろん、嫌がらせをする側にはする側の理由があったのだろう。でも、桐壺には、んなこたぁ関係ない。死んじまったうえは、「我こそは玉梓が怨霊、憎っくきは里見義実、孫子の代まで祟ってやる〜」(新八犬伝)てなもんだ。祟りは孫・子の代までが基本となる。

もちろん、八の宮を生んだ奴も桐壺にすれば《彼ら》の一派だ。八の宮が政争で負けたのも、光君の子でありながら実の子でない「形」の子である薫が、恨みの「形」を引き継いだ八の宮の三姉妹とうまくいくはずがない。死ね、死ね、みんな死ね!! あたしに意地悪をして、あんな風に冷たい目で見た奴は、 みんな不幸になれ! 桐壺帝、おまえもだ。それが桐壺の呪いだ。

そういえば、先週、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の読書会の最終会があり、そこで、主体・対象・媒体という〈欲望の三角形的構造〉の話になった。

なんでそんな話になったのかというと、スメルジャコフはイワンの父殺しの欲望の形を、自らに取り入れてしまったのではないのかという話からだ。人は他者の欲望の形を媒体として対象を欲望する。つまり、スメルジャコフはイワンの欲望を取り入れた《人型(ひとがた)》なのだというような話だ。

面白いなと思った。そう考えれば、『カラマーゾフの兄弟』に取って付けたように登場するコーリャの存在意義がはっきりする。イワンとスメルジャコフと同型の関係が、アリョーシャとコーリャの関係に写像されていると考えると納得がいく。

でも、コーリャはアリョーシャのどのような欲望を転写したのだろう。読書会でも「なぜリーザはアリョーシャを嫌ったのか」という話に展開した。そう、『地下室の手記』のヒロインと同じ名前を持つ《リーザ》だ。

読書会では、「リーザは足の悪い子だった。アリューシャはリーザが足の悪い子だから好きという、歪んだ自己愛的な欲望を抱いていたのではないだろうか。リーザはそのことを気持ち悪いと直感し、だからアリョーシャから離れていったのではないか」 とても面白い仮説だ。

だとすれば、コーリャの歪んだ欲望は、「劣ったものを助けたい」という、アリョーシャの歪んだ神からの欲望の転写だ。アリョーシャは神になることに憧れていたのかもしれない。だからゾシマの死臭を嗅いでがっかりし、カナの婚宴の美しい夢を見たのではないだろうか。

そんなアリョーシャの歪んだ欲望を、コーリャが憧れから、しかもさらに歪んだ形で転写してしまっただとすれば、ああ、なるほど。コーリャが友達の犬を己の思うがままに不様に躾たのはそのためかと合点がゆく。また、ゾシマがアリョーシャを教会から離れるように言ったのも、ゾシマ自身も持つ神への歪んだ欲望をアリョーシャの中に見出したからなのかもしれない。

であれば、『カラマーゾフの兄弟』という話の中で、実は本当に無実なのはミーチャだけということになる。

ミーチャは彼自身が父親の歪んだ転写だったが、彼自身は新たな別の転写も《人型(ひとがた)も生み出さなかったからだ。ゾシマはミーチャにこそ聖性があり、アリョーシャにはないことを見抜いていたのかもしれない。

イワンとアリョーシャのそれぞれが、自らの欲望の転写と《人形(ひとがた)》を生み出していくとすれば、イワン以上にアリョーシャは気持ちが悪い存在となる。《リーザ》はその気持ち悪さ見透かしていたことにもなる。

「君にジュースを買ってあげたい」と歌う《僕》の、《形》への欲望と傲慢さ、そこに見え隠れする邪悪さに「うげっ」となる気持ちは、自らの《形》を自愛する《アリョーシャ》を直感で避けた《リーザ》の気持ちに重なる。

薫もまた、桐壺の呪いを受けつつ、光君の《形》を受けつぎ、《形》を欲望するものといえる。大君から中の君、浮舟へと自らの思いを転写し、転写の過程では匂宮にさえ自らの思いを転写し、さらにウジウジと後悔する。うーん、アリョーシャと薫はとても似ている。確かに気持ちが悪い。

そう考えれば、匂宮の無垢な無邪気さは、『カラマーゾフの兄弟』のミーチャに重なるのかもしれない。アリューショは気持ち悪く、ミーチャの方がいいという気持ちは、薫と匂宮との関係とも重なる。あるいは、より自覚的に自らの罪を認識していたイワンの方が、アリョーシャよりはまともだとするのも当然の思いかもしれない。

まぁ、結論としては、紫式部はやっぱり薫派だったんじゃないかと、薫好きの私が思っていることは変わらないが、薫を「気持ち悪い」と感じる気持ちを、自分の中で少し納得できたような気がする。

ちなみに私はドストエフスキーよりも紫式部派です。『源氏物語』の推しキャラ選挙も紫式部に一票という気持ちだ。だって、宇治十帖の少将なんて、その発言でスーパーリアリズムを炸裂させている上に、どこか匂わせ清少納言ディスな感じがして最高なのだ。

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