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変化の予兆:そこそこのデザイン

ユニリーバの日本法人がデザイン選定にAIを用いて開発期間を短縮したという記事を読んだ。面白い記事だなと思う。

面白さのポイントは、「AIが選んだ」という部分ではなく、消費者調査を「ある程度簡略化できた」という点だ。だからこの記事は、「宮崎駿にデザインしてもらうような"すごいAI”」という話とは本質的に意味が違う。

ゆっくりとデザインファームに求められる《そこそこ》の能力の部分は毀損され、やがて不要になっていくだろう。《そこそこ》のセンスの大衆化と底上げも起きる。生成的AIと消費者嗜好AIとを組み合わせれば、《そこそこ》のデザインはできてしまうのだから。

この記事の社会的な意味はまだわからない。ただ人が好みそうなものがこうやってAIネットワークから生み出され選択され続けると、人の好みもそっちの方向に引っ張られていくのかもしれない。テレビによってみんなの化粧のレベルが上がっていったように。そして、どこかみんな似てくるように。

その結果、人はあえて外れ値を求めてガングロへと突き進むのかどうかもわからない。以前、化粧品メーカーの人が社内で企画したワークショップの話を聞いたことがある。化粧というキーワードを聞いて思いつつ言葉を連想ゲームのように出しながらその言葉への支持を評価していくというワークショップだったそうだ。意外だったのは【異形】がかなり注目度が高かったということ。参加したという社員が若い人たちだったと聞く。【異形】への希求は社会側からの反作用なのかもしれない。

最終的に人々の【好み】が《そこそこ》のデザインによって均質化されていくのかどうかはまだわからない。

いずれにせよ、新商品が出ることよりも、新しい社会性や文化が生まれることの方が影響はずっと大きくて根本的だ。自動車が普及したときに人々の移動に関する価値基準が変わったように。高速道路網が発達し風景が変わったように。クロネコヤマトやAmazonのインパクトが私たちの購買行動に大きな変化をもたらしたように。

(写真:つのだよしお/アフロ)

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